最近読んだ本、久繁哲之介『地域再生の罠ーなぜ市民と地方は豊かになれないのか?』(ちくま新書、2010年)には、次のような文章が書いてあった。(以下、青字部分は同書からの引用、p.00は引用ページ)
イベントにおいて大切なのは、主催者も遊ぶことである。つまり、当事者である商店街の人たちみずからが楽しむことで、訪れた市民とのあいだに交流がうまれ、あらたなコミュニティが気づかれていく。それが次のビジネスに繋がるのである。(p.56)
これはもともと、商店街活性化の取り組みで行うイベントについて書いたことだが、今の「人権のまちづくり」を目指す大阪市内や大阪府内の各地区の取り組みにもあてはまることではないのだろうか。
あるいは、これまでの「人権のまちづくり」の取り組みのなかでも、以下のような「地域再生の罠」にはまっているようなケースは起きていないのだろうか?
地域再生関係者
①大型商業施設に依存し、大都市への憧れが高い。すなわち、地域に「ないもの」をねだり、経済的な豊かさばかり求める。その結果、地域資源や心の豊かさを見失う。
②経済的欲望の高さからか、成功事例などハウツー論に飛びつく。
土建工学者
③地域再生関係者に成功事例の模倣を推奨する。だが、その多くが「実は成功していない」し、稀にある成功事例は、市民のニーズや価値観とは違う「遠い過去か異国」のものである。
④自らの理想とする都市政策や器を先に造り、市民がそれに合わせることを強要する。
自治体
⑤専門家の上から目線による「成功事例」に価値を置き、市民目線と顧客志向に欠ける。
⑥前例主義で、「実は成功していない」前例を踏襲して、地域を衰退させる。
⑦縦割り主義で、各組織は連携せず、各組織の目的だけを叶える。効果の出ない施策をつくる。しかも他組織との整合性に欠けて弊害を生む。その結果、地域は疲弊する。 (以上、p.162~163)
ちなみに、著者はこの①~⑦をあらためて次の2つの論点に整理している。
ア 「目に見える」「誰でもわかる」ものを偏重し、とりわけ「数値や力の大きい」ものや権威に依存する。
イ 「目に見えにくい」「気がつきにくい」ものを軽視する。
ここを読んで、「これって、この何年かの大阪市の行財政改革で行われてきたことではないのか?」とか、「橋下知事の府政改革もこれではないのか?」とか、いろいろ、突っ込んで考えてみたくなった。と同時に、今の人権教育関係の議論での「学力」テストの結果へのこだわりもそうかもしれない、とも思ったりもする。
それから、こんな指摘もある。これは農産物の「加工品」直売所を街中につくり、市民、特に「未成年者」が好むような「地域産品を加工したおやつ」をそろえ、安心して交流できる場をつくる、という提案に関して書かれた部分である。
既存の「野菜直売所」のビジネスモデルは、主に「郊外」で「車で遠方から来る大人の観光客」を相手に「とれたての地域産品を加工せず、そのまま並べて売る」ものだ。私の提案は、「地元未成年」を相手に「加工したおやつ」を揃えて、「街中」に安心して交流できる拠点をつくり、地域愛を育むことに繋げるようなビジネスモデルに変更するのである。
いまの学生たちにとっては、放課後に友人と軽い飲食をしながら語らう「たまり場」は、主にコンビニエンスストアやファストフード店など大資本チェーンの「需要吸収型商業施設」である。
大資本チェーン店を愛用して育った若者に、はたして地域再生に欠かせない「地域愛」が育つだろうか。(p.211)
これは、大阪市内や大阪府内の各地区で、青少年の拠点施設がなくなったあとに、ひとつ、子ども会・若者のサークル等の復活をめざすのであれば、ひとつ、取り組んでみてもいい活動ではないだろうか。地元の商店街の空き店舗をひとつ借りて、何人かのおとなが交代で詰めて、子どもや若者のこづかいで買えそうな「手作りおやつ」と飲み物を提供するような、そんな駄菓子屋感覚の「たまり場」が運営できれば・・・・と思ってしまう。
あるいは、次のような指摘もある。
たとえ不況であろうと、「健康、食、交流」という人の普遍的ニーズに対して市民は持続的かつ積極的に消費する。持続可能な賑わいは、人の普遍的ニーズを満たすことで生まれる。(p.230)
たとえば先日、大阪府内のある地区で取り組んでいる「あったかサークル」の活動の様子を見てきたが、そこでは毎週、地元の高齢者などを集めての昼食会に取り組んでいる。また、そのサークルがかかわる形で夏祭りなどを行い、子どもたちを集めて模擬店を出している(当然、そこには食べ物が出る)。そして、昼食会には毎回数十人単位で、夏祭りには百人以上の規模で、それなりの参加者が得られている。やはり「健康、食、交流」をテーマにした活動というのは、地域社会における人々のつながりの活性化につながるのではないだろうか。
そして、この本は終わりの章(第9章)で、次のようにもいう。
現在の地域再生に関する施策形成の問題点は、市民のニーズを知らない自治体と専門家が、市民の声を聞かずに机上で決めることにある。こうした施策が地方都市を疲弊させていることは、これまでに考察したとおりである。
したがって、地域再生はまず、市民が主役として関与する仕組みが求められる。その仕組みは机上で考えるのではなく、現場での交流・体感を通してつくられることが望ましい。(p.247)
これを大阪市内や大阪府内各地区での子ども・若者に関する取り組みにあてはめるならば、「なにをしていいかわからずに困ったのならば、まっさきに子ども・若者やその保護者の話を聞くべし」ということであろう。逆に言えば「当事者のところにきて、話を聞こうともしないような専門家の理論や、そんな専門家と行政がいっしょにつくったプランなどは、まっさきに疑ってかかるべし」ということでもある。
だから、もしもどこかの市の行政施策のプラン作りが民間のコンサルタント会社に「丸投げ」されてつくられているのだとしたら、そんなプランは疑ったほうがいいだろう。
また、各地区で地元の人たちが「まちづくり」に限らず、子育てに関することや文化に関することなども含めて、何らかの形で運動の再構築に取り組むのであれば、「自分たちの話をよく聴いて、いっしょに考えてくれる」とか、「自分たちの暮らす場に入ってきて、いっしょに動いてくれる」ような専門家との協働・連携を考える必要があると思う。
そんなことを考えたのが、今回読んだこの1冊だった。
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