あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

「 中隊長殿、死なないで下さい ! 」

2019年07月26日 17時11分31秒 | 安藤部隊

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「 断乎、反徒の鎮圧を期す 」 の続き
 

自決か脱走しかない

その頃磯部は永田町一帯台上に見切りをつけて、ここにやって来ていた。
山王ホテルは、反乱軍最後の抵抗拠点である。
ホテルの応接間には期せずして同志将校が集まっていた。
磯部、村中、香田、栗原、田中、竹嶌、對馬、山本等々。
そして今後の方針にさき意見をまとめようと話合っていた。
だが、もう、こうなっては兵を返す以外に案もなかった。
ただ 安藤だけはさいごまでやると頑張っていた。
磯部はさっきから、じっと、連日の疲労に青黒い顔をしている兵隊たちをみつめていた。
彼らは、あるいは壁に寄りかかり、あるいは窓に腰かけて軍歌をうたいつづけている。
あといくばくもない命の綱をわずかに軍歌の歌声によって、かろうじて支えているのだ。
磯部の胸にはグッとつかえるものがあった。
この兵隊たちを殺してはいけない。
なんとしても安藤に戦いを断念させなくてはならんと思い至った。
「 オイ安藤 」
不意に磯部は顔をあげて呼びかけた。

「下士官兵をかえそう、貴様はこれほど立派な部下を持っているのだ。
騎虎の勢い、一戦しなければとどまることがてせきまいが、
それはいたずらに兵を殺すだけだ。
兵を殺してはいかん。兵はかえしてやろう 」

いっているうちに、磯部は泣いてしまった。
「 諸君 ! 」
安藤は昂然と顔をあげて言った。
「 僕は今回の蹶起には最後まで不賛成だった。
しかるに、ついに蹶起したのは、
どこまでもやり通すという決心ができたからだ。
だのに、このありさまはなんだ。
僕はいま、何人も信ずることはできない。
僕は僕自身の決心を貫徹するのだ 」

同志の将校は交々意見を述べた。
「 それはわかる、だが、兵を殺すことはできない 」
「 兵隊だけはかえした方がいい。
いまかえせば彼らは逆賊とならないですむ 」

だが、安藤は
「 そんなことは信用できない 」
と いいながら、傍の長椅子にゴロリと横になった。
「 少し疲れてゐるからしばらく休ませてくれ 」
そのまま眼をとじてじっと考えていた。
しばらくして、むっくりおき上がった彼は、
「 戒厳司令部に行って包囲を解いてもらおう、包囲を解いてくれねば兵はかえせぬ 」
と 言った。
磯部も 「それも一案だ」 と 賛成した。
そこで磯部は戒厳参謀の石原大佐と交渉することを思いついた。
ちょうど、そこに柴大尉がいたので、彼にこの連絡方を頼んだ。
間もなく戒厳司令部の少佐参謀が山王ホテルに車を飛ばしてきた。
「 石原参謀の返事をお伝えする。 今となっては自決するか脱出するか二つに一つしかない」
「 何ッ! 」
磯部をはじめそこに居合わせた同志たちは、このうって変った非情な仕打ちに切歯痛感した。
だが、さりとてよい案もなかった。
彼らはまた首をうなだれ深く考え込んでしまった。
そこへ、歩三の大隊長伊集院少佐が撤退勧告に決死の覚悟でのり込んできた。
この少佐は前日、
「 この事件で兵を殺してはならん、歩三の将校の不始末はわれわれ将校で片づけよう。
 われわれは最後の一人まで斬り込もう。一番最初に安藤を、それから野中を殺してしまう 」
と、将校団で提案した人だった。

「 安藤!  兵隊がかわいそうだから、兵だけはかえしてやれ 」
と 伊集院少佐は安藤に詰めよった。
安藤はこの少佐の言葉に、憤りの色を見せ、声をふるわせて、
「 わたしは兵がかわいそうだからやったんです。大隊長がそんなことをいわれると癪にさわります 」
と 反発した。
突然、安藤は怒号した。
オーイ、俺は自決する、自決させてくれ 」
彼はピストルをさぐった。
磯部は背後から抱きついて彼の両腕を羽がいじめにした。
そして言った
「 死ぬのは待て、なあ、安藤! 」
安藤はしきりに振りきろうとしたが、磯部はしっかり抑えて離さなかった。
「 死なしてくれ、オーイ磯部 !  俺は弱い男だ。
いまでないと死ねなくなるから死なしてくれ、俺は負けることは大嫌いだ。
裁かれることはいやだ。
幕僚どもに裁かれる前にみずからをさばくのだ。死なしてくれ磯部!  」

もがく安藤をとりまいて、号泣があちこちからおこった。
磯部は、
「 悲劇、大悲劇、兵も泣く 下士官も泣く 同志も泣く、涙の洪水の中に身をもだえる群衆の波 」
と、その情景を書きのこしているが、まさしくこの世における人間悲劇の極限というべきか。
伊集院少佐も涙にくれて、
「 オレも死ぬ、安藤のような奴を死なせねばならんのが残念だ 」
鈴木侍従長を拳銃で撃ち倒した堂込曹長が泣きながら安藤に抱きついた。
「 中隊長殿が自決なさるなら、中隊全員お伴いたします 」
「 おい、前島上等兵 ! 」

安藤は当番兵の前島が さっきから堂込曹長と一緒に彼にすがりついているのを知っていた。
「 前島 !  お前がかつて中隊長を叱ってくれたことがある、
 中隊長殿はいつ蹶起するんです。
このままでおいたら、農村は救えませんといってね、
農民は救えないな、
オレが死んだら、お前たちは堂込曹長と永田曹長を助けて、どうしても維新をやりとげてくれ。
二人の曹長は立派な人間だ、イイかイイか 」
「 曹長!  君たちは僕に最後までついてきてくれた。ありがとう、後を頼むぞ 」

群がる兵隊たちが一斉に泣き叫んだ。
「 中隊長殿、死なないで下さい ! 」
「 中隊長殿、死なないで下さい ! 」

磯部は 羽がいじめの腕を少しゆるめながら、
「 オイ安藤、死ぬのはやめろ ! 
人間はなあ自分で死にたいと思っても神が許さぬときは死ねないのだ。
自分が死にたくなくても時が来たら死なねばならなくなる。
こんなにたくさんの人が皆 とめているのに死ねるものか、
また、これだけ尊び慕う部下の前で貴様が死んだら、一体あとあはどうなるんだ 」

と、いく度もいく度も、自決を思いとどまらせようと、説きさとした。
すると 次第に落ちつきをとりもどした安藤は、
やっと、
「 よし、それでは死ぬことはやめよう 」
と 言った。
磯部は安藤の羽がいじめをといてやった。
こんなことがホテルの応接間で行われているうちにも、
兵隊たちは一室に集まって中隊長に殉じようとしていた。
死出の歌であろう、
この中隊をたたえる 「われらの六中隊」 を泣きながら歌っていた。
磯部はこれ以上安藤中隊にとどまっていることはできなかった。
三宅坂附近の最後の処置をつけねばならぬと考えていたので、
心を残してここを出た。


歩兵第三聯隊第六中隊

磯部らの同志将校が山王ホテルを出て行ってからも説得の人びとが出たり入ったりしていた。
そして兵隊たちに、
「 早くかえれ、天皇陛下の命令がでているんだ、
 攻撃開始までにかえれば逆賊ではないんだ、わかったか、わかったらすぐかえれ 」
と 説きつづけていた。
しかし 兵隊たちは誰一人かえろうとしなかった。
安藤はこれらの説得の人びとをじっと見つめていたが、
「 そうだ、いま、かえせば逆賊ではない、よし、兵をかえそう 」
と 決心した。
「 第六中隊集まれ ! 」
と するどく号令をかけた。
まもなく中隊は歩道上に集合した。
彼は叉銃を命じたのち外套を脱がした。
兵隊たちはあちこちで外套をまいて背嚢につけた。
再び整列を命じて、安藤はその前に立った。
「 蹶起以来、みな中隊長を中心に命令をよく守り一糸乱れないでよくやってくれた。
この寒空にひもじい思いに堪えて、永い間本当にご苦労だった。
中隊長としてお礼をいう。
われわれが行動をおこして以来、尊皇討奸の目標につき進んだ。
しかも時に利あらずわれわれは賊軍の名を受けようとしているのだ。
われわれの行なわんとした所は
国体の本義に基づいた皇道精神であることを永久に忘れないでほしい。
これで皆ともお別れだ。
皆が入営以来のことを思うと感慨無量だ。
よくこの中隊長に仕えてくれた。
この規律と団結てをもってすれば天下無敵だ。
皆は身体を大切にし満洲へ行ってしっかりご奉公してくれ。
最後のお別れに中隊歌をうたおう 」

安藤をはじめ兵隊たちは、むせび泣きながら六中隊歌を合唱した。
軍歌はくり返し二度うたわれた。
二度目の結び----われらの六中隊----を歌いおわった瞬間、
安藤は腰の拳銃をとって銃口を頭部に押し当てた。
前列にいた前島上等兵が安藤にとびついたのと、引金が引かれたのと同時だった。
銃声とともに安藤の身体は残雪の上に倒れた。
「中隊長殿!  中隊長殿! 」
下士官兵は一斉にかけ寄って中隊長をよび叫んだ。
兵はこの場の昂奮と悲憤な気が狂わんばかり。
なかに兵の一人は ツカツカと叉銃線に走り銃を手に取った。
「 中隊長を殺した奴は誰だ 」
と 怒号しながら道路を隔てて布陣する攻撃部隊に向かい撃とうとした。
かたわらにいた将校が天皇陛下万歳と叫んだ。
この兵もつり込まれて天皇陛下万歳を唱えた。
そしてこの兵の射撃は阻止された。
そこへ師団の桜井参謀がやって来た。
銃を手にした件の兵は またしても
「 中隊長を殺した奴は誰だ 」
と 叫びながらこの参謀にたち向かった。
桜井はいきなり上衣を脱いで天皇陛下万歳を唱えた。
兵もまたこれに和して、事は防がれた。

一方、この間かけつけた救急要因によって安藤には応急手当が施され、
救急車で陸軍病院に運ばれた。
だが、兵の四、五名は人びとの制止をきかず、
中隊長と一緒に死ぬんだとわめきながら、そのあとを追いかけた。
安藤は病院で手当を受けたが傷は案外浅く致命傷とはならなかった。

こうして反乱部隊は安藤中隊を最後に全部の帰順をおえた。
戒厳司令部は午後三時に至って、
「 反乱部隊は午後二時頃をもってその全部の帰順を終わり、ここに全く鎮定をみるに至れり 」
と 発表した。
かくて、四日間、
帝都いな全国を震撼させた空前の大事件も、
ついに一発の銃声を聞くことなく、ここに落着を告げた

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大谷敬二郎  二・二六事件  から