あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

『 農村もとうとう救えなかった 』 1

2019年07月27日 17時20分00秒 | 安藤部隊

私は当時二年兵で第四内務班に所属し 中隊長安藤輝三大尉の当番兵を勤めていた。
所属の内務班は奥山粂治軍曹であった。
昭和十一年一月 初年兵が入隊した頃、
相沢事件の予審終了にともない近々公判が開始されるとあって聯隊内の心ある青年将校たちの
態度が俄かに活気を帯びてきたのが感じられた。
公判は第一師団司令部内に特設された軍法会議場で行われるとのことだった。
当中隊では毎週金曜日ごとに精神訓話が行なわれたが、君臣一体を説く中隊長の言葉の中に
現代の世相に対する憤激の精神が徐々に現われて、
拝聴する私たちには何かが起こるのではないかといった予感が抱かれたほどであった。
こうした雰囲気の中に、夜になると三、六、七中隊の屋上では日課のように軍歌演習がはじまり
「 昭和維新の歌 」 が高唱され、非常呼集も時折発令されるほど、
何かしら鳴動の気配がヒシヒシと高まっていった。

やがて一月が過ぎ 二月に入ってからも同じような状態が続いたが、
そうした頃の二十四日と思う日、私は安藤大尉の依頼で偕行社に買物に行った。
どんな温度の変化に遭っても曇らない眼鏡があるから買ってきてくれというのである。
多分満洲に行って使用するつもりなのであろう。
その時私は中隊長から妙なことを指示された。
それは往復とも必ず鈴木侍従長邸の前を通ること、聯隊から同官邸に至る経路、所要時間、
官邸周囲の警備配置及び人員、官邸に至る間の交番の位置を調査し速やかに報告せよというものであった。
やがてその狙いが何であったか二十六日になって解けたことはいうまでもない。

さて事件の起こる前日 私は発熱のため練兵休で就寝していたが、
その夜班内の空気が妙にザワついているのが気がかりだった。
そして深夜、おそらく午前零時直前かと思う頃 誰かが私をゆり起した。
「 週番司令殿が呼んでおられます 」
私はすぐ飛起きて仕度にかかった。
今週の司令は安藤大尉である。
間もなく司令室に行ってみると部屋の中には軍装した安藤大尉の他、第七中隊長の野中大尉、
歩一の栗原中尉 それに見たこともない民間人が一人いて密談していた様子だった。
私が一歩中に入るとすぐ命令が下された。
「 前島は機関銃隊の柳下中尉、炊事班長田中軍曹、兵器委員助手新軍曹・・・・
に 連絡してすぐ週番司令室にくるように伝えよ 」
この時 指名したのは五、六名だった。
命令はすぐ伝わった。
そのうち清原少尉、鈴木少尉等が集ってきた。田中曹長がくると大尉はすぐ命令した。
「 命令、聯隊は只今より帝都に起った暴動鎮圧のために出動する、
田中曹長は二食分の携帯食(乙) 及び間食一回分を直ちに配給すべし 」
命令が次々に下り、準備が進められた。
用事が済み中隊に帰ってくると皆軍装して待機の姿勢にあった。

〇一・〇〇
非常呼集が発令されたのだという。
私も大急ぎで軍装を整え指揮班に入った。
私の不在の間にすでに編成も完了していて、六中隊は二コ小隊編成で
第一小隊長に永田曹長、
第二小隊長に堂込曹長
が任命されていた。
〇三・三〇
舎前整列、この時中隊も整列していたのが見えた。
やがて安藤大尉が厳然として命令を下した。
「中隊は只今より靖国神社参拝に向かう。
第一、第二小隊の順序、指揮班は中隊長に続行」
衛兵の部隊敬礼を受けて営門を出てから間もなく、隊列が歩一の前にさしかかった時、
走ってきた乗用車が止り中から黒服の紳士がでてきて安藤大尉に話かけた。
「愈々決行ですか、御成功を祈ります」
その紳士は至極落付いた表情でそういった。一体何者なのか私達には判らなかった。
隊列は以後粛々と進み、乃木坂、赤坂見附を通過、
五時少し前、とある邸宅の近くで小休止した。


蹶起部隊出撃経路

〇五・〇〇
軽装に身を固めた中隊は愈々襲撃に移った。
目標は目の前の邸宅でそれは鈴木侍従長官邸であった。
攻撃は正門、裏門の両方に別れ指揮班は表門組の第二小隊のあとに続いた。
まず安藤大尉が門前を警戒していた二、三人の守衛に開門を要求、
しかし彼等は応じる気配がないので直ちに取抑え、
この間携行してきた竹梯子を塀に立てかけ先兵が内に飛込み瞬く間に門扉をあけた。
外で待っていた第二小隊がドッと侵入、続いて指揮班も入った。
この時取抑えた守衛たちは守衛詰所のキリヨケに手をかけてブラさげ監視をつけた。
家屋内に浸入すると、中は真暗なので用意してきた懐中電灯をつけ、
念入りに各部屋を探索しながら奥に進んだ。
やがて私達が建物の中頃あたりまで進んだ時、突然奥の方から拳銃の発射音が響いてきた。
すると 安藤大尉はソレッ!とばかり奥に向かった。
指揮班も遅れじと続く。
一番奥と思われる部屋にくると電燈がついて
そこに十五、六名の兵隊が半円形になって包囲する中に目指す鈴木侍従長が倒れていた。
上半身から血が流れ出し畳を赤く染めている。
安藤大尉はその光景を見るや侍従長をすぐ寝室の床に移動させた。
奥の間のすぐ手前が侍従長夫妻の寝室で、夫人が床の上に正座していた。
安藤大尉は徐ろに夫人に向って蹶起の理由を手短かに説明した。
「 御賢明なる奥様故、何事もお判りのことと思いますが、
 閣下のお流しになった血が昭和維新の尊い原動力となり、
明るい日本建設への犠牲になられたとお思い頂き、  我等のこの挙をお許し下さるように 」
「 では何か思想的に鈴木と相違でもあり、この手段になったのですか、
鈴木が親しく陛下にお仕え奉っていたのをみても  その考えに間違いはなかったものと思いますが 」
すると安藤大尉は静かに制して
「 いや、それは総てが後になればお判りになります 」
沈黙が続いた。
ややあって夫人は  「 あなた様のお名前を 」
「 歩兵第三聯隊、歩兵大尉安藤輝三 」
「 よくわかりました 」
「 甚だ失礼ではありますが閣下の脈がまだあるようです、止めをさせて頂きます 」
「 ああそれだけはどうぞ・・・」
と 夫人が叫んだ。
安藤大尉はしばらく考え、
「 ではそれ以上のことは致しません 」
と いいながら軍刀を納めた。
全員は大尉の号令で鈴木侍従長に向って捧ゲ銃の敬礼を行い官邸を引上げた。
正門前で隊列を組み三宅坂方面に向って行進に移る。

 
昭和維新の春の空 正義に結ぶ益荒男が
胸裡百万兵足りて 散るや万朶の桜花
「 昭和維新の歌 」 を高唱しながら
三宅坂方面に向い行進する安藤隊

すでに夜も明けたが今日もどんよりと曇っていて、今にも雪が降りそうな天気だった。
目的を達した私たちは 「 昭和維新の歌 」 を高唱しながら行進しているとフト救急病院の車が走ってきた。
勿論 鈴木侍従長官邸に行くことに相違ない。
一部の者から車を抑えるべきだとの意見が出されたがそのまま見過ごすことにした。
( 侍従長は後刻病院に収容され一命をとりとめ、後に太平洋戦争の終局時、
内閣総理大臣をつとめるに至った )

約三十分位して部隊は陸軍省に到着、ここでしばらく待機となった。
その頃 陸軍省をはじめ参謀本部、
陸相官邸はすでに歩一の兵隊によって占領され一帯は歩哨線が布かれていた。
私は伝令のため安藤大尉に随行し行動を共にしていたので、
お蔭で各方面に出動していた他隊の将校が行う報告から戦果が手にとるように判った。
第七中隊常盤少尉がきて安藤大尉に報告した内容によると警視庁を完全占領し目下警戒中の由、
坂井中尉は斉藤内府、渡辺教育総監を倒し我が方負傷二名とのこと、
高橋蔵相が近歩三の襲撃で死亡、岡田総理が歩一の手によって斃された等生々しい情報を耳にした。
報告を受けた安藤大尉は感無量といった姿で天を仰ぎながら 「 愈々昭和維新が達成するか 」 といった。

その後間もなく全員は陸相官邸前に整列し 
安藤大尉から蹶起趣意書を読みきかされ、真の出動目的を確認した。
その後三宅坂一帯は静寂そのものであった。
朝食が聯隊から届き交代で食べる、寒気がはげしく午後天幕を張って焚火する。
その日は警備態勢のまま夜を明かした。

三宅坂の安藤部隊、26日

二十七日
この日から小藤大佐 ( 歩一聯隊長 ) の 指揮下に入った。
これは昨日戒厳令が布かれ麹町地区隊長に小藤大佐が任命され、
蹶起部隊は全部その指揮下に入り、以降麹町地区警備隊となったためである。
時間がたつに従って三宅坂附近一帯は次第に物々しくなってきた。
そうした 一三・〇〇頃
中隊は警備を撤収して新国会議事堂附近に集結した。
これは小藤地区隊長からの命令であった。
しかし現場はまだ工事中で休養などできる場所ではなく雪の上に立ったままであった。
そこへ前聯隊長井出大佐 ( 現参謀本部軍事課長 ) が見えて安藤大尉と話をはじめた。
するとそれを見ていた小河軍曹がいきなり大佐を射殺するといい出し大尉に止められる一幕があった。

新国会議事堂の安藤大尉、27日
一八・〇〇頃、
陸相官邸で開催された軍事参議官会議の情報が入ってきた。
それによると 事態は蹶起部隊に有利に展開中 とのことに安藤大尉は満面に笑みをたたえて喜んだ。
一八・三〇分、
休養をとるため、尊皇討奸の旗を先頭に山王下、幸楽に入る。
沿道には市民が大勢つめかけ我々に対し万歳、勤皇軍と叫び歓声をあげていた。
中隊本部はロビーに、各分隊は部屋に入って休養かたがた警備につく。
ここで得た情報によると今晩秩父宮様が弘前を御出発、上京とのこと、中隊長以下各幹部感涙にむせぶ。
第二は本夜同じ戒厳下にある諸部隊 ( 蹶起部隊以外の部隊 ) が
我々を国賊と見做し討伐をはじめるとのデマが飛んだ。
そこで我々は皆銃剣を枕に寝た。

その夜は何事もなく過ぎ
二十八日を迎えたが
昨夜中隊長の許にきた憲兵隊長が中隊長に自決を迫ったということを聞いた。
この日から状況は一変し我々の立場は反乱軍となり、鎮圧軍から討伐を受ける羽目になった。
デマは真実となったのである。
安藤中隊長は予想外の成り行きに憤激し抗戦を決意した。
明るくなってみると玄関前の電車通りの向こう側にはいつの間にか鎮圧軍が布陣し我々の動きを監視していた。
よく見ると彼等は歩三の残留部隊であった。
〇六・〇〇、
五中隊の小林美文中尉がきて安藤大尉に告げた。
「 安藤大尉殿、間もなく総攻撃が開始されます。
もし大尉殿がここを脱出されるようでしたら自分共の正面にお出下さい。我々は喜んで道を開けますから 」
「 有り難う、御厚意に感謝する 」
二人は敵味方に別れていても同じ聯隊の将校同士である。
このような現状になったことを歎きながらもお互いの武運を祈り合っていたようである。
時間の経過と共に緊張が高まり兵士はみな悲壮な覚悟を決めた。
一〇・〇〇、
村中大尉が吉報をもってきた。
「 闘いは勝った。われらに詔勅が下るぞ、全員一層の闘志をもって頑張れ 」
次いで地方人池田氏(神兵隊事件関係者)がきて種々援助をしてくれた。有難い。
同時刻頃蹶起部隊の各指揮官に陸相官邸集合がかかった。
しかし安藤大尉は頑として応ぜず、今ここを離れたらどんなことになるか判らないと判断し、
坂井中尉を代理としてLG一コ分隊、小銃一コ分隊をつけ自動車で差出した。
午後一時頃
村中大尉がきて安藤大尉に
「 今までの形勢はすっかり逆転した。もう自決する以外道はなくなった 」
と 悲壮な覚悟を示した。
すると安藤大尉は一瞬ムッとした表情で
「 今になって自決とは何事か、この部下たちを見殺しにする気か、
軍幕臣どものペテンにかけられて自決するなど愚の骨頂だ。
俺は何といおうとそれらの人間とあくまで闘うぞ 」
と、村中大尉の報告を立ちどころに一蹴し決意の程を表明した。

我々が悲壮な気持ちで戦闘準備にかかった頃、
幸楽の前には民衆が黒山の如く集まり口々に
「 我々も一緒に闘うぞ、行動を共にさせてくれ 」
と 叫んでいた。
丁度歩一の栗原中尉がきていたので、彼は早速民衆に対して一席ブッた。
「 皆さん!我等のとった行動は皆さんと同じであなた方にできなかったことをやったまでである。
 これからはあなた方が我々の屍を乗越えて進撃して下さい。」
「 我々は今や尊皇義軍の立場にありますが、
 これに対して銃口を向けている彼等と比べて、皆さん方はいずれに味方するか、
もう一度叫ぶ、我々は皆さんにできなかったことをやった。
皆さん方は以後我々ができなかったこと、即ち全国民に対する尊皇運動を起こしてもらいたい、
どうですか、できますか?」
すると民衆は異口同音に
「 できるぞ!やらなきゃダメだ、モットやる 」
と 感を込めて叫んだ。

続いて安藤大尉が立ち簡単明瞭に昭和維新の実行を説いた。・・・ 幸楽での演説  
民衆は二人の演説に納得したのか万歳を叫びながら徐々に散っていった。
夜になって吉報が舞い込んだ。
今日陛下と伏見宮様がこん談され、陛下も尊皇軍をよく解って下さったようだというもので、
これを受けた安藤大尉はニッコリして
「 明日は逆転するぞ、みておれ、反対に悪臣たちに腹を切らせて我々が介錯するのだ 」
と、いった。
大阪から在郷軍人団がやってきた。
彼等は早速附近に集っていた民衆に熱弁を振るい協力を求めていた。
二一・〇〇、
悲報が到来した。
明朝鎮圧軍が軍旗を奉じ、やってくるとのこと、もし原隊に帰らなければ武力をもって鎮圧するという情報である。
最早や交渉の余地はなくなったようである。
そこで戦闘を有利に実施できるよう陣地変換に移った。

二二・〇〇、
幸楽を撤収、裏門から隠密裡に抜け出し山王ホテルに移動、
第一小隊は階下及び玄関、第二小隊は二、三階、
指揮班は階上を死守と決定し以後香田大尉の部隊と協同で戦闘することとなった。
ホテル内は客も従業員もそそくさと立退き兵隊だけになったが、
唯一人 伊藤葉子という女の人が残り、
最後まで勤皇軍のために死を決して食事の準備にあたってくれた。
リンク
・ 
伊藤葉子 ・ 此の女性の名を葬る勿れ 1
 藤葉子 此の女性の名を葬る勿れ 2


次頁
『 農村もとうとう救えなかった 』 2 に  続く
二・二六事件と郷土兵
歩兵第三聯隊第六中隊・伍長勤務上等兵 前島清 
「安藤大尉と私」から 


『 農村もとうとう救えなかった 』 2

2019年07月27日 04時15分33秒 | 安藤部隊

安藤部隊、坂井部隊の四日間

前頁 『 農村もとうとう救えなかった 』 1 の 続き
明くれば二十九日
払暁を破るかのように鎮圧軍の陣地から気ヲツケラッパが亮々として鳴り響いた。
我々も戦闘態勢に入る。
いよいよ楠軍と足利軍との戦いが始まるのだ。
そのような緊迫した所に大隊長伊集院少佐がやってきて血を流さんうちに帰隊せよと盛んに説得したが
安藤大尉は頑として拒否し
「 そのお心があったら軍幕を説いてくれ 」
と絶対に動こうとしなかった。正に大尉の気魄は鉄の如く固まっていたのである。
鎮圧軍の包囲網が刻々迫ってきた。
これを見た大尉は軍刀を引抜き  「 斬るなら斬れ、撃つなら撃て、腰抜け共!」
と 叫びながら突進しはじめた。
私たち五人の兵隊も銃を構えてあとに続く。
もし中隊長に一発でも発射すれば容赦せずと追従したが鎮圧軍は一人として手向かう者はいなかった。
程なく電車通りで歩兵学校教導隊の佐藤少佐と顔が合った。
すると安藤大尉は
「 佐藤少佐殿、歩兵学校当時は種々お世話になりました。
このたび貴方がたは何故我々を攻撃するのですか、
我々は国家の現状を憂いて、ただ大君の為に起ったまでです。
一寸の私心もありません。
そのような我々に刃を向けるよりもその気持ちで幕臣を説いて下さい。

私は今初めて悟りました。重臣を斬るのは最後でよかったと・・・・。
そして先ずもって処置するのが幕臣であった。自分の認識が不足であった点を後悔しています 」

「 歩兵学校では種々有益な戦術を承りましたが、それを満州で役立てることがて゛きず残念です 」
安藤大尉の意見に佐藤少佐は耳をかたむけていたが、果たしてどのように受けとめたことであろうか。
少佐は教導隊の生徒を率いて鎮圧軍に加わっていたのである。
次いで歩三、第十一中隊長浅尾大尉がやってきた。
「 安藤大尉、お願いだから帰ってくれ 」
「 浅尾大尉殿、安藤は帰りませんぞ。
陛下に我々の正しいことがお判り頂くまでは帰るわけには参りません。
十一中隊は思い出の中隊でした。帰りましたら十一中隊の皆さんによろしく伝えて下さい。
木下特務曹長をよろしくお願いいたします 」
二人が話している所へ戦車が接近してきた。
上空には飛行機が飛来し共にビラを撒きはじめた。
これを見た中隊長は憤然として 「 こんなことをするようでは斬るぞ 」 と叫んだ。
正に事態は四面楚歌であった。

再びホテルに戻ってくると第一師団長、堀中将がきて説得をはじめた。
「 安藤、兵に賊軍の汚名を着せて陛下に対し申訳ないと思わんか、黙ってすぐ兵を帰隊させよ 」
すると安藤大尉はムラムラッと態度を硬化させて
「 閣下! 何が賊軍ですか、尊皇の前には将校も兵も一体です。
一丸となって陛下のために闘うのみです。我々は絶対に帰りません。また自決も致しません 」
「 師団長閣下、安藤は閣下に首を斬られるなら本望です 」
すると側に居た伊集院少佐が
「 安藤、お前はよく闘ったぞ、では閣下に代わってこの伊集院がお前の首を斬る、そして俺も死ぬのだ 」
といった。
すると安藤大尉はグッと少佐を睨みつけ
「 何をいうか、俺を殺そうとまで図った歩三の将校団の奴らに斬られてたまるか、斬れるものなら斬ってみろ 」
と 起ち上がったため附近にいた私たちが中に入ったので事なきを得た。
師団長は兵のことを考えてくれといって帰っていった。

一三・〇〇頃、
歩一香田部隊が武装解除して帰ろうとしていた。
それを見た安藤大尉が憤り香田大尉に詰め寄った。
「 帰りたいなら帰れ、止めはせん、六中隊は最後まで踏止まって闘うぞ。
陛下の大御心に我々は尊皇軍であることが解るまで頑張るのだ。
昭和聖代の陛下を後世の物笑いにしない歴史を作るために断乎闘わねばならない 」
この言葉に香田大尉は感激したらしく、意を翻して最後まで闘うことを誓い再び陣地についた。
我々はここで志気を鼓舞するために軍歌を高唱した。
その声は朗々として山王ホテルを揺るがした。
最期まで中隊長の命を奉じて闘い そして死んでゆく気概がありありと感じられた。
軍歌が終わった頃再び伊集院大隊長がきた。
「 安藤、さきほどは済まないことをした。俺はあやまる、何としても皇軍相撃を見るに忍びないのだ。
 どうか俺の言葉に従って帰ってくれ 」
板ばさみになっている大隊長の苦悩がよく判る。
何としても部下の兵隊を帰したい気持ちがありありと浮かび出ていて
大隊長は涙を流しながら安藤大尉を説得した。
しかし大尉の決心に変わりなく、
「 何度いわれても同じことです。私たちにいう言葉があったなら、軍幕臣を説いて下さい。
この上いうなら帰って下さい 」 とはっきりいい切った。

一四・〇〇頃、
尊皇軍の幹部全員が山王ホテルに集まった。
安藤、香田、磯部、山本、村中、丹生、栗原の各将校の面々は重要会議を始めた模様である。
ここに至っての会議といえば事件処理の善後策以外に考えられない。
やがて重苦しい雰囲気の中に会議が終り解散となった。
その頃山王ホテルの周囲は鎮圧軍がひしめき、盛んに降伏を呼びかけていた。
間もなく安藤大尉は全員を集め静かに訓示した。
「 皆よく闘ってくれた。戦いは勝ったのだ。最後まで頑張ったのは第六中隊だけだった。
 中隊長は心からお礼を申上げる。皆はこれから満州に行くがしっかりやってもらいたい 」
安藤大尉の訓示は離別を暗示していた。
そこで
「 中隊長殿も満州に行かれるんでしょう 」
と 兵が口々に叫んだ。
すると大尉は 「 ウン、いくとも・・・・」
と 悲しげに答えた。
そこへまた大隊長がきて
「 安藤、いよいよ死ぬ時がきた。俺と一緒に死のう 」
と 迫った。
中隊長はすでにさきほどの気概が消え、恰も魂の抜がらのようになっていた。
「 ハイ、一緒に死にましょう 」
そういって無造作に拳銃を取り出したので私は咄嗟に中隊長の腕に飛びついた。
同時に磯部主計が背後から抱き止めた。
「 離してくれ・・・・」
「 いや離しません 」
「 安藤大尉、早まってはならん 」
中隊長も止める者も皆泣いた。
大隊長は
「 なぜ止めるのか、離してやれ、可愛いい部下を皆殺しにできるか、
俺と安藤の二人が死んで陛下にお詫びするのだ、
昭和維新は十分に目的を達したのだ、喜んで死ぬのだ 」
と 彼もまた号泣した。
中隊長は腕を抑えている私に
「何という日本の現状だ・・・・前島、離してくれ、中隊長は何もしないよ、
するだけの力がなくなってしまった。
随分お世話になったなあ。
いつか前島に農家の現状を中隊長殿は知っていますか、
と 叱られたことがあったが、今でも忘れないよ。
しかしお前の心配していた農村もとうとう救うことができなくなった
中隊長の目からこぼれ落ちる涙が私の腕を濡らした。
側にいる磯部、村中の両大尉が静かに話しかけた。
「 安藤、死ぬなよ、俺は死なないぞ、
死のうとしても止める時は死ねないものだ。死ぬことはいつでもできるのだ 」
「 ウン、しかし俺は死ぬのがいやで最後まで頑張ったのではない、
ただ何も判らない人間共に裁かれるのが嫌だったのだ。
しかし正しい事は強いな、けれども負けることが多い、日本の維新はもう当分望まれない 」
そこへ山本又少尉がやってきて
「 安藤大尉殿、靖国神社に行って皆で死にましょう。
大隊長も靖国神社に行って死ぬことを誓ったので喜んで帰ってきました。一緒に行きましょう 」
「 ウン、行こう、兵士と一緒ならどこへでも行く 」
これを堂込曹長が止めた。
「 行っては困ります、中隊長殿、死ぬなら私たちと一緒にお願いします 」
私はここで中隊長の腕をはなした。
すでに将校たちは死を決意し死場所を求めているのである。
そこへ戒厳司令部の参謀副官がきて、早く靖国神社に行けと催促した。
同居していた歩一も勧告されたのか武装を解いて原隊に復帰し
香田大尉は陸軍省に集合したとのことである。
中隊長は出発にあたり物入れのボタンが落ちているのでつけてくれというので
私は黒糸を使って縫いつけた。
そこへ参謀副官が再びきて 「 兵隊だけは原隊に帰えせ 」 といった。
すると中隊長は憤然として
「 最後までペテンにかける気か、皆も見ておけ、軍幕臣という奴はこういう人間だ 」
と 副官をなじりあくまで兵と一緒に行くことを強調した。
かくして 
一五・〇〇、
中隊がホテル前の広場に集合した時、参謀副官は我々に向って
「 お前たちはここで中隊長とお別れしなければならぬ 」 といった。
これを大隊長が一応とめたが安藤大尉はどういうわけか聞き流し、
整列した我々に対し最後の訓示を与えた。
「 俺たちは最後まで、よく陛下のために頑張った。
お前たちが聯隊に帰るといろいろなことをいわれるだろうが、
皆の行動は正しかったのだから心配するな。
聯隊に帰っても命拾いしたなどという考えを示さないように、女々しい心を出して物笑いになるな。
満州に行ったらしっかりやってくれ。では皆で中隊歌を歌おう 」
やがて合唱がはじまった。
昭和維新の夢破れ、
反乱軍の汚名を着せられて屈伏した今、
安藤大尉の胸中如何ばかりか察するにあまりあるものがある。
無念の思いをこめて歌う合唱がどのように響いたかかは知らないが、
我々の心は等しく号泣に満ちていた。
一、
鉄血の雄叫びの声  竜土台
勝利勝利時こそ来たれ吾らが六中隊
二、
触るるもの鉄をも砕く わが腕
奮え奮え意気高し 吾らが六中隊
以下三、四番 略
合唱が二番にうつる頃、安藤大尉は静かに右方に移動し隊列の後方に歩いていった。
私は変な予感を抱きながら見守っていると、やおら拳銃を引抜き左あご下にあてた。
「 ダーン!」
突然の銃声に驚いた一同は
ワッと叫びながら安藤大尉の元にかけより口々に  「 中隊長殿!」 と叫んだ。
倒れた大尉の頭から血が流れ出しコンクリートを赤く染めた。
負傷の状態をみると左あご下からこめかみ上部にかけての盲貫銃創で
しかも銃弾が皮膚と骨の間を直通したかのようであった。
早速衛戍病院に連絡し救急車を呼び、
私一人が付添い人となり病院からきた衛生兵二名と共に病院に護送した。
安藤大尉がすぐ病室に収容されるのを見届けると私はそのまま聯隊に帰隊した。
なお山王ホテルの方の主力は永田曹長の指揮で聯隊に帰った。

久し振りに寝台に横たわってみると
四日間の出動期間が一カ月もの長い年月に思われ、
安藤大尉の行動が如何に目まぐるしく苦悩に満ちた闘いであったか しみじみ想起された。
夕食後は全員日用品を持って近歩四に隔離され、三日目から営庭に張られた天幕の中で取調べを受けた。
私は安藤大尉の当番兵であったためか大分細かく訊かれ、
取調べ回数は十二回にも上り、やっと放免されて原隊に帰った。
事件後二週間ぐらいして新しい幹部が着任した。
その頃 出動した下士官以上の者は全員衛戍刑務所に収容されていたのである。

・・・ 「 前嶋君 君達にあひ度かつた 」 ・・・後編に続く
二・二六事件と郷土兵
歩兵第三聯隊第六中隊・伍長勤務上等兵 前島清 
「安藤大尉と私」から