あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

鈴木侍從長 「 マアマア、話せば判るから、話せば判るから 」

2019年07月04日 12時30分38秒 | 安藤部隊

私は昭和十一年一月十日歩三、第六中隊に入隊した。
所属は第四班で班長が奥山粂治軍曹、班付が山岸憲二郎伍長であった。
入隊後の訓練は基礎からはじまるので徒手教練が主で執銃するのはまださきのことである。
そうした二月二十五日の夜、点呼終了後階段下の広場で中隊長の訓話が行なわれた。
中隊長安藤大尉は今週の週番司令である。
訓話を始めるにあたって先ず準備された黒板に富士山の絵をかき、
次に白墨を横にして富士山を塗りつぶした。
それから徐ろに訓話をはじめたが要旨は次のとおりであった。
「 今の日本はこの絵のように一部の極悪なる元老、重臣、軍閥、財閥、官僚等の私利私慾によって
このように汚され、今や暗雲に閉されようとしている。
今こそ我々の手によってこの暗雲を払いのけ
日本を破滅から救い国体の擁護開顕を図らなければならぬ 」
暗雲はどのようにして払いのけるのか、そして我々とは私を含む第六中隊を指しているのか、
私は一瞬心おだやかならぬものを意識した。
訓話がおわり やがて就寝の時刻になったが二年兵はヒソヒソ話をしていて寝台に入ろうとしない。
どうやら今晩非常呼集があるらしい。
そうと判れば外套を巻いて背嚢につけておいた方がよい。
これは軍装のうちで一番手間のかかる作業だからである。
班内き期せずして外套巻きが始まった。
その時 奥山班長が入ってきて 「 何をしているか、早く寝ろ 」 と 怒鳴ったので
一応毛布の中にもぐりこんだものの班長が帰るとまた起き出して準備にかかった。
お蔭でその夜はあまり眠らなかった。

二十六日
○三・〇〇頃、
班長が入ってきて 「 全員起きろ 」 と 叫んだ。
いよいよ非常呼集がかかったと全員はイナゴのように飛起きて軍装をはしめたところ班長は
「 あわてないでよろしい、時間は充分あるから落着いてやれ、準備のできた者は班内で待機 」
と いった。
いつもの場合と一寸様子が違う。
だいいち ラッパが鳴らなかった。
いわれるままに仕度をしていると乾麺麭や牛罐が一食分宛分配された。
続いて小銃弾が配られた。
一人六〇発、しかも実包なので驚いた。
何の目的で支給されるのか、渡満の話を聞いていたので、或はこのまま出発するのかもしれぬ。
外套を着用し軍装を整えて待機している間、奥山班長が持ってきてくれた菓子を食べながら、
兵隊の間で色々な憶測が囁かれた。

○四・〇〇前、
舎前整列となり、その場で編成が下達された。
中隊は三個小隊に編成され、
私は第二小隊 ( 小隊長堂込喜市曹長 ) の 奥山分隊 ( 長以下十五名くらい ) と なった。
配属された MG四基は第三小隊となる。
出動人員は中隊の大部分で、週番勤務者と練兵休が残留となった。
編成終了後、安藤大尉の号令で 「 弾込メ 」 を したが
私たち初年兵は二年兵の指導で弾を込め安全装置をかけた。
やがて安藤大尉は抜刀した。
「 気オ付ケーッ! 中隊は只今より靖国神社に向って出発する、
行進順序建制順、右向ケー右!前エー進メ 」
時に ○四・〇〇、
ラッパを吹奏しながら行進に移った。
衛兵が整列して見送る前を隊列は営門を出ていったが ラッパはすぐ鳴り止んだ。
雪は降っていなかったが昨夜の雪が残っていて夜目にも明るかった。
隊列は狭い道路を進み溜池に出て首相官邸脇にさしかかった時、奥山分隊長が官邸を指して、
「 我々の仲間が間もなくここを襲撃する、六中隊は鈴木侍従長私邸に行くんだ 」
と いった。
私は愕然とした。
靖国神社参拝ではないのである。
これはえらいことになった。
今更引込みもつかず、昨夜の中隊長の訓話を思い出し、
これからドえらい事件が起こることを意識したとき思わず体が震えた。
隊列は千鳥ヶ淵に面した路上で停止した。


叉銃してから各自背嚢をおろし、着ていた外套を脱いで軽装になると再び銃をとって
静かに侍従長官邸に向った。
この時梯子を携行している兵隊が目についた。

かくして ○五・〇〇 を期して襲撃を開始した。
まず合言葉が示された。
「 尊皇 」 に対し 「 討奸 」 である。
突入にあたり全員は着剣した。
官邸の正面には大きな鉄製の扉が閉されている。
私たち第二小隊は塀に沿って右手に廻り木製の裏門付近に集合、
そこで携行してきた竹梯子を塀の三ヶ所に立掛け下士官を先頭に数名の者が登り、
すばやく内側に飛込んだ。
すると 「 誰か!」 と誰何する声が聞えたと同時に門が開かれ、待っていた私たちは邸内に侵入した。
誰何したのは同邸を警備していた巡査で忽ち兵隊に抑えられ詰所の中に監禁されてしまった。
建物の裏手は勝手口だった。
私たちは銃剣の先で勝手戸を突き破り錠をはずし簡単に内部に入ることができた。
この時私たち奥山分隊が先頭であった。
入った所は女中部屋で隅の方に二人の女中が震えていた。
女達には用はない、銃剣を構えながら奥に進む、フスマを銃剣で押しあけて次の間に入り、
更に三つ目の部屋に入るとそこが侍従長夫妻の寝室だった。
寝床が二つならべて敷かれ、左側の布団の上に夫人が正座し私たちの方を黙って見ていた。
右側の床はカラである。
奥山軍曹はすかさず床の中に手を差しこむなり、
「 寝床はまだ温いぞ、近くにいるから探せ!」
と どなった。
そこでフスマをあけて次の間に入ってみると、
そこはガランとした八畳間で部屋の突当りに押入れがあった。
すると奥山軍曹は 「 ヨシ!」 と いって私たちの見守る中で押入れの襖を剣先でサッと開いた。
果して侍従長は押入の中に立っていた。
ここで奥山軍曹は私に、
「 大谷! お前は廊下で外部を警戒していろ 」
と 命令した。
私はすぐ室外に出たが内部の様子が気になって警戒しながら時々内部の成行を見ていた。
その時誰かが大声で 「 見つけたゾーッ 」 と 叫んだ。
すると女中部屋の方からドヤドヤ兵隊たちがやってきた。
その間奥山軍曹は身構えながら侍従長を畳みの上に引き出した。
侍従長し白っぽい寝巻姿で、両手をあげ、
「 マアマア、話せば判るから、話せば判るから 」
と 蒼白な顔をして出てきた。
その頃部屋の中には駆けつけた兵隊を加えて十五、六名が集り、
いつの間にか立ったままの侍従長を半円形に包囲し銃剣をつきつけていた。
「 誰か中隊長殿に知らせろ 」
と 奥山軍曹が言い 兵の一人が走っていった。
その時包囲していた中の堂込曹長が突然、
「 問答無用だ!」
その距離二米とない間合いだったので弾丸はこめかみと腹部に命中し、
侍従長は両手を腹に当てたまま前ノメリに倒れた。
そこへ安藤大尉が走ってきて侍従長の姿を見るや数名の者に指示してすぐ寝床の上に運ばせた。
夫人はその間一言も発せずジッと正座したまま一部始終を見ていた。
そこで安藤大尉は夫人に向って坐り、蹶起理由を手短に説明したところ
夫人は一つ一つうなずかれ最後に 「 よく判りました 」 と いった。
その態度は驚くほど冷静であった。
やがて安藤大尉は侍従長の手をとり脈のあるのをみて、
「 最後の止めをさせて頂きます 」
と いって軍刀の剣先を侍従長の喉にあてると 夫人が、
「 もうこれ以上のことはしなくてもよろしいでしょう 」
と 云ったので大尉はやや考え込んでいたが、
「 ではこれ以上にことは致しません 」
そういって静かに軍刀を収めた。
ここで全員は不動の姿勢をとり 中隊長の号令で侍従長に対し捧ゲ銃を行い官邸を出た。
帰りぎわ、表門の守衛が安藤大尉の軍刀にしがみつき、
「 申しわけないから私を殺して下さい 」
と 泣き叫ぶ一幕があった。
また裏門の巡査数名は詰所の庇樋に両手をかけた姿で兵隊に監視されていた。
その頃はもう東の空が明るくなっていた。

私たちはその後 陸軍省を経由して三宅坂に移り三叉路に歩哨を立てて交通遮断を行った。
朝食が聯隊からきたので交代で食事した。
その日は雪の中で換気が激しく立哨はつらかった。
昼過ぎ 道路端に天幕がたち焚木や湯茶の接待をうけた。
これは附近の在郷軍人分会や婦人会の好意によるものだと聞かされた。
ホッとしていると どこからともなく各方面を襲撃した情報が逐次入ってきて、
事態が重大な段階を迎えたことが判った。
こうして中隊は現地で警備を続行しながら夜をあかしたのである。

二十七日になると、
どうしたのか在郷軍人会の人も婦人会の人も姿を見せず、
止む無く携行した乾麺麭で朝食をとり昼頃になって新国会議事堂に移動した。
すでに他の部隊も集合していてかなりの兵力になったが、工事中のため休養がとれず、
止むなく中隊は幸楽に移った。
ここは表が広い道路に面し裏側には日枝神社があった。
大広間に案内されたのですぐ畳を裏返しにして土足のままで休んだ。
この頃から中隊長の許に彰晃私服の人達が多勢やってきて何やら話合っていた。
また群集が玄関前の広場に大勢つめかけ私たちの壮挙に対し盛んに万歳を叫んでいた。
中隊はここで警備体制を構えて一夜を過ごした。

二十八日、
その日から俄然様子が一変し、
中隊長の許に沢山の外部者たちがやってきて入れかわり立ちかわり原隊復帰を説得した。
私たちが反乱軍になったのを知ったのもこの日である。
中隊長安藤大尉の顔面が蒼白になり、かなり殺気立ってきた。
形勢が悪化したのだ。
大尉はムカムカする気持を爆発させるかのように
私たちの見ている前で大きな鉢植えの松の枝を軍刀で斜めに切り落とした。
中隊長が何故怒りだしたのか、これは後で判ったことだが奉勅命令が公布されたことに基因するものであった。
妙なことに命令は下ったものの受ける側の蹶起部隊には伝わらず、
そうしておいて反乱軍呼ばわりと一方的な原隊復帰 ( 要するに降伏 ) を要求したのだから
安藤大尉が起こるのは当然であった。
しかしそのような経緯にはお構いなく事態は命令不履行に対する討伐をもって臨み、
鎮圧軍は刻々兵力を増強し包囲圏を圧縮しながら迫ってきたのである。
こうなると私たち兵隊にも状況が判ってきた。
最悪の事態になれば戦闘が惹起するであろうことは皆覚悟した。
しかし死を恐れる者は一人もいなかった。
このようにして中隊全員は戦闘準備についた。

十五・〇〇頃
山岸伍長が郵便はがきを持ってきて各人に三枚宛配り、
「 お前たちも覚悟しているだろうがこれから戦闘になる状況下だ。
そこで今のうちに遺言を書き親元に出しておけ 」
そういって伍長自らすぐ書き始めた。
私たちも思いのことを書き、ひとまとめにして伍長に托した。
私の留守宅は当時六〇歳になる母親か゜一人暮らしていた。
事件のことは新聞、ラジオで知ったが、
まさか我が子がこれに参加していようとは考えていなかったところに手紙が届いたので仰天し
二日間は食事が喉を通らなかったそうである。
夕刻
民間人の渋川善助ら数名の者がきて幸楽前の大通りに集った群集に対し大演説を行った。
大喝采の声が周囲に響きわたるほど白熱的な状景であった。
こうして緊張に満ちた状況下に日が暮れた。

その夜十時頃、
中隊は隠密裏に行動を起こし山王ホテルに移った。。
これは戦闘のための陣地変換で、鉄筋コンクリート建ての山王ホテルがはるかに堅固であったからである。
内部に入ると第二小隊は一階東北隅のバーの部屋を占め、
早速窓辺に机や椅子を高く積みあげ銃座を作った。
堂込曹長から 「 敵側が撃ってくるまでは決して撃つな、万一窓から侵入する者があったら追い返せ 」
との 注意が与えられた。

やがて二十九日の朝が来た。
○八・〇〇頃から飛行機がきてビラを撒いた。
「 兵に告ぐ 」 というもので、これによって鎮圧軍は直接下士官兵に原隊復帰を呼びかけたのである。
続いて戦車が出動してきた。
その数、十数輌、従隊を組んで ノロノロと現れたが戦車の側面には板が吊るされていて、
これにも兵に告ぐの文句が書かれていた。
ホテルの中では銃を構えながらそれらの様子を見つめていたが、
一〇・〇〇頃から蹶起部隊の結束が崩れ、ボツボツ丸腰になって帰隊をはじめるようになった。
路上に叉銃したまま放置された小銃が空しさを語っているようだ。
わずかにホテル内には安藤中隊だけが残った。
ここにおいて流石の安藤大尉も胆を決め、
十五・〇〇
全員集合を命じ原隊復帰に踏切った。
玄関前の広場に整列した私たちの前に出てきた大尉は 四日間の労苦でやつれ果てていた。
ここで大尉は状況を説明し 全員への感謝の辞を述べ 続いて中隊歌の合唱になった。
歌が二番に入った時、突然大尉は、
「 これを見よ!」
と 叫ぶなり拳銃自決を図った。
銃弾は顎から右頬右眼の下を通り右額の所で止ったがその部分が丸く盛り上っていた。
二発目は突込みとなり薬室に斜めに引っかかったため不発におわった。
中隊長が倒れるや全員は 「 中隊長殿!」 と 泣き叫びながら走り寄り 声をあげて泣き出した。
このときある兵隊が、この様子を近くで見ていた師団参謀に向って、
「 お前たちが中隊長を殺したのだ 」
と 泣き叫びながら突込んでいったのでその参謀は辛くも逃げ去っていった。
そのうち永田曹長の指示でホテルから寝具が運ばれ、大尉を仰向けに寝かせた。
すると大尉は手まねで筆記用具をよこせといい、
永田曹長が通信紙と赤鉛筆を渡すと眼を閉じたまま数枚に走り書きした。
やがて衛戍病院から車がきたので大尉は病院に向った。
その直後 永田曹長は全員を集め中隊長の書き残した通信文を読上げた。
その内容は、
1  爾後の指揮は永田曹長がとり、無事原隊に帰れ
2  未だ 弾抜ケ をしていないので弾を抜け
3  お前たちは渡満したなら護国のためにしっかりやれ
などであった。
一同は泣きながらそれを聞いていた。
ややあって 永田曹長の指揮で銃を肩に軍歌を合唱しながら原隊に向った。
出発にあたり武装解除が要求されたが、これを拒否し堂々と凱旋気分で行進した。
途中道路に停止していた戦車が動き出し 原隊に着くまで側面について同道したのは痛快であった。


帰隊するといきなり、
「 お前たちは とんでもない事をしてくれたな 」
これが私たちを迎えた残留組の最初のあいさつだった。
以後 週番士官や下士官の言葉使いが急に荒くなった。

夕食後、参加者は外套と日用品を携行し、トラックに乗せられて近歩四に隔離された。
そして翌日から営庭にできた沢山の幕舎のうち指定されたものの中で取調べを受けた。
私の場合、安藤中隊長の日頃の言動、それに出動中の自己の行動等をきかれた。
これが済むと三〇人宛にまとまって原隊に帰された。

帰隊後も不参加者との隔離がつづき行動範囲も縄を張って制限が設けられた。
なお私たちは軍帽をかむり不参加者は略帽という見てすぐ判る識別法まで行使した。
日課としては毎日が精神訓話で終了すると感想文を書かせられた。
訓練は二、三週間後、新しい幹部がきてから始まった。
新任中隊長は野村哲大尉という人だった。
四月上旬頃 渡満を前にして特別外出が許可された。
しかし参加者という理由から在郷軍人分会長の責任による集団外出として実施されたのである。
分会長が聯隊にきて私たち大宮グループを引率し大宮駅にきて解散し自宅へ、
夕方時間までに大宮駅に集合して再び引率帰隊という方法であった。

四月十一日 私は幹部候補生となり五月下旬渡満、
チチハルで教育を受け 翌十二年一月除隊、
次いで五月教育召集で佐倉五七に入隊、七月召集解除、翌十三年三月末日少尉に任官した。
昭和十六年七月になって関特演の召集をうけ以降北支に移り天津で終戦を迎えた。
この時の階級は大尉である。

最近になって二・二六事件をふりかえってみると、
その間各種の事件関係書を読んだので 初年兵としての純粋な気持ちは失われてしまったが、
あの時代とすれば事件は当然何かの形で起こったといえる。
それ程国内は不満にみちあふれていたのである。
しかし主謀者の見解によって兵隊を連れ出したことはまちがいである。
また方法も過剰だったと思う。

今でも中隊長安藤大尉については
兵を大事にした上官として尊敬しており、一生忘れられないであろう。

・・・歩兵第三聯隊第六中隊・二等兵 大谷武雄 『武士の情け止めだけは』
二・二六事件と郷土兵 ( 1981) から


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