私は昭和十年兵隊検査を受け甲種合格となり、
後日、本郷連隊区司令部から歩兵第三聯隊第六中隊に入隊すべしという通知を受けとった。
その時私は名誉と責任の重大さをかみしめ、
早速先輩各位から軍隊の概念や入隊までに準備すべき事項などの教示を受けた。
たまたま この中に第六中隊から除隊したという者がいたので親しみをもって挨拶すると、
「 そうか、では伝えておくが、
お前が入隊すると間もなく日本中が大騒ぎになる大事件が起こるから 覚悟して入隊することだな 」
と 妙なことをいった。
私は何の話か判らず、そうですかといっただけで聞き流してしまった。
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明けて昭和十一年一月十日、
大勢の人に見送られて歩三、第六中隊に入隊し 第三内務班に所属した。
班長は門脇軍曹であった。
入隊すると間もなく中隊長安藤輝三大尉の精神訓話があり、
拝聴しているうち私はだんだんと胸のときめきを覚えるに至った。
訓話の概要は次の通りである。
『 我が第一師団は近く北満の警備につく予定であるが、
渡満前 我々としては腐敗した現在の政界とこれを取りまく重臣どもを粛清しておく必要がある。
これらの輩に大鉄槌を下し、国政を正しておかなければ 我々が満洲に行っても意義がない 』
そして中隊長は黒板に一隻の船と大海を描き、
次いで上方に太陽を、そして その下に暗雲をたなびかせた。
『 今 述べた事をもう少し判りやすく説明する。
この図にある大海とは世界である。
船は日本国民だ、太陽は天皇 暗雲は腐敗した重臣どもである。
而して この暗雲がただよっている限り御稜威は我々下々の国民には届かないのである。
即ち 船は大海を乗り切ることができない、
そこで 何としても この暗雲を取り払わねばならないのである 』
安藤大尉は熱を帯びながら国政を痛烈に批判するので
私たちもいつしか熱心に耳を傾け魅了されていった。
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初年兵の日課は訓練と内務教育がすべてで 毎日追われるような日が続いたが、
この間 安藤中隊長との接触が深まり 非常に兵隊を可愛がることが判って無上の喜びを感じた。
二月二十五日夕刻、一日の訓練がおわって兵舎に入ると中隊掲示板に
「 大内山に光射す云々 」 と 大書されていて 皆の目を集めた。
しかし 誰もどんな意味を秘めていたかは知らなかった。
班内で身のまわりの整理をしていると今晩非常呼集があるという うわさが流れてきた。
そのため日夕点呼後軍装品を揃えて就寝した。
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二月二十六日
その日は入隊日から数えて四十七日目である。
早暁予想したとおり非常呼集が発令された。
しかしラッパは鳴らず、班長たちが一人一人をゆり起こし
非常呼集を告げるというおかしなやり方だった。
考えてみると昨夜点呼後からの中隊内のザワメキは異常で、
二年兵や幹部の振舞いはたたごとではなかった。
そして誰いうとなく明払暁、
鈴木侍従長に襲撃をかけるらしいとの流言が暗々のうちに流れたほどである。
私は飛起きると すぐ軍装にとりかかった。
すると班内に弾薬や食糧が持込まれ 一人一人に交付された。
受取った弾薬は実弾でびっくりした。
どこかへ出動するのである。
昨夜の話が本当だとすれば大変なことだ。
しかし私には命ぜられるまま行動する以外に道はなかった。
すると二年兵が、
「 お前たち初年兵は早く末期の水を飲んでおけ、そのうち飲めなくなるぞ。それに親兄弟に遺書を書いておくんだな 」
真実とも冗談とも判じかねる二年兵の言葉に戸惑ったが、
その時 彼等はすでに今回の出動を知っていたようである。
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○四・〇〇頃 舎前に集合すると編成下達があり、私は指揮班になった。
出発準備が整ったところで安藤大尉の号令で出発となった。
残雪が夜目にも白く路面は凍てついて郡靴がすべりやすかった。
営門を出てから約一時間たった頃、ある邸宅の横で小休止をした。
叉銃し 背嚢をおろして約十分間休んだが
路面が凍っているので小銃の床尾鈑がすべり なかなか叉銃ができなかった。
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○五・〇〇 行動をおこした。
やはり目標は目前の鈴木官邸であった。
中隊は二手に分れ 第一小隊が裏門、指揮班と第二小隊が表門から突入した。
私は入隊後日も浅く未だ一人前の兵隊ではなかったので、
恐ろしさが全身を包み手足がふるえ屋内に飛込めず躊躇した。
すると 見ていた堂込曹長が、
「 お前は中にはいらなくてよろしい、そこで窓を監視しておれ、若しそこから出てくる奴があったら射殺せよ 」
と 命令してくれたので
私は小銃に実包を込め引鉄にゆびをかけて、即戰の姿勢で玄関ワキの窓を警戒した。
それから約二十分後、屋内から襲撃班が引上げてきた。
そして 「 状況終り、成功!」 が 告げられた。
この間捕えられた一人の警官が丸裸でしばられていたが、
彼は 「 どこでもいいから銃剣で突いてくれ 」 と 兵隊に頼んでいた姿が今も目に浮かぶ。
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中隊は表玄関前に集合し隊形を整え すぐ陸軍省に向った。
途中トラックに乗った多数の憲兵を見た。
陸軍省前につくと一寸小休止しただけで三宅坂に移り、
ここで縄を張り歩哨線を布いて交通遮断の任務についた。
即ち同志の通過は許すがその他の者は一切追返すのが守則であった。
そのうち聯隊から食事が届けられた。
内容を見ると今までに見たこともなかった豪華な食事だったのでビックリした。
寒い日だったが飯を食べたので急に楽になった。
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午後、陸軍省から大柄な堂々とした閣下 (たぶん山下奉文閣下と思う) が きて
安藤大尉に陸軍大臣告示を伝達した。
その夜は警備しながら夜を明かした。
ジッとしていると凍ってしまいそうな寒い夜だったが、木炭を焚いて暖をとり、
聯隊から届けられた食事で何とか事なきを得た。
中でも私たちにとって豚肉が沢山入った味噌汁は全身が暖まる願ってもない防寒食事だった。
その他小夜食としてリンゴ、甘納豆なども支給され、兵隊の志気は大いにあがった。
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二十七日午後一時頃、
中隊は三宅坂の警備を解き、新国会議事堂附近に集結、
しばらく待機した後 夕方になって幸楽に入った。
その夜 大広間で安藤中隊長から状況説明を聞き、
「 陸軍大臣告示 」 なるものが公布されたことを知り 私たちは天にも昇るような喜びにひたった。
私はここで前島上等兵から鈴木侍従長襲撃の模様を細かく聞き、同時に各蹶起部隊の行動も聴取した。
この頃から渋谷聯隊長、伊集院大隊長をはじめ多数の外来者が入れかわり立ちかわり
安藤大尉の所にきて膝ずめで話をしていた。
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二十八日になると
俄然状況がかわり 戦闘の気配が濃くなったので中隊はその夜ひそかに山王ホテルに移動した。
すでに鎮圧軍がここかしこに姿をチラつかせて遠巻きに私たちを包囲しているのが見えた。
ホテルに入った中隊はすぐ戦闘配備を整え、私は板垣上等兵の分隊となって屋上を受持った。
ここに設備された消防ホースをのばし放水を主力武器として敵襲に備えたのである。
しかし戦闘配備についても空腹では処置なしであった。
その頃聯隊からの食事が止ったので自活することとなり
ホテルの食糧に依存したが量は僅少であった。
私たちの屋上には握り飯が一個ずつ配給されただけで我慢させられたが、
後で聞いた話によると、下に居た連中は倉庫から色々な食料品を持出し、
酒までみつけ出して飲食したそうでかなりの隔たりがあったようである。
なおホテルの従業員は全部避難し、
伊藤葉子という人が一人だけ自発的に踏止まって私たちの面倒を見てくれた。
随分勇敢な人だ、
いつ戦火がおこるか極めて急迫した状況下に女の身でよく頑張っていたものと関心した。
そんなことから兵隊たちにとって彼女の印象が強く残り、
渡満してからも伊藤葉子さんの話題に花が咲き 当時の思い出が語られたほどである。
・
そして
二十九日の朝がきた。
屋上に立つて刻々明るくなってゆく四囲を見ていると、
ホテルの周囲はすでに鎮圧軍によって包囲され、
その後方には砲兵隊陣地まで構築されているのが確認されたが、
しかし両方とも黙したままであった。
これは相手の撃ち出すのを待っているかのようであるが
果して皇軍相撃という事態が起こり得るだろうか。
やがて戦車が出てきて放送を開始した。
スピーカーから流れ出たのは 「 兵に告ぐ 」 という勧告で
下士官兵の原隊復帰を呼びかけてきたのである。
しかしその内容には子を想う親の心情が切々と感じられ聞く者の胸を打った。
状況としては最早発令された奉勅命令に従う以外にない。
命令がいつ出たのか知らぬが 何故伝達されなかったのか、
だが事態はもうそこまできていたのである。
この間ホテル内では戒厳司令部をはじめ第一師団長以下大隊長に至るまで
安藤大尉に対し必死に原隊復帰の説得が続けられていた。
この中で伊集院大隊長の説得は特に切々たるものがあった。
「 安藤!お前や兵隊達は死ぬ気でいるのであるからそれでよかろう。
しかし兵の親兄弟が遠く故郷の空からどんなにか心配し悩み悲しんでいるか、
安藤、お前には判らぬ筈はない 」
事実私の郷里八代村大字平須賀の鎮守の森では、私が投函した
「 尊皇討奸、我、大日本帝国の礎となりて死せんとす 」
の 一通の葉書きが小学校長の許に届いたため 村の人が集り、
梅林寺神官祈祷の下に無事なるようにと上を下への大騒ぎになったとか、
ましてや、たった一人、私の身を案じて朝な夕な神仏に祈りを捧げていてくれた、
年老いた母親の心情を察するに、余りあるものが窺われる。
だが 渦中にある私としては、屋上に在って今や遅しと待構えていた時の気持ちは、
我方が敗ければ日本国家は滅亡するのだ、
その後のくだらぬ世の中にあって生きてゆくのは御免だ、
一層のこと安藤中隊長と一緒に死んだ方がよいという強い信念で凝り固まっていたのである。
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戦車や飛行機からビラが撒かれ、スピーカーからは休みなく投降勧告が放送され、
包囲する鎮圧軍が徐々に迫ってくる状況下、安藤大尉は説得責めにあえぎ続けた。
やがて午後二時半か三時頃、或はもっと過ぎていたかも知れない、
緊迫した最中に突如 「 ホテル前広場に集合 」 が かかった。
全員は戦闘配備を撤収し広場に整列すると安藤中隊長がきて訓示を行った。
「 戦いは終わった。しかし勝つべき正義は遂に負けた。
皆は至らぬ中隊長を最後までよく援けてくれた。ありがとう。
中隊長はここで自決するが、皆は健康に注意し満洲で国のために尽くしてくれ 」
訓示が終わった瞬間 兵隊の間から号泣がおこり周囲を圧した。
すると兵隊の中から
「 中隊長殿が死ぬなら俺も死ぬぞ!」
と 銃口をノド元にあてる者が出たので中隊長は、
「 では 中隊長も一緒に聯隊に帰る 」
と 諭とし ようやく安心させた。
隊列の周囲には
鉄帽、防弾チョッキで身をかため鎮圧軍がひしめき、
私たちの行動を見守っていた。
彼等は私たちが原隊に向って出発するのを今か今かと待ち望んでいるようだった。
その顔には勝ちほこった自信が溢れ、我こそ皇軍であるといった風潮を誇示しているようにみえた。
それを見ていた隊員たちは 号泣の中に怒りがこみ上げ、
俺たちのした事が何故悪い、貴様らにできないことをやったのだ、
と ばかり いきなり数人が並いる将校たちに銃口を向けた。
すると全員がそれを合図に 一人残らず鎮圧軍の将校に立ち向かったので
彼等の驚きようは格別で、
腰を抜かさんばかりにたじろぎながら兵隊の間をかいくぐるようにして後方へ姿を消した。
そして参謀一人だけ残った。彼は桜井戒厳参謀であった。
突如とした私達の行動に鎮圧軍側は動揺し包囲網が乱れ出した。
中隊は再び隊列を整え
彼等を物ともせず中隊長の提案によって中隊歌の合唱をはじめた。
涙を流しながらの合唱は 只々 悲壮感以外の名にものでもなかった。
やがて正面に立って歌っていた中隊長は徐々に側方に移り、
次いで 隊列の後方へと歩んでいった。
中隊歌が二番に入ったとき、
安藤中隊長は、やおら拳銃を抜き、下あごにあて自決を図った。
銃声一発!
大尉はドッと倒れた。
その行為に合唱がとまり隊員は中隊長の元に集まった。
その時の様子はあまりにも衝撃的で細部を述べることを控える。
櫻井参謀が中隊長の側にきて様子を見ながら、
「 俺も安藤大尉と同じ気持である 」
と 私たちにつぶやいた。
すると隊員たちは怒りを爆発させて、
「 何をいうか、この野郎、中隊長を殺したのは貴様らだぞ!」
と 叫び参謀につかみかかった。
私は参謀のそばにいたので その様子が今でも目に浮かんでくる。
その時 伊集院大隊長が、
「 堂込! 止めさせろ!」
と 大声で制したので参謀は危く助かった。
安藤中隊長の身柄はすぐ陸軍衛戍病院に送られたため、隊員の興奮もおさまり
永田曹長の指揮で弾抜きをして 武装をしたまま原隊に帰った。
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中隊に戻ると残留者が喜んで迎えてくれたが、
玄関で小銃と弾薬を取上げると途端に態度を一変して気合いをかけた。
「 貴様ら、とんでもないことをしてくれたな、殿下中隊に泥をぬりやがって、第六中隊の名誉は丸つぶれだ!」
その晩 参加した兵隊達は全員近歩一に隔離された。
その道すがら、全員は四日間の睡眠不足のため、
歩きながら眠り 電柱にブチ当りそうになったことがしばしばあった。
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それから二日後、営庭に張られたテントの中で憲兵の取調べを受けた。
私はすべて命令によって行動したと答えたが
中には口をすべらせたため二十日間の重営倉に処せられた者もあった。
取調べが終了すると原隊に帰されたが、中隊内でもしばらく禁足の状態が続き、
残留組との間に区別をつけられた。
事件終了後は一期の検閲と渡満準備で忙しい日が続いた。
五月渡満となり任地チチハルで第十六師団歩兵三十八聯隊と交代し
警備のかたわら訓練に励んだ。
渋谷聯隊長の後任として着任した湯浅聯隊長は
満洲にきてから、やたらと猛訓練を課し 時には全員を整列させた上で説教もした。
内容はいつも同じで
二・二六事件に参加した私たちを非難した上で、
きまって 「 汚名挽回 」 を お題目のように強調するのである。
しかし 私たちは 安藤大尉の信念と目的に心服していたので
「 汚名挽回 」 には むしろ反発を感じ 癪にさわってとても死ぬ気持にはなれなかった。
更に在隊中、新任の各幹部が二言めには名誉回復を口ぐせのように振り回したのには
腹が立つ程口惜しかった。
その翌年 北支事変の勃発と共に聯隊は長城作戦に出動したが
私は身体が弱く途中から入院しそのまま除隊した。
次いで 昭和十六年夏、関特演の召集で近歩四に入隊し歩四十九に転属、
ここで一年半軍務に服して解除帰郷した。
この時の階級は兵長である。
囲碁 青年学校指導員、防衛隊要因として服務中 終戦を迎えた。
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おわりに私は立派な中隊長の下で行動したことを誇りに思い、
あわせて 亡き陸軍歩兵大尉安藤輝三氏の霊に対し
心から冥福を祈り続けている。
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歩兵第三聯隊第六中隊・二等兵 平井銀次郎 『四面楚歌』
二・二六事件と郷土兵 ( 1981 ) から