黄ソケイ
(ご近所で 07-5-3)
始めてみた花です
持ち主に名を問いました
差し芽をしたらと小枝を届けてくださいました
根付いたようです
先日「はだしのゲン」を放映していましたので、ビデオに取っておきました。今日が一日お坊さん待ちなので、見て待っていようと思いました。
「はだしのゲン」と言う本があることは知っていましたが、読んでいません。息子に訊ねると漫画で読んだと言っていました。
バックミュージックとして「千の風になって」が流れていました。この物語はフィクションですと書かれていました。原子爆弾に被災した色んな方のお話を一つ(ゲン一家)にまとめたものだろうとは思いました。それでないと余りにも酷すぎます。
ゲンと言う名の小学2年生の男の子の戦争体験、被爆体験のお話なんです。「はらいっぱいくいたい」と言う台詞が食糧難を表しています。あの頃の「さつまいも」と言うのは今の「蒸かし芋」のことではなく「蒸してスライスしたものを干した芋」だ。懐かしい事にきれいな袋に入れられて今も売っています。バナナも生ではなく干しバナナでした。貝柱も干したものをチューインガムのように噛んでいました。「すいとん」は私達は「団子汁」と言っていましたが、メリケン粉を固くといて、お汁に落としたもの。それが私の戦時中の思い出の食べ物です。
所々に戦争中の写真や行動が挿入されています。
母達が「大日本国防婦人会」と言う襷をかけて、バケツリレーをしていました。私達子供は「第二国防婦人会」と言われていたようです。私が小学3年生の時、日本手ぬぐいで頭を包み、モンペをはき、肩から「第二国防婦人会」と書かれた襷をして、手に木製バケツを提げた写真が残っています。
バケツリレーは焼夷弾の火を消す為であり、屋根に登っての竹やり訓練は飛んでくる飛行機を突く為と聞かされていましたが、当時の大人は馬鹿らしいと思わずに訓練に出ていたんですね。それを私達子供は見ていました。やはり「非国民」と言われては生きていけなかったのでしょう。
私は集団疎開していて、神戸の大空襲も知らないし、母に守られて本当の不自由さも知らない。でも疎開先でゲンたちが頼ってきた為にその家の子が「私達の食べる分が減った!」とゲン一家をいじめる場面があるのですが、私も戦後もののないころ、私たちも貧しかったのに、さらに困っている人を助ける為に、小さな女の子を預かった事がある。その子がいるために私のお八つは半分になる。一人っ子で物を分け合うという事を知らない私は、お八つを半分食べるその子が嫌いだった。
その私の気持ちを察した母が、もとこちゃんはお父さんが戦死した事、お母さんが働かなければならないが、小さい子供をつれては働けない事、だから働く時間だけ預かっている事などを懇々と私に話して聞かせたけれどやっぱり嫌いだった。小さいから淋しかったのだろう私の母の後をくっ付いて歩いた。それも嫌だった。自分の親を取られたような気持ちになった。やきもちだ。もとこちゃんも65歳ぐらいになっている。意地悪のお姉ちゃんの事覚えているかしら?
1週間前に広島に行ったばかりなので、そこで見聞きしたばかりだから、余計に身につまされた。ゲンにしても、その母にしても考えられないくらいしっかりしている。全てが不自由な、人の親切も受けられない世の中では、人は必然的にしっかりするものなのだろうか?
(ご近所で 07-5-3)
始めてみた花です
持ち主に名を問いました
差し芽をしたらと小枝を届けてくださいました
根付いたようです
先日「はだしのゲン」を放映していましたので、ビデオに取っておきました。今日が一日お坊さん待ちなので、見て待っていようと思いました。
「はだしのゲン」と言う本があることは知っていましたが、読んでいません。息子に訊ねると漫画で読んだと言っていました。
バックミュージックとして「千の風になって」が流れていました。この物語はフィクションですと書かれていました。原子爆弾に被災した色んな方のお話を一つ(ゲン一家)にまとめたものだろうとは思いました。それでないと余りにも酷すぎます。
ゲンと言う名の小学2年生の男の子の戦争体験、被爆体験のお話なんです。「はらいっぱいくいたい」と言う台詞が食糧難を表しています。あの頃の「さつまいも」と言うのは今の「蒸かし芋」のことではなく「蒸してスライスしたものを干した芋」だ。懐かしい事にきれいな袋に入れられて今も売っています。バナナも生ではなく干しバナナでした。貝柱も干したものをチューインガムのように噛んでいました。「すいとん」は私達は「団子汁」と言っていましたが、メリケン粉を固くといて、お汁に落としたもの。それが私の戦時中の思い出の食べ物です。
所々に戦争中の写真や行動が挿入されています。
母達が「大日本国防婦人会」と言う襷をかけて、バケツリレーをしていました。私達子供は「第二国防婦人会」と言われていたようです。私が小学3年生の時、日本手ぬぐいで頭を包み、モンペをはき、肩から「第二国防婦人会」と書かれた襷をして、手に木製バケツを提げた写真が残っています。
バケツリレーは焼夷弾の火を消す為であり、屋根に登っての竹やり訓練は飛んでくる飛行機を突く為と聞かされていましたが、当時の大人は馬鹿らしいと思わずに訓練に出ていたんですね。それを私達子供は見ていました。やはり「非国民」と言われては生きていけなかったのでしょう。
私は集団疎開していて、神戸の大空襲も知らないし、母に守られて本当の不自由さも知らない。でも疎開先でゲンたちが頼ってきた為にその家の子が「私達の食べる分が減った!」とゲン一家をいじめる場面があるのですが、私も戦後もののないころ、私たちも貧しかったのに、さらに困っている人を助ける為に、小さな女の子を預かった事がある。その子がいるために私のお八つは半分になる。一人っ子で物を分け合うという事を知らない私は、お八つを半分食べるその子が嫌いだった。
その私の気持ちを察した母が、もとこちゃんはお父さんが戦死した事、お母さんが働かなければならないが、小さい子供をつれては働けない事、だから働く時間だけ預かっている事などを懇々と私に話して聞かせたけれどやっぱり嫌いだった。小さいから淋しかったのだろう私の母の後をくっ付いて歩いた。それも嫌だった。自分の親を取られたような気持ちになった。やきもちだ。もとこちゃんも65歳ぐらいになっている。意地悪のお姉ちゃんの事覚えているかしら?
1週間前に広島に行ったばかりなので、そこで見聞きしたばかりだから、余計に身につまされた。ゲンにしても、その母にしても考えられないくらいしっかりしている。全てが不自由な、人の親切も受けられない世の中では、人は必然的にしっかりするものなのだろうか?
改めて感じました。あんなに何も食べていなかったら動けないでしょうね。今は食べ物をもっと大切にしないといけませんね。「ゲン」と弟の「しんじ」が
息がぴったりで上手でしたね。
子供が出れば、芝居は子役に食われると言われる通り兄弟の子役上手でしたね。
8月10日より21日まで熊本に帰ってました。
その間に2回赤ちゃんポストの病院に行き 説明を聞き以前やってたことをまたやってるだけで一部の人からは、簡単に置くような場所を作りと批判があるけど戦時中 戦後に親が亡くなり預けられたり戦災孤児を知ってる人は、反対を言わないし親が育てられない施設を知らない人たちが反対を言ってるそうです。
東京でも地方に親戚や知り合いがなく疎開できず 防空壕でお風呂も入らず何ヶ月もいていつでも空襲で死ぬ覚悟だったと言う人は何人もあったことがあります。
今は、親が育てられない施設も年々と減少してますけどある施設で80人いるそうです。
図らずも、昨日の新聞に施設に預けられた赤ちゃんのことが載っていましたね。1人は両親が受け出しに来たとか。子供は貧しくとも親の手元で育てられるべきもの、本当に良かったと思いました。
赤ちゃんポストのところには、インターホンも付いてました。
1ケ月に60人前後の相談があるそうです。
病院では、戦災で親をなくした人が今でも仕事してました。