あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

命令 「 我が部隊はコレヨリ麹町地區警備隊長小藤大佐の指揮下に入る 」

2019年07月15日 13時27分33秒 | 安藤部隊

昭和十一年一月十日、
私は現役兵として歩三、MG隊に入隊した。
所属は第四内務班で班長は上村盛満軍曹、班付が稲葉熊雄伍長であった。
なお教官が柳下良二中尉、銃隊長は内堀次郎大尉という顔ぶれで
毎日気合のかかった訓練が行われた。
渡満をひかえていたためか動作の機敏性が常に要求されたのを記憶している。
こうして着々と訓練が積まれていった二月二十六日
○一・四五
突如非常呼集の発令で跳起きた。
しかし不寝番が揺りおこすだけでラッパが鳴らない非常呼集だった。
何はともあれ仕度をして主力のいる内務班に集合すると班長がきて命令を下した。
大要は次のとおりであった。
「 目下帝都は相沢事件の公判をめぐり動揺のきざしがある。
よって聯隊はこれを鎮圧するために出動し、帝都の警備に任ぜんとす 」
兵隊の間に一瞬ザワメキがおこった。
班長は語をつぎ、
「 日頃訓練をしてきた腕前を発揮するのはこの時だ、落ちついてしっかりやれ。
次にこの命令に服従できぬ者があれば手を挙げろ、この場で斬り殺してやる 」
この言葉に全員は殺気立ち 班長の目を注視した。
「 それでは聞く、絶対服従できるか!」
「 ハイ!」
全員は大声で返事をした。
「 よし、それでは今から編成に移る 」
こうして第四班では身体の強い者が選抜され四個分隊が編成された。
私は福田二等兵が行けないので第三分隊の要員となった。
この時の編成内容は次のとおりである。
第三分隊長  上等兵  松川彦造
一番銃手  二等兵 神谷昇  二番銃手  二等兵 戸沢芳郎  三番銃手  二等兵 斎藤弥一
四番銃手  二等兵 種村光衛  五番銃手  二等兵 伊藤鶴吉  六番銃手  二等兵 村井喜雄
七番銃手  二等兵 木暮銀蔵  八番銃手  二等兵 奥幸雄
小隊長には上村軍曹が任じ 四個分隊を指揮することとなり、
当小隊は全部 第六中隊に配属と決定した。
服装は二装軍袴着用、防毒面携行、実包各分隊五四〇発携行と 矢つぎばやに命令が下り、
手際よく準備を進め ○二・三〇 完了。
班を出る直前班長から中尉を受けた。
「 我々は出動した以上生きて帰ることは考えるな。
そのため貴重品は持って行け。班員と顔を合せるのも最後と思いよく見ておけ 」
班長の言葉はあたかも激戦の場に臨む暗示とも思われた。
実弾を持たされた以上並大抵の出動ではないことはわかるが、
暴動鎮圧がかなりむづかしいのに思わず緊張した。

やがて第六中隊に行き 安藤大尉の指揮下に入る。
大尉はここで全員に対し訓示をした。
「 只今より帝都の警備につく。中隊は九段坂に向って前進、あまり緊張するな、外出気分で前進せよ 」
かくて 〇三・三〇 出発。
MG分隊は六中隊のあとに続いた。
上村軍曹は出発と同時に態度が変り 軟らかな物腰で私たちに色々と話しかけた。
「 俺たちはもう生きて帰れんのだ、煙草を吸いたい者は吸え、緊張せずゆっくり歩け・・・」
あたかも兄貴のような口ぶりであった。
途中一回休憩して再び行進。
〇五・〇〇頃
止った所は鈴木侍従長官邸附近の路上であった。
 MG分隊はただちに道路警戒を命ぜられ その場に銃を据えて射撃姿勢をとった。
その時私の分隊に示された任務は、
『人間が前方二十間位い(約五十米)まできたら何人たりとも停止させる。
命に背く者があったら捕えるか突け 』 ち いうことだった。

襲撃班はすでに屋内に入ったようである。
未だ朝が早いので人影もなく手持ちぶさたであったが、
警戒中現れたのは警官二、三名と市民若干名で、一人だけ不審な点が見えたので裸にして検査した。
〇六・〇〇
襲撃がおわり引上げになった。
目的を達したそうである。
隊列を整えて陸軍省前にきた時、ここで全員は安藤大尉から状況説明を受けた。
「 我等は今 奸賊財閥を討った。しからば我々は楠軍であり、我々を攻むる者は足利軍である。
その気持で最後まで闘うのだ 」
私はここに至ってはじめて出動の目的がわかった。
そしてこれは大変な事件であると直感した。
〇七・〇〇
三宅坂に引返して周辺の警備につく。
その時上村軍曹から、
「 我々の仕事はこれからだ、気をゆるめず尚一層頑張ってやれ、立哨中居眠りなどするな 」
と 注意を受けた。
ここにおける任務は交通遮断である。
しかし一帯は火が消えた如く人影はまばらで私たちの歩哨線には一人もやってこなかった。
一〇・〇〇
聯隊から食糧がきたので交替で朝食をとる。
曇っていた空からまた雪が降りはじめた。
そして寒さが加わりどうにもならなくなったので、附近の学校、在郷軍人分会、青年団等から
天幕を借りうけ、寺内元帥の銅像前に幕舎をたて、内部で木炭を焚き車座になって暖をとった。
この間立哨は交替で行った。
一三・〇〇頃
安藤大尉のいる指揮班の方から寿司が届けられた。
一七・〇〇頃
聯隊から夕食がきた。
大分分量が多く残ったものを各自飯盒につめる。
腹がいっぱいになると自然に気が落ちつき立哨以外は雑談に花が咲いた。
軍曹はその時 都築と私を引合いに出して こんなことをいった。
「 俺には農村出身者がすぐわかるんだ。都築にしても斎藤にしてもカチカチした顔は共通しているからな 」
一九・〇〇
兵隊の大好物の大福が小夜食として配られた。
雪が小止みなく降るので立哨が二十分交替となる。
順番がすぐ廻ってくるので仮眠もとれない。
夜半になってまた間食がでた。
眠れないかわりに給食が大分良い。

雪の夜が明けたが別に異常はなかった。
しかし注意してみると附近の市民が困った顔つきで表戸を閉じ、
中でひっそりしているのが目につき気の毒だった。
〇七・〇〇頃
軍服姿の将校や陸軍省のマークをつけた文官の通行が許可され
次いで市民も自由になったので、今まで静かだった道路が急に活気ずき電車、自動車も姿を見せ、
ようやく本来の都会にもどった。
しかし警戒はなお続き、中でも写真撮影は禁止していた。
ところが車でやってきて瞬間的に撮る者がいるので極力注意していた。
そうした状況下、どこかの新聞記者が二、三回自動車の中から撮影し逃げ出したことがあった。
そこでタイヤ目がけて一発撃ち車を止め、上村軍曹が車窓からカメラを取り出し 原板を破りすてた。
文句をいう者は容赦なく引きずりおろし制裁を加えて追返した。
これを見た野次馬が黒山になるのでこれを追い払うのも一仕事だ。
交番の巡査は朝きたまま詰所の中で小さくなっていて気の毒であった。
一二・〇〇頃
次のような命令が出された。
『 我が部隊はコレヨリ麹町地区警備隊長小藤大佐の指揮下に入る。
よってすみやかに新国会議事堂に集結せよ 』
部隊はただちに現地を撤収して、
一三・〇〇 目的地に移動し昼食を済ませた。
以後附近の警備を行いながら待機した。
ここにいた時 何時頃だったか安藤大尉から状況説明をうけた。
「 目下事態は有利に展開しているのでここに引上げた。
しかも秩父宮が上京し、我々の行動をよいと認めて下されたのだから益々有利になってきた 」
と いった。
待機中は眠ることにして各自思い思いの所でウトウトして過ごした。
一九・〇〇頃
安藤大尉より左の如き命令が下った。
「 さきほど述べたとおり事態は益々有利になった。
よって今晩は幸楽に行って安眠せよ 」
私は幸楽を寺院と思い込み一寸いやな感じがしたが、
軍装を解いて横になれるというのが嬉しかったので早速整列し建制順に出発。
先頭には尊皇討奸の吹流しを押立て、ラッパを吹いて威風堂々と行進した。
山王ホテルの前にさしかかると、ここにも友軍が約一個中隊ぐらい休憩していた。
我々はそこを通過し、とある1軒の料亭の前で停止した。
これが幸楽であった。
驚きと悦びが混じりあった気持で玄関に入ると、
従業員の女たちがずらりと並んで私たちを迎えてくれたのには二度びっくり。
通された大広間も大勢がつめこんでは横になるのもやっとだった。
電気ストーブで暖をとっていると急に睡気が出てきた。
そこへ安藤大尉がきて我々を激励した。
「 我々は正義のため、最後の一兵になるまで闘うのだ。
何事も意地と頑張りだ、ここでゆるむと我が方が討たれる。
その気持ちでしっかれやれ、今晩は命令あるまでゆっくり休め 」
安藤大尉は暖かい いたわりの気持を含めそういった。
ここにきてからやや余暇ができたので、一同は故郷に便りを書き睡眠をとった。
二三・〇〇頃
起されて夕食をとる。
それは幸楽で準備してくれた食事である。
有難いことだ。
しかし分量が少なく腹の虫がおさまらなかった。
二十八日
〇一・〇〇、
銃前哨として幸楽門前に一人で立哨。
この時間は二十分だったが、空腹と疲労で大分こたえた。
交代後はまた大部屋にもどってまどろむ。
〇八・〇〇過ぎ
上村軍曹がきて現在までの状況を左の如く語った。
「 今までいた三宅坂の陣地は何処から銃を撃たれても弾丸が宮城に飛ぶので、
鎮圧軍の攻撃は不可能だったが、幸楽にきてしまった以上彼等の思う壺になった。
豊臣秀吉が外濠を埋められたのと同じだ。
しかしどんな事になろうと頑張りぬいて最後の勝利をつかむのだ 」
どうも状況はよくない気配に傾いているようだ。
そこで軍曹は 「 志気団結 」 「 必死三昧 」 「 最後の一兵になるまで戦え 」 「 尊皇討奸 」
等と書いた紙を部屋の各壁に貼りつけ 隊員の志気を鼓吹した。
一一・三〇頃
果然戦闘準備の命令が下った。
いよいよ鎮圧軍と一戦交えるところまで事態は悪化したのである。
私にはそれがどんな理由か判断とている暇はなかった。
小銃隊がどんどん表に出て陣地につく。
MG隊もこれに続く。
その時上村軍曹が、
「 これが最後だからここにあるサラシでタスキと鉢巻を作れ。負傷した時は繃帯にしろ 」
と いって横に山と積まれたサラシ木綿をゆびさした。
各自いわれるままに適当に切って身につける。
私はタスキに小隊長以下の名前を墨書し、おわりに 『 俺達は死んでも心は死なぬぞ 』 と 認めた。
戦友たちも なにやら書いていたが、鉢巻きに 『 決死 』 と 鮮やかに書かれてあったのが今でも憶えている。
準備が整うと全隊員は手をとりあって 「 しっかりやろう 」 と いいかわした。
死を覚悟した時の心境は清々さっぱりとしたいわゆる虚心坦懐の気持になるものである。
私は上村軍曹にいった。
「 班長殿!分隊長殿!斎藤は第一番目の射手としてしっかりやります。
ともに死なしていただきます 」
「 ウム、しっかりやれよ 」
互いに差し出した手が固く握られた。
こうして私たちは戦闘準備についたが、敵はまだ撃ってこなかった。
私の傍で上村軍曹が何か書いている。
多分遺書であろう。
そこで私も、戦友たちも一斉に書きだした。
この場に臨み何を書いたらよいのか。
結局、
「 俺は正義のために悦んで死んで行く、後を宜敷く頼む 」
只 これだけだった。三通書いて女中さんに依頼したところ、
「 あなた方は何故死ぬのですか、こんな場所で死なないで下さい。
それより外地に行って御国の為に働いて下さいな 」
すると某下士官が、
「 それはわかっている。しかし外地で戦争する前に内地に居る国賊を倒さねばならんのだ 」
と 答えたところ 女中さんは黙ってしまった。
大方 意味が不明で返す言葉がなかったのであろう。

愈々 陣地につくことになった。
私は分隊長から万能鋏を受けとり首にかけた。
« 註  万能鋏とはMGの故障時修理、手入に使用する道具で必ず射手が首にかけて携行した »
「 オイ皆んな、万能鋏は俺の首にあるぞ。俺が死んだら誰でもいいから持っていってくれ 」
と 隊員に告げた。
やがて最後の水盃がかわされ、次いで地方人からもらった酒をくみかわし、
班長の音頭で軍歌がはじまった。
ひとしきり歌ったところで天皇陛下万歳、尊皇討奸万歳を三唱し 全員部署につく。
私の分隊は幸楽の門前に銃を据えた。
昨夜から幸楽前に押しかけた群集は益々その数を増し、
夜になっても帰る様子がなく、安藤大尉の話を望む声が強まってきた。
そこで大尉は玄関前に姿を現すと一斉に群集が万歳を叫んだ。
まさに天地が亀裂せんばかりの響きである。
大尉は話しはじめた。
「 諸氏も知っているとおり、さきの満洲事変、上海事変等で死んだ兵士は気の毒だがみな犬死だった。
これは軍閥や財閥の野望の犠牲であったからである。
これらの悪者は一刻も早く倒さねばならない。
その目的で我々は皆さんにかわって実施したまでである。
今からお願いしたいことは、我々の心を受けて大いに後押ししてもらいたい。
以上 おわり 」
大尉が姿を消すと群集はやっと承知したかのように万歳を叫び徐々に帰りはじめた。
そのうち状況が変ったらしく全員引上げの命が下り、幸楽の玄関に集合すると演芸会に移行した。
一体どうなっているのか、私たちには見当がつかない。
一人一人五分以内のかくし芸が熱を帯びてきた頃、異様な地方人が三人きて挨拶した。
「 我等にでき得なかったことを為し遂げて戴きましたことを厚くお礼申上げます。
我々もさきに神兵隊、血盟団等を送出したが いずれも失敗に終り、ただ心の中で考えておりました。
今我々が安藤大尉殿に面会し お話を聞きますれば確固たる計画にて、安心致しました。
どうぞ皆さん、元気で頑張って下さい。
では 音頭をとりますから万歳三唱してお別れ致します 」
そういって彼等は万歳を三唱して姿を消していった。
それが誰であったか、私には知る由もなかった。

演芸会は更に一時間続いて打切りとなり夕食を済ませて部屋に入ると、
いつの間にか畳が裏返しになっていて土足で上がれるようにしてあった。
私はその後歩哨に立ったが、民間人がきて煙草、餅菓子等を色々と差入れてくれた。
二二・〇〇
陣地変換の命が下った。
玄関を閉め 外に少数の歩哨を残し私たちは裏門から静粛裡に出た。
間もなく山王ホテルの裏口に到着。
中に入ると大きな建物の中は他隊の兵隊で一杯だった。
その夜は示された部屋で仮眠をとった。

二月二十九日 〇四・〇〇頃
だったか 「 起きろ・・・起きろ 」 と 静かにいう声が耳に入り、眼をあけてみると上村軍曹であった。
彼はMG隊員を全員起こし車座にすると小声で、
「 お前たちは今までの行動はよいのか悪いのか、どちらだと思うか 」
と いった。
私たちは命令に従ったまでで良否を考えたことはなかったので黙っていると、
「 ではいおう、我々の行動は悪かったのだ。
そこで今から卑怯のようだがここを脱出して原隊に帰ることにした。
班長としてお前たちを殺すことはできない。
脱出は窓から行う、見つかれば撃たれるから機会をみる、若し撃たれたら撃返せ。
命令は俺が歩哨の隙を見た上で下す、それまで眠ったふりをしておれ 」
しかし歩哨線は厳重で容易にチャンスが見出せない。
夜が白々と明けてきた頃、その時三回目の戦闘配置命令が下った。
この時のMG配備はホテル全般にわたって分散したが、小隊長は各分隊を次々に移動させ、
私達は夢中で駈け廻っているうち、いつの間にか歩哨線を突破しているのに気がついた。
それから以後路地を抜け広い道路に出ると、そこはすでに歩三部隊の鎮圧軍陣地で今までの適地だった。
班長の計画は図に当り遂に私たちMG小隊全員は脱出に成功したのであった。
時に〇七・〇〇、
その位置で武装を解き 高橋教官の指揮下にはいった。
するとそこへ内堀中隊長、柳下教官がきて 唯 「 よかった 」 の一言で あとは涙だけであった。
私たちも皆泣いた。
何故泣けるのかわからないが やたらに涙が出てきた。
ひとしきり泣いた後、銃隊で準備してくれた食事を済ませ 柳下教官の引率で帰隊。
途中 〇八・〇〇頃、
在郷軍人分会の接待を受けていると上空に飛行機が飛んできてビラを撒いた。
拾ってみると 「 兵に告ぐ 」 ではじまる奉勅命令であった。
一一・三〇
帰隊、内務班に戻った。

歩兵第三聯隊機関銃隊 (安藤隊配属)・二等兵 斎藤弥一  『鎮圧軍包囲す』
二・二六事件と郷土兵 ( 1981 ) から


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