当時私は第五班 ( 班長中村靖軍曹 ) に所属していた。
前年の昭和十年一月六中隊に入営以来、中隊長安藤大尉と接していたが、
日頃大尉が兵に示した熱情には敬服に値するものがあった。
大尉は秩父宮殿下の後任として中隊長になったので、殿下中隊としての誇りを深く感じ、
聯隊随一の中隊を目標に 「 志氣團結 」 を方針として隊員の訓育に当った。
昭和維新の歌
又軍歌演習には必ず 「 昭和維新の歌 」 をうたわせた。
国政の乱れに悲憤慷慨する青年の心を表現したこの歌は、
くり返して歌ううち いつしか昭和維新断行こそが国を救う唯一の手段であるかのように思えた。
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七月富士の裾野に演習に行ったある日、
安藤大尉は五 ・ 一五事件 ( 昭七 ) や 八月に入った発生した相澤事件について克明にお話され、
特に相澤事件は当然の結果であると語った。
そして今度やるときは昭和維新の断行が目的で、お前たちの力が必要になるかもしれない。
その時がきたら俺と一緒に立上ってくれと強調した。
どんなことをするのか具体的に説明はなかったが、それが後の暗示であったことはいうまでもない。
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その年の十二月一日、伍長勤務上等兵となり下士官としての仕事につく。
明けて十一年一月上旬のある日、安藤大尉から新宿第一劇場の入場券を受けとり、
下士官全員と前島、私の伍長勤務上等兵が観劇したことがある。
この時大尉は 「 今、坂元竜馬の海援隊をやっているが、内容がいいから見てこい 」 といった。
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この頃から至福の将校がしきりに中隊に出入りするようになった。
二月二十二日 私は初めて週番下士官勤務につき、中隊事務室で執務していると、
正午頃 背広姿のガッシリした客がきて 「 オイ週番下士、俺はこういう者だが安藤はいるか 」
といって一寸名刺を見せた。
やはり将校で左官だった。
私はすぐ隊長室に案内すると何やら密談を始めた。
翌日も翌々日も早朝から夜まで来客が断続し、時にはハンチングをかぶった者もみえた。
名刺には少佐、中佐、少将などの肩書があったが、肝心の氏名を思い出せないのが残念である。
彼等は中隊長と長時間密談をしては反っていった。
こんなことが二十五日の朝まで続いたように記憶している。
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二十三日夕 点呼後、私が事務室にいると安藤大尉が入ってきて、
明二十四日夕点呼までに準備しておけといって次のようなことを告げた。
「 携帯口糧乙各二日分、実包一人一二〇発、
これは天野大尉に連絡してあるから山本軍曹 ( 兵器係 ) にいって準備させる。
服は三装用でよい。・・・・・( 沈黙十数秒 ) 時に田沼、お前の命を俺にくれ。」
「 ハイ、この体でよかったら差上げます。」
「 そうか安心した。明日準備がおわったら山本軍曹と週番を交代し俺と一緒に出動してくれ。」
「 ハイ、わかりました。」
いよいよ明後日は決行か、日頃大尉のいわれていた昭和維新の断行が明後日とわかり私は思わず緊張した。
決起趣意書
目的達成後は陸軍省に集結、
ここで各隊からの目的達成の報告を受けた安藤大尉は
私たちに蹶起趣意書を読みあげ、以後 航空本部を占領し三宅坂附近の通行遮断に任じた。
以後変転する状況の中に新国会議事堂、幸楽、山王ホテルへと移動し、
二十九日 安藤大尉の命令によって原隊に復帰した。
これは奉勅命令なるものにもとづくものだが、正式に命令を受領したのではなく
説得に来た者から達せられた情報である。
自決未遂の安藤大尉を病院に送ったあと
迎えにきたトラックを拒否し白ダスキをかけたまま堂々と歩いて帰った。
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途中高橋蔵相邸の前に花輪がならび葬儀があるのを知った時、その気持ちは複雑だった。
帰隊と同時に渋谷聯隊長から物凄くおこられた。
中隊に入ると着用している衣服のヒモ類を悉く切られた。
自殺防止を思慮したためらしいが袴下などヒモがないのでズリおちるようだった。
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私は二・二六事件を回想するにつけ
安藤大尉の人徳がしのばれ 敬服のほかはない。
聯隊内の他の中隊の兵でさえも大尉に対する尊敬の念は深く、
まして第六中隊の下士官兵は安藤大尉の部下であることに誇りをもち、
ひとたび事が起これば中隊長と生死を共にする覚悟ができていたといっても過言ではなかった。
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事件後、満洲で次のようなことがあった。
軍法会議の結果、安藤大尉が処刑されたとの情報が入った後、
伍勤上等兵が集合し 事件参加兵だけで大尉の冥福を祈ることを決議し、
七月二十日頃
演習帰りの野辺の花をつみ 私の内務班に仏壇を飾り 兵隊を集めて しめやかに慰霊祭を執り行った。
勿論秘密裡にやった筈だが いつの間にか野村中隊長の知るところとなり、
私は呼び付けられて非常にきびしく叱られた。
またその時事件参加兵だけで安王会を結成し、内務班帰還後時々会合を催すべく計画し
早速会則を作り 各自に交付、残る原紙などを全部焼却して他に洩れぬよう配慮した。
しかしこれもどこからか洩れて中隊長に発見されてしまった。
そこで私は安藤大尉の部下として大尉個人の遺徳をしのび、冥福を祈るためのものである旨を回答した。
野村大尉にしてみると安藤大尉に関する兵の動きは不穏のものに思われ、
かなり神経を使っていたようだ。
安王会の会合は本年も開催され 四十六回忌をすませたが、
私たちは生ある限り続けてゆく決意である。
この意味において 二・二六事件は 私たちの心の中に深く生き続けているのである。
雪未だ降りやまず ( 続二・二六事件と郷土兵 ) ・・昭和57年・・1982年
歩兵第三聯隊第六中隊 伍長勤務上等兵・田沼留三郎 『志気団結は金剛の如く』 から