ブログ 「ごまめの歯軋り」

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本庶佑著 「がん免疫療法とは何か」

2021年06月06日 | 書評
京都市中京区二条通東洞院 「東洞院薬局」

本庶 佑 著 「がん免疫療法とは何か」 

岩波新書(2019年4月)(その8)

第3章 命とは何か

⑤ ゲノムに刻まれる免疫系の記憶
医学研究の大きな成果の一つは、ワクチンの発見による感染症の予防である。その本質は免疫系の記憶にある。したがって病原性の弱い病原体に感染すると、次に強い病原体に感染しても重篤な状態にはならない。1796年ジェンナーによる天然痘の種痘が始まりといわれているが、紀元前より感染症にかかって命を取り留めた人は同じ感染症にかからないということは知られていた。ジャンナーは医学の術として確立したというべきなのであろう。古来、ほとんどの人は感染症で死亡した。自然免疫は病原体の構造の共通パターンを認識して、病原体に対する反応を刺激するものであり、自然免疫のパターン認識受容体はTOLLと呼ばれる。昆虫で発見されたものだが、脊椎動物にも類似のTOLL様受容体TLRと呼ぶ。ヒトのTLRは11種類発見されており主にマクロファージ上に表現される。脊椎棒物の免疫の主流は獲得免疫系である。様々な抗原を認識し記憶する高度な防御系である。リンパ球の表面に抗原を認識し結合する受容体が発現される。リンパ球B細胞によって作られた抗原受容体が血液中に分泌されたものが抗体である。19世紀末、抗原の中和抗体を明らかにしたのがベーリングと北里柴三郎であった。抗原を抗体分子に記憶させる方法には二通りある。第3節で述べたので繰り返さないが、一つは抗体可変部遺伝子に突然変異を導入する方法とクラススイッチ法である。抗体クラスは定常部によって決められる。それらの組み換え数の膨大な可能性によってほぼあらゆる抗原に対応できるのである。そのゲノムに変異を刻む酵素がAIDである。2006年に、AIDは抗体遺伝子の免疫記憶という変異を起こす以外に、病原体感染によってガン遺伝子に変異を誘導し発がんに至るという驚くべき展開がみられた。C型肝炎ウイルスの感染した肝臓細胞や、ヘリコバクターピロリに感染した胃壁細胞でAIDの発現が起きるという報告で会った。ヒトバーキットリンパ腫にもAIDは関係するようだ。AIDは感染症防止機能のほかに発がんという両面の機能があることになる。

⑥ 内なる無限-増え続ける生物種
地球上の生物種は数えることはできないが、推計によって約180―1000万種といわれている。記載される生物種は分類記載法が決まってから200年以上にわたって増え続けている。中でも細菌の数は想像を絶するくらい多種であるらしい。細菌を純粋培養せずともDNAを増幅して塩基配列を決定する「メタゲノム」法からの推計である。細菌には様々な力があり、環境対応性、エネルギー資源利用など人類に貢献しているが、ヒト個体の中にいる共生細菌である腸内細菌から栄養を受けとり、一定の免疫刺激を受けている。太古の進化をたどると、細菌が真核生物の細胞に潜り込んだ形跡である、ミトコンドリアや葉緑体遺伝子群がある。これらは細胞小器官と呼ばれ、いずれも真核生物の核とは異なる独自の遺伝子情報を持っている。細胞内への共生では生命体の独立性は失われ、宿主細胞と運命を共にする。なかには宿主細胞の核DNAに一部移ったものもある。有性生殖の微生物の接合が起こり、遺伝子情報の交換が行われる。薬剤耐性の遺伝子が性決定遺伝子とともに同じプラスミドに乗ると、その形質は同種の微生物に広がる。

⑦ 生・老・病・死
命あるものは必ず滅ぶ。細胞分裂で増殖する大腸菌のような原核生物では個体は生殖細胞と同一であるから、寿命という概念は成立しない。多細胞生物として有性生殖をおこなうとき、世代をつなぐ生殖細胞の連続性と個体の死がはっきり分かれた。生命体の寿命も遺伝情報の中にプログラム化されているはずである。寿命を規定する遺伝子研究はまだそのプログラムの全貌を明らかにしていない。細胞の分裂回数が規定されるという説がある。染色体の末端にあるテロメアの長さが分裂ごとに減少し寿命をプログラム化しているようである。生命体の生存は、先天的な遺伝情報と後天的な環境情報との間の緊張と調和のバランスの上に成立している。免疫系の働きで近年著しくヒトの寿命は延びた。環境情報である食事の質によって、エピジェネチックな修飾が起き遺伝子発現が変化することがある。インシュリン様成長因子受容体IGFRとそれを介する情報伝達経路の変異によって寿命が延びることが知られている。大部分の病気は環境要因と遺伝的要因の組み合わせで発症する。医学の目的は永遠の命を目指すものではなく、天寿を全うするものである。

⑧ ガン、細胞と個体の悩ましき相克
人類を悩ます病気の中で、ガンほど人々の生き方に影響を与えるものはない。20世紀後半に行われたアメリカのガン征圧プロジェクトは230億ドルを投入して、1993年次のような評価を行った。「分子生物学や基礎研究の進展はあったが、ガン征圧の成果には落胆を禁じ得ない」 ガンが遺伝子病であることは確かである。しかも広範な複数の遺伝子が関係している。遺伝的形質に依存するガンの例として、網膜芽細胞腫はRB1遺伝子の変異で起こる。RB1遺伝子は細胞分裂制御にかかわる遺伝子である。両親から受け継いだ遺伝子の両方に変異が起きた場合のみ発病するのは「がん抑制遺伝子」である。片方の遺伝子の変異でガンになるとき「原ガン遺伝子」である。AID遺伝子は、B細胞のみで発現しているときは免疫関連遺伝子であるが、ウイルス感染などでB細胞以外でも発現すると発がんに結びつくと考えられている。近年、ガンの診断や予後は著しく改善された。それは診断法の進歩と予防法が進歩したからである。しかしガンの特効薬はない。化学抗がん剤は増殖阻害剤である。副作用の改善は進んだが、如何に特異的にターゲットに薬剤を送り込むかというドラッグ・デリバリーに力がそそがれている。抗白血病剤として最も優れた「イマチニブ」が開発された。ガン免疫治療法については、第2章で記述したので省略する。

⑨ 生命科学の未来
20世紀後半から分子生物学という潮流が起こり、生命科学は分子レベルでその機能を理解できるという確信が生まれた。21世紀冒頭にヒト全ゲノム解読が成功し、2万を超えるたんぱく質コードの解明がなされた。翻訳されるたんぱく質遺伝子情報はRNAのスプライシングを受け、おそらく数倍のたんぱく質の翻訳がなされ、糖鎖の修飾だけでなく、リン酸化、アセチル化、メチル化などたくさんの修飾を受けて、蛋白の会合、低分子代謝産物との会合が行われる。その組み合わせはおのずと細胞の数10^13をはるかに超え10^20ほどの複雑さ御持つと思われる。たがってこれまでの分析的手法でどこまで解析できるかは定かではない。生物学を大きな制御・統御システムとしてとらえる生理学の潮流が21世紀の生命科学の方向性を決めるだろう。「生きていることはどう云うことなのか」を問わなければならない。

(つづく)