4月2日(火)
朝から冬に逆戻りしたような寒さです。
今日は大学の稽古日ですが、入学式などの準備のため校舎内立ち入り禁止とかでお稽古はお休みでした。
パソコンも回復しましたの、先日行ってきました東海道五十三次散歩の備忘録をまとめたいと思います。
舞阪一里塚
前回のゴール地点でバスを降り、歩きだしたらすぐに舞阪の一里塚がありました。
江戸から67番目の一里塚です。
明治の初頃には、80m四方の塚に一抱えするほどの立派な松がそびえていたと伝えられております。
今は、この石碑のみが往時のことを知らせております。
岐佐神社の大石
千年以上前に創建された延喜式内社で、大国主命伝説が残されている神社です。
伝説によれば、「命を狙われその相手から真っ赤に焼けた大石で大やけどを負わされましたが、ここの神社の祭神が助けた」という伝説です。
その真っ赤に焼けた石が写真の石です。
舞阪宿
舞坂宿の通りです。
あまり人もあらず静かな宿場町です。
舞阪宿本陣跡
舞阪宿の本陣が公開されており、中を見ることができます。
建坪75坪、畳の数が99畳あるそうで、上段の間もあり当時のまま残っております。
今切渡船
舞阪宿と次の新居宿は浜名湖を横断する「今切渡船」と呼ばれ、海上約一里半で3時間ほどの船旅だったそうです。
渡船料は、幕府の役人は無賃でしたが、大名も一般の旅人も一艘ごとに乗客の人数で割る方式だったそうです。
写真は、舞阪宿に残る船着場で、地元では「雁木」ガンゲと呼んでおります。
こうした船着場が三か所あったためこの場所は「北雁木」と呼ばれておりました。
新居関所
この関所は正式には「今切関所」と呼ぶそうですが、今は「新居の関所」と呼んでおります。この関所も「入り鉄砲」と「出女」が特に厳しかったそうで、改め女がいて厳しい検査をしたといわれております。
それが嫌で、多くの女性は浜名湖の北側を迂回する「姫街道」と呼ばれる街道を利用したといわれております。
船着場に関所があったわけで、今は埋め立てられてしまったので、船着場が復元されております。
関所の門
立派に復元されておりました。
今では地元を代表する観光地になっております。
全国ではここだけが残っているそうです。
棒鼻跡
棒鼻とは、駕籠の棒先のことで、大名行列が宿場に入る際、行列を整えるのに見附付近で駕籠の棒先を整えたとこですので「棒鼻」と呼んだといわれております。
潮見坂
新居宿を出ると、潮見坂と呼ばれる小さな峠があります。ちょっと疲れた足には堪えましたが、登り切ったとこからの眺めは最高でした。
遠江八景
潮見晴嵐と呼ばれ、遠江八景に数えられております。
曲尺手
曲尺手(かねんて)と呼ばれ、宿場の入り口にある「桝形道」のことですが、軍事的な役割のほかに、大名同士がかち合わないよう、宿の中が見通せないようにしてあるそうです。
どうしてか・・・大名同士がかち合うと、石高の低い大名は、かごから降りて挨拶をしなければならないからだそうで、他の大名がいた場合は、寺などに休憩を装って避難したそうです。
曲尺手
はっきりと残っている桝形道、曲尺手です。
サングラスをかけた怪しげな女性は、ツアーデレクターです。
最後尾で皆さんの動向を見ております。
火防ぎの槙
宿場内で火災が起きた時のために、土手を作りその上に槙を並べて植えて
壁のようにしたそうで、この家だけに残っておりました。
宿場内に三か所あったそうです。
愛知県
今も昔も、静岡県と愛知県の境は、この小さな境川を境に分かれております。
逆光でよく映りませんでした。
堺宿
小さな宿ですが、正式には宿ではなかったそうです。
日もだいぶ傾きかけ愛知県に入り、ここからバスでホテルまで移動して第一日目が終わりました。
「新居関所」と「舞阪宿」、なかなかいい雰囲気のようですね。行ってみたくなりました。
ところで、今回の旅の山場(?)になるであろう、と勝手に予想していた浜名湖の記述がありませんでしたが、舞阪から新居まではどういうルートだったのでしょうか?これはこれで気になります。
歩いて越える県境。一度体験したら、やめられませんね(笑)
おはようございます。
浜名湖は、舞阪宿から船で新居宿というより、今切関所までの船旅でした。
私たちは、船を熱望いたしましたが、予算が合わないということでやんわりと拒否されました。
そう言ったわけで、バスで新居宿の関所まで移動いたしました。
船着場が関所ですから、逃げるわけにゆきません。
県境は、遠江と三河の時と同じで5mほどの小さな川が境になっておりました。
それにしても、静岡県は長かったです。
次回は、家康のふるさとともいえる岡崎です。
ありがとうございました。