できることを、できる人が、できるかたちで

京都精華大学教員・住友剛のブログ。
関西圏中心に、教育や子ども・若者に関する情報発信を主に行います。

「縦割りのタコツボに細分化された仕事」を「ヨコにつなぐ」作業

2017-07-10 23:41:42 | 学問

ほんとうはある人にかかわるひとつひとつの出来事、もの、ひと等々が、別の出来事、もの、ひと等々と複雑に、いろんなかたちでつながりあっている。

また、あるポジションに立ってみると、そのつながりあいがいろんな形で見えて来て、次々に「あっ、これも!」「こっちも!」っていう具合に課題も見えてくる。

でも、そういう風に次々に課題がつながって見えてくると、考えるべきこと、やるべきことも増えて来て、とってもしんどい。

だから、どこかでその出来事やもの・ひと等々のつながりを「あえて、見ない」ようにしてみたり、「あえて、考えない」ようにして、自分を楽で、安全・安心なポジションに置いたりする人もいる(ついでにいうと、研究者の世界での「〇〇学」や「〇〇論」の「専門」なるものも、もしかしたら、この「あえて、考えない」「あえて、見ない」ことの仕切りをつくることによって成立しているのかもしれない)。

でも、いったんその「あえて、見ない」ことや「あえて、考えない」ようにしてきたこと課題に気付き、その課題から自分に深く、何か問いかけられているように思ってしまったときには・・・。

実は、こちらがどれだけしんどくても、向こうからその課題が追っかけてくるから、結局、逃げられなくなるんだよねえ。なにしろ逃げても逃げてもその問いかけ、その課題が追ってくるから、それに立ち向かう術と知恵を自分で編み出して、なんとかしのぐしかなくなる。

自分がこれまで取り組んできたこと。それは研究上の課題であれ、大学教員としての教育や大学運営の仕事であれ、市民活動の課題であれ・・・だけど。そういう自分のこれまで取り組んできたことというのは、なんかこの「逃げても逃げてもその課題、その問いかけが追いかけてくる」ような、そういうものばかりだったような気がするなあ。
ふと、今夜はそんなことを思いました。

なにしろ・・・。もともとの資格課程部門(特に教職)に加えて、副専攻「福祉」コースの準備、障がい学生支援の取り組み、そして高大接続と、人文学部のゼミ担当離れたら、次々に「全学」の教育課題への対応のお仕事が押し寄せてきているもんなあ・・・。いったい、いつになったらヒマになるんだろう・・・。

でも、たとえば教員(研究者)と事務職とか、「〇〇学部」のカリキュラムとか、そういう従来ある「縦割りのタコツボに細分化された仕事」を、「今度は全学的な見地から、現場レベルで日々「ヨコにつなぐ」という仕事があるよな~」なんてことをふと気づいてしまうと、「あっ、これもやらなあかん。あれもやらなあかん」と思ってしまう自分があるわけでして・・・。

そうそう、この「縦割り」のタコツボに細分化された仕事を、別の観点から「ヨコにつなぐ」という意味では、これ、地元・兵庫の教組での私のかかわりもそうだし(生活指導部会と養護教員部の両方に顔出してますから・・・)、研究面で「教育学と〇〇学の連携」みたいなテーマにこだわるのもそうだし、「〇〇運動(主に人権にかかわる社会運動)でやってきたことを、学校事故・事件の取り組みに応用してみる」とかいうのもそうだし・・・。

どうやら自分は、「縦割りのタコツボに細分化されたこと」を別の観点から「ヨコにつなぐ」ことに、今はいろんな領域でこだわっているんだな~って、ふと、思いました。



最新の画像もっと見る