ブログ 「ごまめの歯軋り」

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J・ハーバーマス著 三島健一訳「デモクラシーか資本主義か」 

2021年06月28日 | 書評
京都市左京区岡崎 「黒門 光明寺」

J・ハーバーマス著 三島健一訳「デモクラシーか資本主義か」 

岩波現代文庫(2019年6月)(その2)


第Ⅰ部
1-1) 危機の由来
シュトレークは戦後から1970年代に至る時期に作られた社会福祉国家体制をスケッチすることから始めた。その後に生じた新自由主義改革(改悪?)は資本の増殖条件を改善するもので、煩わしい共同体との交渉を省いて、市場の規制緩和を果たした。規制緩和は労働条件のみならず商品・サービス、資本市場の効率化、IT化を高めた。そして株主価値を上げることのみが企業経営の最高規範となり経営者報酬はとてつもなく高額となった。レーガンとサッチャーとともに始まったこの新自由主義的転換は、資本側が民主主義な国家を押しのける突破口であった。この転換前の民主主義国家は新自由主義者や資本・投資家から見ると、社会的正義を基準とすることから企業の利潤率を下げ、経済成長を妨げるものであった。70年代はインフレ率が高まり、公的負債と家計負債が大きくなり、同時に国家の租税収入が減少した。社会的不平等の拡大は租税国家の財政的基盤をもはや市民の負担で支えられなくなった。それは直ちに国債の信用に依存し、民主主義的な債務国家へと変身した。租税国家が負債国家に変貌するために、つぶれそうな銀行団によって国家は破産寸前に追い込まれる。こうして金融資本主義は負債国家の国民を保護監督下に置いた。2011年のG20のカンヌ会議において、ギリシャ政府は資本に友好的なドイツ政府の要請を受け入れるかどうかの国民投票を放棄させられた。欧州通貨同盟の財政安定化政策は、個々の国の経済の発展段階の相違を無視し、一律の規則に従わせ、各国政府への介入権や制御権を行使するために首脳会議と欧州委員会へ権限を集中させた。欧州会議の無力化と欧州委員会への権限の集中は、市場盲従を是とする各国政府の協力を通じて、金融テクノロジー独走を生み出した。こうした体制は公共圏や議会とは無縁の統治連邦主義が欧州を支配するのではないかという心配をもたらした。ヨーロッパの各国政府の財政再建は、金融投資機関と化したEUによるヨーロッパ国家体制改造を目指している。それはヨーロッパにおける資本主義的民主主義の新体制づくりといえる。サッチャーの後継者をもって任じるイギリス首相キャメロンは民主主義と資本主義の結合を解消し、ヨーロッパが競争と柔軟性からなる現代社会を認めることを導こうとする。通貨同盟をさらに拡大し、超国家的な民主主義へ発展させる政治が主流となるなら新自由主義の流れを逆転させることができるはずである。

1-2) ノスタルジー型オプション
シュトレークは市場をもう一度社会的監督下に置くことができる制度を確立することであると説く。彼は言う。「再生可能な労働のための市場、自然を破壊しない財の市場、果てしない約束を大量生産する誘惑に屈しない債権のために市場を」を作り上げなければならない。そのための彼の具体策は頂けない。歴史の時計を逆戻りさせる解体作業である。弄ばれた国民がとっくの昔に無力化した主権国家を再建する夢である。このノスタルジー的なオプションである。しかし世界社会は高度に相互依存性を高めている。世界社会はシステムとしては融合しつつあるが、政治的にはアナーキーである。それはリーマンショック後のBRICsを急遽集めたロンドンG20 の無能力であった。もはや国民国家は機能していなかった。世界は金で融合した世界社会であるが、政治的には断片化しており、協力しあう能力を欠いた国民国家の空洞が明らかになった。国民国家の行政行為は想像を絶した規模で膨張し機能を喪失していたが、金融セクターから出される至上命令から逃れることはできなくなっていた。国家は国際条約という手段しか残っていないなら、金融センターを実体経済が必要とする範囲内に縮小することは到底不可能である。欧州通貨同盟の国家群は逆戻り不可能までグローバル化した市場を政治的影響力の枠内に取り戻さなければならない。ところが通貨同盟の国家群の政治的な危機管理は、時間稼ぎを狙った政策を行うテクノクラートの支配を拡大しているに過ぎない。シュトレークは、投資家の力の源泉は進化した国際統合と効率的なグローバルマーケットの存在であることは承知している。グローバルに統合された金融市場は、国民国家単位で組織された社会よりも組織上の優位性を持っている。国民国家の残余にしがみついては、捨て鉢な行動に出るか深い悲観論に落ち込むしかないのだろうか。資本主義と民主主義の乖離といってしまえば、打開のための前進はない。

(つづく)