ブログ 「ごまめの歯軋り」

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文芸散歩 斎藤茂吉著 「万葉秀歌」 上・下(岩波新書 1938年11月)

2017年10月10日 | 書評
精神科医でアララギ派の歌人斎藤茂吉が選んだ万葉集の秀歌約400首 第4回
巻 1
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11) あかねさす 紫野行き標野行き 野守や見ずや 君が袖振る   額田王(巻1・20)
・ 天智天皇が近江の蒲生に薬猟された時、大海人皇子らも従った。額田王がかっての夫におくった歌で、超有名な万葉歌として知られる。「標野」は御料地でしめ縄を張って人の出入りを禁じたいわれからくる。結句の「袖振る」は強い女の気持ちの表出であるという。   
12) 紫草の にほえる妹を 憎くあらば 人嬬ゆえに あれ恋ひめやも   天武天皇(巻1・21)
・ 前の額田王の歌への返し歌である。純粋と集中という点で万葉集中の傑作のひとつだという。  
13) 河上の 五百筒磐群に 草むさず 常にもかもな 常処女にて   吹黄刀自(巻1・22)
・ 十市皇女(父:大海人皇子、母:額田王)が伊勢神宮に参拝されたとき、従った老女吹黄刀自が波多横山の巌をみて詠んだ歌。皇女に対する敬愛の情がみてとれる。常少女(処女)という古語がゆかしいという。十市皇女は大友皇子のお妃として葛野王を生んだが、壬申の乱後大和に帰った。激動の7世紀の厳しい境遇が思いやられる。 
14) うつせみの 命を惜しみ 波に濡れ 伊良虞の島の 玉藻刈り食す   麻続王(巻1・24)
・ 麻続王が伊勢の伊良虞に流され、余生を送った時の歌。哀れ深い響きを持ち、「うつせみの 命を惜しみ」に一首の感慨が集中している。書紀には麻続王が配流された地は出雲とされているが、伝説化の過程で、常陸行方とか、伊勢説などが生まれたという。
15) 春過ぎて 夏来たるらし 白妙の 衣ほしたり 天の香久山   持統天皇(巻1・28)
・ 藤原宮の持統天皇の御製である。「らし」(推測)、「たり」(確定)の「い」の韻で調子を作っている。小倉百人一首では「けらし」、「ほすてふ」となって随分印象がことなるのである。目に鮮やかな写生歌である。
16) ささなみの 志賀の辛崎 辛くあれど 大宮人の 船待ちかねつ   柿本人麿(巻1・30)
・ 天智天皇の近江の宮跡の荒れた様子を見て作った長歌の反歌である。大津京(志賀宮)のささなみ楽浪とは、湖西一帯の地名である。志賀の辛崎には何事もないが、もはや大宮人の船はやってこない。  
17) ささなみの 志賀の大曲 よどむとも 昔の人に 亦も逢はめやも   柿本人麿(巻1・31)
・ 前の歌と同じように柿本人麿は志賀の京のさびれた様を嘆き、「船待ちかねつ」、「亦も逢わ¥はめやも」と強い言葉の力で結んだ。
18) いにしえの 人にわれあれや 楽浪の 故き京を 見れば悲しき    高市古人(巻1・32)
・ 高市古人が近江の旧都を懐かしんだ句で、一説には高市黒人作ともいう。天智天皇派の古い人間なのかもしれないと最初に断りを入れている。これらを主観句という。 
19) 山川も よりて奉ふる 神ながら たぎつ河内に 船出するかも   柿本人麿(巻1・39)
・ 持統天皇の吉野行幸の時、従った柿本人麿の献上した歌である。「滝つ河内」は今の宮滝付近の吉野川で、水の廻る流れが強い。か行の開口音が全体の調子を作っているという。 
20) 英虞の浦に 船乗りすらむ おとめ等が 珠裳の裾に 潮満つらむか   柿本人麿(巻1・40)
・ 持統天皇が意背に遊ばれた時、柿本人麿は飛鳥浄御原宮に留まり、行幸を思って献上した歌。一句に「らむ」を2回使って、流れるような歌を構成している。 

(つづく)