ブログ 「ごまめの歯軋り」

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文芸散歩 斎藤茂吉著 「万葉秀歌」 上・下(岩波新書 1938年11月)

2017年10月19日 | 書評
精神科医でアララギ派の歌人斎藤茂吉が選んだ万葉集の秀歌約400首 第13回
巻 3
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101) 吉野なる 夏実の河の 川淀に 鴨ぞ鳴くなる 山かげにして   湯原王(巻3・375)
・ 湯原王(志貴皇子の第2皇子)が吉野で作られた御歌である。「夏実川」は吉野川の一部で、宮滝の上流にある。結句の「山陰にして」は作者の感慨が集中した言葉である。静かなところだと言いたいのであろうか。従来よりこの歌は叙景歌の極めつけのように言われてきた。カの発音が多い(河、川、鴨、かげ)こと、「なる」が2回使われ、平易な歌にリズムを作っている。
102) 輕の池の 浦回行きめぐる 鴨すらに 玉藻のうへに 独り宿なくに   紀皇女(巻3・390)
・ 紀皇女(天武天皇皇女で穂積皇子の姉)の御歌である。平易な歌で比喩歌で、鴨に寄せて自分の心情を吐露したものである。一説に皇女の恋人の高安王が伊予に左遷された時の歌であろうとされる。
103) 陸奥の 真野の草原 遠けども 面影にして 見ゆとふものを   笠女郎(巻3・396)
・ 笠女郎が大伴家持に贈った歌3首のひとつ。比喩歌で、陸奥の真野は遠いけれども面影にして見えてくるものを、あなたはちっともやって来ないという女の愚痴だという読み方と、「陸奥の真野の草原」までは遠いに係る序詞として、あなたに遠く離れていても、面影は浮かんできますという女のいじらしさと読むこともできる。さてどちらでしょうか。本人に聞いても口を濁して曖昧な事しか言わないもの。
104) 百伝ふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ   大津皇子(巻3・416)
・ 大津の皇子が謀反の罪で死を賜った時、磐余の池のほとりで、涙を流して読まれた歌と題詞に書いてある。時に24歳であった。妃山辺皇女は髪を洗ったのち殉死したという。「百伝ふ」は五十(い)そして磐余にかかる枕詞になった。磐余の池に鳴く鴨の姿を見るのも今日限りで私は死ぬという意味である。この歌は全生命を託した語気に圧倒されるが、有馬皇子の御歌と同じように、万葉集中の傑作である。
105) 豊国の 鏡の山の 石戸立て 隠りにけらし 待てど来まさぬ   手持女王(巻3・418)
・ この歌と次の歌の2首は、太宰師だった河内王を豊前国鏡山(田川郡鏡山)に葬ったとき、手持女王が詠まれた歌である。女性の語気が自然に出ている挽歌である。事実を淡々と述べて、結句「待てど来まさぬ」で哀惜の情がほとばしり出ている。「石戸」とは石棺の安置された石郭の入り口である。
106) 石戸破る 手力もがも 手弱き 女にしあれば 術の知らなくに   手持女王(巻3・419)
・ 前の歌と同じ心境であるが、再生を表現する古事記の天の岩戸神話の話を借用されている。
107) 八雲さす 出雲の子等が 黒髪は 吉野の川の 奥になずさふ   柿本人麿(巻3・430)
・ 出雲娘子が吉野川で溺死した。火葬に付した後、柿本人麿が詠んだ歌。人麿と出雲娘子の関係は不詳である。「八雲さす」は出雲にかかる枕詞。「等」は複数ではなく、親しみの詞。「オッフェリア」と同じく、女の水死者の髪が揺蕩うさまは美しくもあり、人麿は真心こめて追悼しているのである。
108) われも見つ 人にも告げむ 葛飾の 真間の手児名が 奥津城処   山部赤人(巻3・432)
・ 山部赤人が下総葛飾の真間の娘子(真間の手児奈)の墓をみて詠んだ長歌の反歌である。「手児名」は処女のこと。歌枕としての「真間の手児奈の墓」を解説する下の句は淡々としたそっけないものであるが、上の句の「われも見つ 人にも告げむ」は赤人の同情が現れている。
109) 吾妹子が 見し鞆の浦の 室の木は 常世にあれど 見し人ぞ亡き   大伴旅人(巻3・446)
・ 太宰師大伴旅人が、大納言を拝命して京へ還るとき、備後鞆の浦を過ぎて詠んだ3首の歌である。「室の木」とは「杜松」である。鞆の浦の室の木はいつまでもあるが、大宰府赴任の旅で妻と一緒に見た大木も、還りの旅では妻は任地で亡くなり、自分ひとりで見ることになった。吾妹子と見し人は同じ人である。
110) 妹と来し 敏馬の埼を 還るさに 独りして見れば 涙ぐましも   大伴旅人(巻3・449)
・ 第2首はさらに進んで摂津の敏馬(みるめ)の埼を過ぎて詠んだ歌である。「涙ぐましの」という句はこの時代に初めて使用された。歌全体は淡々と進むが巧まずして最後に悲哀がどっと出てくる。

(つづく)