4月3日(水)
花冷えというには寒すぎるようです。
今日も寒い1日でしたが、大学が入学式のためにお稽古はお休みですので、東海道五十三次散歩の備忘録の続きです。
昨日のゴール地点でバスを降り、歩き始めて数分のところにありました。
一里山一里塚
日本橋から71番目の一里塚ですが、ほとんど破壊されてしまいかろうじて残っておりました。
それでも、東西11m、南北14m、高さ3mという大きな塚ですが、雑木林のようになっていて、言われなければ解らないと思います。
一里塚の林
こんな状態です。
案内板には、数少ない一里塚の原型をとどめた貴重な場所だと書いてありますが、もう少し整備したら良いのにと思ってしまいました。
東海道線
東海道線を何回か渡りましたが、その都度思うことは同じで、線路が真っすぐという事です。
明治政府の何が何でも造るんだといった、圧倒的な力が如実に表れているといわれております。
二川一里塚
二川宿に入るとすぐに一里塚がありましたが、そっけないほどの石碑がポツンと建っているだけでした。
街道歩きの講師の役の先生も、「ここに一里塚がありました」というだけで、どんどん歩いて行ってしまいました。
写真を撮るのが忙しいくらいのそっけなさです。
日本橋から72番目の一里塚です。
町屋
江戸時代の税のかけ方がこんな町屋を作らせました。
長い長い奥行きが特徴です。
桝形道
宿場には必ずある桝形道です。
ここでも残っておりました。この桝形道の曲がり鼻に、大きな味噌問屋があり、江戸時代そのままの雰囲気を味わうことができました。
二川宿
遠江国から三河国に入って最初の宿場です。
大きな宿場ではありませんが、東海道線が通り、国道1号線が開通したために町は活気を失ってしまいましたが、そのために、当時の街並みが残されたという皮肉な現実があります。
二川宿本陣 豊川市二川宿本陣資料館
本陣馬場家の遺構ですが、現在は、「豊川市二川宿本陣資料館」として一般公開しております。
残すべき建物の横に近代的な資料館を作り、江戸時代から現代へとグルッと回れます。
宿場のほぼ中央にあった本陣です。
本陣に指定されると、その改築などに莫大な費用が掛かったそうですが、その費用は、全部本陣に指定された家で負担するということです。
本陣は、今でいうところのボランティア同然で、本業は酒造業や米問屋そして金融業などで、自分たちの生活費や本陣維持の費用を捻出していたそうです。
本陣上段の間
殿様が休憩された上段の間です。
あの狭いお駕籠から出てもこうしたところへ連れて来られ、お殿様も楽ではなかったというのが、見学した私たちの印象でした。
お駕籠
お駕籠には、布団が敷かれ寄りかかれるように背もたれがあり、ひじ掛けがありましたが、あの中にじっと座っているのも大変だったと思います。
お駕籠の内部
お駕籠の中ですが、綿入りの布団が敷いてあり、背もたれやひじ掛けなどあります。
足は延ばせますが横にはなれませんので、乗っていても楽ではなっかったことでしょう。
高札場
町中にあった高札場が復元されて建っておりました。
カレーうどん
豊橋名物のカレーうどんです。
私たちは18名でしたので、旅行社であらかじめ予約をしてありますが、「11時には来てください」とのことで、早めの昼食でした。
なぜだろうと思っていたら、帰る時に解りました。
店の前には大勢の人が並んでいるではありませんか・・・・
食べ方
うどんの食べ方も一緒に出てきました。
みなさんその指南書を見ながら、食べておりました。
どんぶりの下からご飯、ととろいも、カレーとなっております。うどんをそっと食べ終わるとカレーとろろご飯になります。
岩谷観音
天平2年に行基上人がこの地に訪れた時に、この地に魅せられ千手観音像を刻んで岩の洞窟に安置したのが起源だといわれております。
以来東海道を往来する旅人の信仰を集め現代に続いているそうです。
観音様
岩屋山頂の聖観音立像は明和2年に建立されましたが、太平洋戦争中に供出されてしまい、現在のものは昭和25年に再建されたものです。
飯村一里塚
二川宿を出てすぐに、日本橋から73番目の一里塚ですが、国道沿いにポツンと建っておりました。
豊橋公会堂
豊橋市公会堂です。
空襲を免れ一時期市役所として使っていたそうですが、今は、再び公会堂に戻り多くの催し物で市民を楽しませる市民自慢なの建物です。
ドーム頂上まで16mもあり風格ある雄姿は、現代でも建築界に高く評価されているということです。
吉田城
関ケ原以降、池田輝政が入り吉田と改めて明治を迎え、豊橋と改名されました。
輝政は、すぐに姫路へ転封されましたが、輝政が作始めた城や城下町は、あとから入った大名たちが、それを受け継ぎ城下町を完成させたそうです。
手筒花火
吉田の手筒花火の発祥の地でもあります。
吉田の男は、この花火を自分で作り自ら筒を抱えて花火をすることで大人になることへの証しになったそうです。
この町の男たちは、一人前の男になるためにやらなければならなかったのです。
マンホール
マンホールも花火をデザインしております。
吉田神社
吉田城の鎮守で歴代の藩主が保護をしておりました。
この神社が、「手筒花火」の発祥の地だといわれております。
境内の敷石が、花火の火の粉で茶色く変色しておりました。
下地一里塚
日本橋から74番目の一里塚です。
国道沿いにこの石碑だけが建っておりました。
下地一里塚
この石碑には74里と刻まれており、この一里塚は74番目として登録されております。
日もだいぶ傾いてきましたので、2日目街道歩きはこの先の広場で終わり、バスに乗ってホテルに向かいました。