tyakoの茶の湯往来

日常生活の中から茶道の事を中心に、花の事、旅の事、そして、本や写真の事など、気ままに書いて見ようと思ってます。

元気のいい新入生は・・・

2019-04-10 17:23:29 | 大學の稽古

4月10日(水)

真冬に逆戻りしてしまった一日でしたが、大学へ行ってきました。

雪が降りだした大学への道々、帰りを心配しながら進むごとに景色が白くなっておりました。

    

   床の間

自然の光だけのお茶室です。

今日などは薄暗く、さすがに途中から電気をつけてのお稽古でした。

    

   花

花は、木五倍子に蔓日々草です。

昨日切り取って置きました椿が、持ち出したとたんにつぼみがポトリと落ちてしまい大慌てで、蔓日々草を切って持って行きました。

 

こちらの大学では、新入生の見学者がおりまして、ちょっとにぎやかになりました。

だいぶ興味があるらしく、最後まで残っておりましたので「やってみる気になりましたか?」

「ハイ!やってみたいです」と大きな声で返事をしておりました。

楽しみです。

 

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四年生は就活の気忙しい中・・・

2019-04-09 17:19:50 | K大學の稽古

4月9日(火)

風の冷たい一日でしたが、久しぶりに大学に行ってきました。

大学が始まって間もない事ですから、まだ新入生の見学者はおりませんでした。

    

   お菓子

お菓子はさくらで、定番ともいえる練りきりの美味しいお菓子でした。

    

   3年生

三年生になりました。

ついこの間入って来たばかりだと思っておりましたらもう三年生です。

きれいなお点前をするようになりました。

    

   四年生

就活で気忙しい中、お稽古に出てきました。

何も言いませんが、たぶん一時でも就活のことを忘れたいのだと思います。

早く決まって、ゆっくりとお稽古を楽しんでもらいたいものです。

 

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頂いたお菓子は「ありが糖う」で・・・

2019-04-08 16:56:44 | お菓子

4月8日(月)

なんとなく肌寒いような一日でしたが、ストレッチ教室に行ってきました。

最近やっとランニングマシーンの速度に慣れて歩けるようになりました。

    

   頂き物

あるお方のお茶会で頂戴したお菓子です。

古希を迎えたお方のお茶会でしたので楽しいお席でした。

    

   ありが糖う

何ともおかしなネーミングですが、こうしたお席にはぴったりだと思います。

    

   御目出糖

元禄時代からの味を受け継いだ銘菓だそうで、小豆の風味を残したもっちり感が何とも言えません。

    

   ありが糖う

金時豆を使った白あんにたっぷりと入った大納言がいかにも「おめでとう」にふさわしく、ちょっと見は、お赤飯のようです。

 ストレッチから帰って、疲れた体に元気を取り戻してくれるようなお菓子でした。

もちろん一服頂きました。

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植え替え時期を逸しては・・・

2019-04-07 16:45:01 | 自宅の庭

4月7日(日)

春らしい暖かな一日でした。

あちこちの桜の下では花見の宴が盛んだと思いますが、今日は一日どうしてもやらなければならない事がありますので、朝から取り掛かり夕方になってやっと目鼻が付き始めました。

    

   サギ草

サギ草の球根を植え替えをしてやらないと芽が出てしまいますので、やっと植え替える事ができました。

芽が5ミリくらい出ている球もありましたので、これ以上先送りしたら全滅です。

    

   踊子草

鉢いっぱいに殖えた踊子草です。

咲き始めると上が重く倒れてしまいますので転倒防止の柵を作ってやりました。

これをしておかないと、花が咲いたときに曲がってしまい生けられなくなってしまいます。

この踊子草は、里山の道端にたくさん群生しているので強い花だと思いますが、案外デリケートなことがわかりました。

 

 

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お稽古は、花・花・花で・・・

2019-04-06 17:49:44 | 自宅稽古

4月6日(土)

気温も上がりましたが、春の嵐のような風が吹いております。

今日も自宅でのお稽古でした。

   

   拝見

お棗は   桜蒔絵中棗でございます。

お茶杓は  花の舞でございます。

こんな問答の拝見でお稽古は終わりました。

   

   お菓子

お菓子屋さんが届けてくれたお菓子は、さくらでした。

餡子の中には桜の塩漬けが入っておりましたので、知らずにかむと「う・・」と感じますが、桜の塩漬けだとすぐにわかりました。

中々面白い・・・

   

   至福の一服

いつものようにお稽古が終わってからの一服です。

一週間の終わりです。

幸せを感じながらの一服でした。

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花開天下春を掛けて・・・

2019-04-05 17:26:07 | 自宅稽古

4月5日(金)清明

初夏を思わせるほどの暖かさでした。

今日は24節気の清明に当たり、すべてのものが清らかで生き生きとする頃の事を云うそうです。

今日は、二週間空いてしまいましたが、自宅でのお稽古でした。

    

   床の間

茶室に掛けるには 大きいようですが、私は好きな軸ですのでこの時期になると毎年掛けてしまいます。

道具屋さんは、信者さんに書いたのでしょう。と言っておりましたが、巡りめぐって私のところに参りました。

    

   軸

「花開天下春」、この軸を掛けると「春が来た」と実感できます。

御筆は、名古屋の徳源寺住職松山萬蜜老大師です。

    

   花

 花は、「瀬戸の鶴首に谷桑と黒椿」を生けました。

今日のような日が続きますと椿も一気に開いてしまいますので、今月いっぱい持つかどうか心細くなってきました。

私が茶花に興味を持ちだした頃の本には、この「谷桑」がよく載っておりましたので、なんとなく憧れの枝ものでしたが、最近あまり見なくなっております。

茶花も多様化しているからでしょうか・・・・

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御油宿から赤坂宿まで歩く・・・

2019-04-04 17:00:04 | 東海道五十三次の旅

4月4日(木)

昨日から一転して暖かな春の陽気になりました。

今日も東海道五十三次散歩の備忘録です。

       

   莬足神社(うたりじんじゃ)

 この日は、今回の東海道五十三次散歩最終日です。

昨日のゴール地点から少し歩いたところに鎮座しておりました。

延喜式内社で8世紀の終わり頃には神の社として祭られていたといいます。

4月に行われる、風祭での手筒花火は有名です。

また、この神社には、始皇帝が不老長寿の妙薬を探させたという、「徐福伝説」が残されております。

    

   伊奈一里塚

 ここの一里塚もポツンと碑だけが建っておりました。

日本橋から75番目の一里塚です。

    

   日本橋から

 ここは珍しく旧東海道が国道1号線になっておりました。

日本橋からおよそ305k地点です。よく歩いたものでともいます。

    

   大社神社

 かってこの付近に三河国の国府が置かれていたそうです。平安中期にこの地を支配していた大江定基によって、大国主命と三河国中の神々を祀り、三河国府の総鎮守としていたのが始まりだそうです。

ここでも、手筒花火が上がるので、狛犬まで色が変わっておりました。

    

   御油一里塚

 日本橋から76番目の一里塚です。

ここも石碑が建っているがけでした。

    

   御油姫街道追分

道が分かれておりまして、東海道と姫街道との追分になっております。

どうしても東海道を通るのに抵抗のある人が通った道だと聞いております。それでも関所はあったそうですから、そちらはあまり厳しくなかったのでしょう。

    

   椿

 御油という地名になった由来ある椿です。

持統天皇が近くの宮路山の行幸された時に、村人が椿から採取した油を灯火用に献上しとの言い伝えから「御油」と呼ばれるようになったそうです。

    

   御油の松並木

 松並木の入り口に建っておりました。

この松並木を見たいために、東海道を歩き出したという方もおりました。

    

   松並木

 ただ通り過ぎてしまうは勿体ないような松並木です。

御油と赤坂の間に600m続く松並木は、亀の甲羅のような樹皮が特徴的な三河黒松が植えられております。

昔のまま、土を盛り上げた土手の上に並ぶ松はいくら見ていても飽きません。

    

   松並木の終わりに

 この松並木は、国の天然記念物に指定され、現存する東海道随一の松並木だといわれております。

樹齢100年以上の古木が約90本あるといいます。

    

   マンホール

 赤坂宿に入りました。

最初に出会ったマンホールです。

    

   見附跡

 赤坂宿見附跡だそうで、空き地になっておりますが、かっては宿の入り口の番所が建っていたそうです。

 今回は、ここがゴールです。

次回は、ここから歩き始めます。

    

   豊川稲荷へ

 東海道五十三次散歩は終わりましたが、せっかく豊川稲荷近くまで来ておりますので、昼食を兼ねてお参りをさせてくれました。

    

   豊川稲荷山門

 初めてお参りいたましたが、正面に立った時に山門があるのに驚き、神社に山門??と思いながら境内の中に入って行きました。

       

   本殿

 鳥居をくぐって本殿前に進みます。

どう見ても神社です。

正式には、円福山妙厳寺という曹洞宗のお寺さんだそうです。

秘仏として祀られている仏さまが、稲穂を担いでいる姿から、お稲荷さんと呼ばれるようになったそうです。

 

今回の東海道五十三次散歩も終わりました。

3月22日、14.3k 3月23日22.9k 3月24日14、3kで、合計すると、51.5k歩いたことになります。

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三河国に入り、二川宿から吉田宿まで・・・

2019-04-03 17:13:50 | 東海道五十三次の旅

4月3日(水)

花冷えというには寒すぎるようです。

今日も寒い1日でしたが、大学が入学式のためにお稽古はお休みですので、東海道五十三次散歩の備忘録の続きです。

昨日のゴール地点でバスを降り、歩き始めて数分のところにありました。

 

    

   一里山一里塚

 

日本橋から71番目の一里塚ですが、ほとんど破壊されてしまいかろうじて残っておりました。

それでも、東西11m、南北14m、高さ3mという大きな塚ですが、雑木林のようになっていて、言われなければ解らないと思います。

 

   

   一里塚の林

 

こんな状態です。

案内板には、数少ない一里塚の原型をとどめた貴重な場所だと書いてありますが、もう少し整備したら良いのにと思ってしまいました。

 

   

   東海道線

 

東海道線を何回か渡りましたが、その都度思うことは同じで、線路が真っすぐという事です。

明治政府の何が何でも造るんだといった、圧倒的な力が如実に表れているといわれております。

 

   

   二川一里塚

 

二川宿に入るとすぐに一里塚がありましたが、そっけないほどの石碑がポツンと建っているだけでした。

街道歩きの講師の役の先生も、「ここに一里塚がありました」というだけで、どんどん歩いて行ってしまいました。

写真を撮るのが忙しいくらいのそっけなさです。

日本橋から72番目の一里塚です。

 

    

   町屋

 

江戸時代の税のかけ方がこんな町屋を作らせました。

長い長い奥行きが特徴です。

 

   

   桝形道

 

宿場には必ずある桝形道です。

ここでも残っておりました。この桝形道の曲がり鼻に、大きな味噌問屋があり、江戸時代そのままの雰囲気を味わうことができました。

 

   

   二川宿

遠江国から三河国に入って最初の宿場です。

大きな宿場ではありませんが、東海道線が通り、国道1号線が開通したために町は活気を失ってしまいましたが、そのために、当時の街並みが残されたという皮肉な現実があります。

 

   

   二川宿本陣 豊川市二川宿本陣資料館 

 

本陣馬場家の遺構ですが、現在は、「豊川市二川宿本陣資料館」として一般公開しております。

残すべき建物の横に近代的な資料館を作り、江戸時代から現代へとグルッと回れます。

宿場のほぼ中央にあった本陣です。

本陣に指定されると、その改築などに莫大な費用が掛かったそうですが、その費用は、全部本陣に指定された家で負担するということです。

本陣は、今でいうところのボランティア同然で、本業は酒造業や米問屋そして金融業などで、自分たちの生活費や本陣維持の費用を捻出していたそうです。

 

   

   本陣上段の間

 

殿様が休憩された上段の間です。

あの狭いお駕籠から出てもこうしたところへ連れて来られ、お殿様も楽ではなかったというのが、見学した私たちの印象でした。

 

    

   お駕籠

 

お駕籠には、布団が敷かれ寄りかかれるように背もたれがあり、ひじ掛けがありましたが、あの中にじっと座っているのも大変だったと思います。

 

    

   お駕籠の内部

 

お駕籠の中ですが、綿入りの布団が敷いてあり、背もたれやひじ掛けなどあります。

足は延ばせますが横にはなれませんので、乗っていても楽ではなっかったことでしょう。

 

   

   高札場

 

町中にあった高札場が復元されて建っておりました。

 

   

   カレーうどん

 

豊橋名物のカレーうどんです。

私たちは18名でしたので、旅行社であらかじめ予約をしてありますが、「11時には来てください」とのことで、早めの昼食でした。

なぜだろうと思っていたら、帰る時に解りました。

店の前には大勢の人が並んでいるではありませんか・・・・

 

  

   食べ方

 

うどんの食べ方も一緒に出てきました。

みなさんその指南書を見ながら、食べておりました。

どんぶりの下からご飯、ととろいも、カレーとなっております。うどんをそっと食べ終わるとカレーとろろご飯になります。

 

   

   岩谷観音

 

天平2年に行基上人がこの地に訪れた時に、この地に魅せられ千手観音像を刻んで岩の洞窟に安置したのが起源だといわれております。

以来東海道を往来する旅人の信仰を集め現代に続いているそうです。

 

   

   観音様

 

岩屋山頂の聖観音立像は明和2年に建立されましたが、太平洋戦争中に供出されてしまい、現在のものは昭和25年に再建されたものです。

 

   

   飯村一里塚

 

二川宿を出てすぐに、日本橋から73番目の一里塚ですが、国道沿いにポツンと建っておりました。

 

   

   豊橋公会堂

 

豊橋市公会堂です。

空襲を免れ一時期市役所として使っていたそうですが、今は、再び公会堂に戻り多くの催し物で市民を楽しませる市民自慢なの建物です。

ドーム頂上まで16mもあり風格ある雄姿は、現代でも建築界に高く評価されているということです。

 

   

   吉田城

 

関ケ原以降、池田輝政が入り吉田と改めて明治を迎え、豊橋と改名されました。

輝政は、すぐに姫路へ転封されましたが、輝政が作始めた城や城下町は、あとから入った大名たちが、それを受け継ぎ城下町を完成させたそうです。

 

   

   手筒花火

 

吉田の手筒花火の発祥の地でもあります。

吉田の男は、この花火を自分で作り自ら筒を抱えて花火をすることで大人になることへの証しになったそうです。

この町の男たちは、一人前の男になるためにやらなければならなかったのです。

 

   

   マンホール

 

マンホールも花火をデザインしております。

 

   

   吉田神社

 

吉田城の鎮守で歴代の藩主が保護をしておりました。

この神社が、「手筒花火」の発祥の地だといわれております。

境内の敷石が、花火の火の粉で茶色く変色しておりました。

 

   

   下地一里塚

 

日本橋から74番目の一里塚です。

国道沿いにこの石碑だけが建っておりました。

 

   

   下地一里塚

 

この石碑には74里と刻まれており、この一里塚は74番目として登録されております。

 日もだいぶ傾いてきましたので、2日目街道歩きはこの先の広場で終わり、バスに乗ってホテルに向かいました。

 

 

 

 

 

 

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舞阪宿から浜名湖を渡って・・・

2019-04-02 15:43:05 | 東海道五十三次の旅

4月2日(火)

朝から冬に逆戻りしたような寒さです。

今日は大学の稽古日ですが、入学式などの準備のため校舎内立ち入り禁止とかでお稽古はお休みでした。

パソコンも回復しましたの、先日行ってきました東海道五十三次散歩の備忘録をまとめたいと思います。

 

     

   舞阪一里塚

 

前回のゴール地点でバスを降り、歩きだしたらすぐに舞阪の一里塚がありました。

江戸から67番目の一里塚です。

明治の初頃には、80m四方の塚に一抱えするほどの立派な松がそびえていたと伝えられております。

今は、この石碑のみが往時のことを知らせております。

 

   

   岐佐神社の大石

 

千年以上前に創建された延喜式内社で、大国主命伝説が残されている神社です。

伝説によれば、「命を狙われその相手から真っ赤に焼けた大石で大やけどを負わされましたが、ここの神社の祭神が助けた」という伝説です。

その真っ赤に焼けた石が写真の石です。

 

    

   舞阪宿

 

舞坂宿の通りです。

あまり人もあらず静かな宿場町です。

 

      

   舞阪宿本陣跡

 

舞阪宿の本陣が公開されており、中を見ることができます。

建坪75坪、畳の数が99畳あるそうで、上段の間もあり当時のまま残っております。

 

   

   今切渡船

舞阪宿と次の新居宿は浜名湖を横断する「今切渡船」と呼ばれ、海上約一里半で3時間ほどの船旅だったそうです。

渡船料は、幕府の役人は無賃でしたが、大名も一般の旅人も一艘ごとに乗客の人数で割る方式だったそうです。

写真は、舞阪宿に残る船着場で、地元では「雁木」ガンゲと呼んでおります。

こうした船着場が三か所あったためこの場所は「北雁木」と呼ばれておりました。

 

   

   新居関所

 

この関所は正式には「今切関所」と呼ぶそうですが、今は「新居の関所」と呼んでおります。この関所も「入り鉄砲」と「出女」が特に厳しかったそうで、改め女がいて厳しい検査をしたといわれております。

それが嫌で、多くの女性は浜名湖の北側を迂回する「姫街道」と呼ばれる街道を利用したといわれております。

船着場に関所があったわけで、今は埋め立てられてしまったので、船着場が復元されております。

 

   

   関所の門

 

立派に復元されておりました。

今では地元を代表する観光地になっております。

全国ではここだけが残っているそうです。

 

       

   棒鼻跡

 

棒鼻とは、駕籠の棒先のことで、大名行列が宿場に入る際、行列を整えるのに見附付近で駕籠の棒先を整えたとこですので「棒鼻」と呼んだといわれております。

 

   

   潮見坂

 

新居宿を出ると、潮見坂と呼ばれる小さな峠があります。ちょっと疲れた足には堪えましたが、登り切ったとこからの眺めは最高でした。

 

     

   遠江八景

 

潮見晴嵐と呼ばれ、遠江八景に数えられております。

 

    

   曲尺手

 

曲尺手(かねんて)と呼ばれ、宿場の入り口にある「桝形道」のことですが、軍事的な役割のほかに、大名同士がかち合わないよう、宿の中が見通せないようにしてあるそうです。

どうしてか・・・大名同士がかち合うと、石高の低い大名は、かごから降りて挨拶をしなければならないからだそうで、他の大名がいた場合は、寺などに休憩を装って避難したそうです。

 

   

   曲尺手

 

はっきりと残っている桝形道、曲尺手です。

サングラスをかけた怪しげな女性は、ツアーデレクターです。

最後尾で皆さんの動向を見ております。

 

   

   火防ぎの槙

 

宿場内で火災が起きた時のために、土手を作りその上に槙を並べて植えて

壁のようにしたそうで、この家だけに残っておりました。

宿場内に三か所あったそうです。

 

      

   愛知県

 

今も昔も、静岡県と愛知県の境は、この小さな境川を境に分かれております。

逆光でよく映りませんでした。

 

   

   堺宿

小さな宿ですが、正式には宿ではなかったそうです。

日もだいぶ傾きかけ愛知県に入り、ここからバスでホテルまで移動して第一日目が終わりました。

 

 

 

 

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黒や紺の名前の椿が咲きだすと・・・

2019-04-01 18:04:40 | 庭の花

4月1日(月)

今日から新年度、今年卒業した学生たちも今日から社会人としての第一歩です。

新しい環境に慣れてくれることを願うばかりです。

 

    

   黒椿

 

今日は新元号が決まり、ニュースはそれ一色ですが、月曜日ですのでストレッチ教室に行ってきました。

東海道散歩の翌日はサボってしまいましたので二週間ぶりのストレッチです。

庭の黒椿が咲き始めました。

こうした黒や紺といった名前の付いた椿が咲き始めると、椿の季節は終わりに近づきます。

 

   

   伊予ミズキ

 

黄色が鮮やかな伊予ミズキです。

枝ものとしては丁度よい大きさですが、枝がツンツンとしておりますので、椿と合った枝を選ぶのが大変です。

元号も決まり、新しいスタートです。

 

 

 

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