この前読んだ雑誌『論座』の2008年9月号に、石田英敬「〈笑う〉タレント知事とポピュリズム」という論文が掲載されていた。
詳しいことはこの論文を直接読む(=つまり、『論座』を買うか、図書館かどこかで見る、ということ)ことをお勧めしたいのだが、メディア論の研究者が橋下府知事就任以来の大阪府下の政治情勢を、「〈笑い〉によるむき出しの『象徴暴力』の支配、『笑いのファシズム』状態である」(p.62)とか、「福祉国家の解体期において、社会コストの削減を推進するためのスペクタクル政治の活用法がそこには見えている」(p.63)と批判する点には、私も「なるほど」と思ってしまった。
特に、この論文の次の部分については、「この間の大阪府下の政治情勢を、うまく整理してまとめているなぁ」と思う。
○以下、青字部分は、同論文のp.62~63からの引用(原文のまま)
朝礼で、橋下に抗議の声をあげた女性職員は、すぐにメディアポピュリズムの餌食になり、ネットでは実名や映像が公開されて、集団的〈笑い〉の血祭りに上げられる。疑問をいだく議員や職員には「抵抗勢力」のレッテルが張られ、メディアによるバッシングの対象となる。
そのようにして、経済不況にあえぐ人びとの不満は、公務員や官僚バッシングへとリサイクルされ、公的な事業の見直しは詳しい内容を伝えられることなく、有無を言わさず削減が決定され、結果として、最も恵まれない人口層が、自分たち自身への公共サービス削減に喝采を送るという構図が生まれることになる。ポピュリズムの政治とはいつもそのようなものだ。
それだけではない。橋下知事の軌道修正を見ていると、財政再建のシナリオとアクションが、府議会与党、府幹部によって、次第に巧妙に誘導コントロールされてきている様子が顕著なのだ。喝采する大衆の思いとは別に、政界や財界が、この際、この「人気」を活用して、福祉政策の解体と事業の合理化を一挙に進めようと考えるとしても、不思議はない。
ただ、これを読んで、二点、思ったことがある。
まず1点目。そもそも、この論文では橋下行革のあり方への批判が述べられているのだが、この論文が載っている雑誌『論座』を、それこそ多くの人は買ったことも、読んだこともない。
そもそも、この雑誌の存在自体、どのくらい知られているのだろうか? もしも買った人、読んだ人がたくさんいるのなら、あるいは、その存在自体が広く知られているなら、この雑誌、近々「休刊(といいつつ、いつ復刊するかわからないから、事実上の廃刊かと思うのだが)」など迎えることはないはずだ。
それを思うと、いつの頃から、私らはテレビによくでてきて、「○○対●●」みたいな「わかりやすい、おもしろい、たのしい」図式でものを言う人たちの話ばかりを心地よく見聞きする一方で、この論文が載っているようなしんどい雑誌・本を読んだり、あるいは、小難しい話をする講演や研修などを避けたりするようになったのだろうか?
ここからやや発想は飛躍するのかもしれないが、私たちはこの何年かの間に、何か目先の「わかりやすさ、おもしろさ、たのしさ」を追求するあまりに、その裏側にある「やばさ、こわさ、いかがわしさ」を見抜く、そういう批判的な意識そのものも枯渇させてしまった。そういう部分はないのだろうか?
あるいは、私らはこの間、知らず知らずのうちに、「わかりやすさ、おもしろさ、たのしさ」を無自覚的に「よきもの」にして、「むずかしいけど、大事なこと、必要なこと」を「うっとおしいもの、小うるさいもの」にして、後回しにしたり、排除したりしてきてはいなかったのだろうか?
そう考えると、一方的に橋下府知事の側ばかりを責めていられない。やはり、彼やその側近たち、さらには彼の人気にうまく便乗して何かやろうとした人たちの思惑に、簡単に乗ってしまった側にも、いろんな問題があるということになる、と思う。
「わかりやすさ、おもしろさ、たのしさ」は一方で大事にすべき価値だと思うのだが、やっぱり、「むずかしくても、大事なこと、必要なこと」は、ちゃんと勉強して、きちんと批判的に意見を言えるようになる必要があるだろう。それが特に社会や文化、政治や経済の大事な問題であればあるほど、きちんと勉強して、ものを考える時間や空間、仲間が必要なのではないだろうか。
2点目。「では、なぜテレビ的なわかりやすさ、おもしろさ、たのしさを、知らず知らずの間に私たちが受け入れてしまったのか?」と問い返したときに、やはり社会や文化、政治の動きなどについて、たとえば各学問分野の研究者など、「批判的にものを考え、意見をいう」ことを仕事としてきた人びとの「語り方」にも、問題が多々あったのではないのか、と感じてしまう。
これは自戒もこめていうのだが、例えば、何かものを語るときに、私ら研究者は、一般の人びとが聴いたことのないような横文字や専門用語、難解な術語を連発したり、一般の人びとが読んだこともないような学者の説をふりまわしたりして、今の社会や政治の動きなどに対する自らの批判的な意見を語ってきたりしてこなかったのだろうか。
そういう横文字や専門用語、難解な術語、自分らの専門領域では高名でも一般には知られていない学者の説・・・・、こういったものを用いながら、得意げに社会や文化、政治の動向などを私らが批判的に読み解いているときに、もしかしたら、それを見ている一般の人びとは、「なにやらむずかしげで、わけわからないことをしている・・・・」「いや、ちょっとあんな話にはついていけないな・・・・」という思いで見ていたのではないだろうか。
もちろん、そういう難解な術語などを使ってでしか解き明かせない社会・文化現象や、政治・経済の動向があることも、私としては重々、承知している。でも、その難解な学問的研究の成果を、せめてその内容に関心のある一般の人びとに伝えようとする工夫くらいは、もう少し、やっておくべきではなかったのか。あるいは、「どうしてそういう難解な世界に首を突っ込もうと思ったのか?」「その難解な世界をくぐりぬけて、出口をどこに見出そうとしているのか?」という、自らの取り組みの背景や課題意識、目的や成果の見通しくらいは、きちんと他の人たちにもわかるように伝えておくべきではなかったのだろうか。
そんな風に考えると、「やはり、自分たちの足元を見よう」「まずは、私らが各専門分野で研究活動を続ける中で、今の情勢に対して『おかしい』と感じていることを、きちんと、専門分野外の人たちにも伝わる言葉で発していこう」と思ってしまう。そして、「今の社会や文化、政治や経済の情勢について、批判的にものを考えてみようと思う人を、地道にこつこつ、ひとりひとり増やしていくこと」を大事に考え、「そのための学習の機会を、いろんな方法を駆使して、作っていこう」と思うのである。
本当に今の大阪府下の政治情勢や、今の行財政改革の動向に対して批判的にものを見ていくとなると、私らの側もいっぱい「変わらなければ」という部分があることを実感する。そして、その私らが「変わらなければ」という課題意識を引き受け、ナントカその課題を克服しようという動きをつくらなければ・・・・ということを、このところ、私は痛感している。これこそ、今の(特に大阪府下・大阪市内での)人権教育の課題だと思うのだが、みんな、どう考えているのだろうか?
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