緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

早坂文雄作曲、ピアノ曲「船歌」を聴く

2023-11-24 22:28:28 | ピアノ
早坂文雄(1914-1955)のピアノ曲で、またいい曲を見つけた。

抒情曲集より 船歌 (1947年)
演奏:平野裕樹子 2016.3.11 すみだトリフォニーホール ライブ録音

鋭い感性から生まれる音楽だと思う。
フォーレの舟歌も素晴らしいが、このような舟歌は聴いたことが無い。日本の初期の作曲家でこれほどの曲が書ける人がいたことに驚く。
この曲ももっと演奏会や録音で取り上げられてしかるべきであろう。

悲しいようで突き刺さるような悲しさではない。感情に拘泥せず、音楽の純粋な美しさを極めようとしたようにも思える。
ピアニストの平野氏の演奏が素晴らしい。この曲の持つ真価を十二分に表現した演奏だと思う。
ライブならでは生の音の美しさがよく表現されている。

是非、聴いていただきたいと願う。

Youtubeのリンクを貼り付けさせていたただく。

早坂文雄 船歌 Fumiwo Hayasaka Barcarola Lontano

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早坂文雄作曲「ピアノ協奏曲」を聴く

2023-11-23 22:20:44 | ピアノ
先日、早坂文雄作曲のピアノ曲「雨」という曲を聴いたが、その時に彼の作曲による大作「ピアノ協奏曲」を初めて聴いた。
2楽章で構成される演奏時間30分以上に渡る長大な曲であるが、もっと知られてしかるべき力作だと感じた。

第1楽章は演奏時間が22分にもなる長い楽章であるが、終始寂寥感が漂う、暗く、しかし情熱に満ちた激しい箇所も随所に現れ、西洋音楽では聴くことな出来ない独特の音楽が展開される。
作曲年は1948年だが、曲の雰囲気としては最も以前、大正から昭和初期の音楽の影響があるように感じられる。

それに対し、第2楽章は曲想ががらっと変わる。
この曲想はあまりにも第1楽章とかけ離れているので、多少違和感を感じる。伊福部昭の「日本狂詩曲」」の第2楽章「祭」や、芥川也寸志の「交響三章」」の第3楽章を彷彿させる。

独学で大成し、繊細で強い情熱を秘めた音楽を生み出した類を見ない作風を持つ作曲家だと思う。もっと知られていい。

以下、早坂文雄についてウィキペディアから転載させていただく。

家庭はこれといって音楽的環境ではなかったが、父は日本画をたしなみ、早坂も旧制・北海中学校(現北海高等学校)入学時には洋画家になろうと思っていたが、15歳の頃から作曲家を志すようになった[2]。しかし16歳の時に父が出奔し、翌年には母も病没したため、2人の弟妹の面倒を一人で見なければならなくなり、音楽学校への進学を断念し、中学卒業ののち実社会に入った[2]。
音楽への情熱は冷めやらず、ピアノが買えない彼は、ピアノの音が聴こえれば、見知らぬ家であろうとかまわずに、その家でピアノを弾かせてもらっていた[2]。1934年、旧知であった伊福部昭・三浦淳史らによって「新音楽連盟」が結成されると、早坂もメンバーとなり、同年9月30日に開催された「国際現代音楽祭」では、ピアニストとしてエリック・サティ、マヌエル・デ・ファリャなどの作品を演奏した[2]。
(中略)
終戦後、箕作秋吉によって「再結成」された「日本現代音楽協会」の作曲部推薦委員に就任する[2]。同年、清瀬保二、伊福部昭、松平頼則、渡辺浦人、塚谷晃弘、荻原利次らと「新作曲派協会」を組織し、早坂は幹事として戦後の作曲家グループの先端の一翼を担った[2]。
戦後は新作曲派協会において毎年作品を発表するなど精力的に活動を続けながら、同時に映画音楽の分野でも卓越した才能を発揮し、多忙な日々を送る。1947年(昭和22年)、新作曲派協会「第1回作品発表会」においてピアノ曲《詩曲》(1947年)などが初演される。同年、黒澤明と初めて会う[2]。
翌1948年、《ピアノ協奏曲》(1948年)が東宝交響楽団(現東京交響楽団)主催「第11回東宝グランド・コンサート 日米現代音楽祭」で梶原完独奏により初演される[7]。

Fumio Hayasaka [早坂文雄]: Piano Concerto (Hiromi Okada, Yablonsky, Russian Philharmonic Orchestra)
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明日から4連休

2023-11-22 22:33:04 | ギター
今週は短い睡眠時間の反動で、朝から帰りの通勤列車に乗っているまでの間で何度も強い睡魔に襲われた。
さすがにこれは体に悪いと思って、休息のためのに明日から4連休にすることにした。

2週間前くらいだっただろうか。朝のニュースを見ていたら、日本のGDPは近くドイツに抜かれて世界4位に落ちる見込みだと伝えていた。
そしてさらに近い将来、インドにも抜かれるという。
10年くらい前からそうなるだろうと思って、このブログでも折に触れて警告的な記事で書いてきたが、いよいよそれが現実となるということらしい。

日本の経済力は本当に低下しているという実感がある。
まず国内外に販売出来る画期的なものが殆ど何も生み出せていない。
それは電化製品の大型量販店の店頭に並ぶ商品やテレビのコマーシャルを見てもおわかりだと思う。
1970年代から1980年代半ばまでに次々と世界に先駆けて画期的で高品質な製品を生み出し、世界市場を席捲していた頃の熱気というものが全く無くなってしまっている。
それだけでなく、かつて超一流と言われたメーカーを始めとする製造業の、製品の不適切検査や検査データの改ざんなどが次々に発覚し、日本製品の信頼性は急速に失われている。

先のニュースで日本のGDPが低下している原因として挙げられていたのが、人口減少、名目賃金の低下、研究開発・教育への投資の鈍化の3つだったと記憶しているが、最大の要因は日本でものづくりが行われなくなってきたことであろう。
バブル崩壊で価格破壊が起き、日本の大企業は製造拠点を中国などの海外に移した。それと連動するように大企業を支えてきた下請け、中小の企業が倒産に追い込まれた。
そして倒産した企業の金型や製造ノウハウなどが中国などに流出したという。
ものづくりの現場が無くなれば、製品開発力、製造技術力が落ちるのは必然であろう。
先日放映されていた「仕事の流儀」という番組で、カプセルトイの開発者が机上の設計で見いだせなかったものが、中国の工場に異動になってものづくりの最前線で仕事をするようになって初めて得られるようになった、ということが紹介されていたが、日本が1980年代半ば頃までに世界に躍進できたのは、日本の製造業が現場中心主義で開発が進められたからである。
鋳造、鍛造、ロストワックスなどといった製法の違いも分からず、現場も見たことのない人が机上でCADを相手に開発をやっているのが今の日本の現状である。

今の日本で最も失われたものは、「開発力」、「創造力」、「改善力」、「忍耐力」の4つだと思う。
「開発力」の低下は先に述べた製造拠点の海外への移転以外に、研究機関への予算配分の減少、研究者の処遇の軽視、研究者の海外への流出などが原因として考えられる。
「創造力」の低下の最たるものは1例として、ものづくりの分野ではないが、例えばテレビ番組に如実に現れている。夜の7時から10時くらいまでに放映される番組、特に民放の番組は地に落ちたと言わざるを得ない。どのチャンネルを入れても同じような、お笑い芸人を多数、回答者にした何度も同じ内容が繰り返されるクイズ番組か、海外のテレビ番組を購入して通訳して、お笑い芸人を回答者にしたクイズ形式にした安易な製作の番組で氾濫している。
1970年代に夢中になって見たドラマ、時代劇、おなかが痛くなるほど笑い転げたバラエティー番組やクイズ番組、元FBI捜査官を招いた行方不明者探し、一流料理人の調理勝負のようなレベルの高い番組はもう作れなくなったということなのだろう。そしてこのような番組を再び作ろうと挑戦する気配も感じられない。
「改善力」の低下の身近な例としては、電車のつり革のあの大きな歯の浮くような不快なギシギシ音を一向に改善せずに放置しているというようなことだ。
他にもこれは絶対に改善した方がいい、と感じるものが山ほどある。しかし一向に改善されない。恐らく、改善しようということにも気が付かないのであろう。
つまり日本の製造力、技術力が頂点だったころに比べて現在は、全く、意識が変わってしまっているということなのだ。
「忍耐力」の低下はどうだろう。コロナワクチンの開発、航空機製造の開発など、多額の補助金を得て立ち上げられたプロジュクトが途中で断念されている。海外から招いた技術顧問との連携が上手く行かなかったなんていっているが、それは表向きの釈明で、つまるところは必ずやり遂げるという忍耐力、挑戦意識が低下している現れではないかと思うのだ。あと若手の技術者がすぐに転職してしまう傾向が高まっているのも「忍耐力」の低下の1つの現れではないかと思っている。だいたい技術者で一人前と言われるまでには最低で10年はかかるものである。それまではまさに下積みであり、最初から面白い仕事などさせてくれるわけがないのである。

こんな状態の日本の行く末はどうなるのだろう。今よりも悪くなっていることは間違いないだろう。この過去10年間だって悪くなっているのだから。
まず、かつての大企業の製造部門は中国、台湾などの国の大資本に買収され、日本にこれらの国の製造拠点が増えていくに違いない。
中小企業などは極端に減少しているだろう。開発力、技術力が低下し売るものが無くなった日本は、観光産業やカジノなどを含むIR事業に経済効果を期待し、失われた経済力に対する活路を見出していくようになるのではないかと思う。
外国人が町にあふれ、北海道のニセコのように海外の人たちの第2の居住地がどんどん拡大していくようになるのではないか。

歩きスマホでゲームに興じている若い人たちをたくさん見るが、このような現状が日本の10年後、20年後の未来を生み出していることに恐らく気が付いていないのだと思う。


投げやり半分で思いつくままにいろいろ書いたが、明日から休息をかねてギター練習に没頭することになる。
今日はいつも曲を弾いて寝ることにした。

①アルハンブラ トレモロやや不ぞろい 2023年11月22日夜

②アンダルーサ 強弱に欠ける 2023年11月22日夜

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定期演奏会終わる

2023-11-20 22:52:45 | マンドリン合奏
昨日(11月19日)、東京江戸川橋のトッパンホールにて千葉マンドリンクラブの定期演奏会が行われた。
このマンドリン団体は私の母校マンドリンクラブOB夫妻が創設し、当初は母校OBなどが中心となって小編成でスタートしたと聞いているが、今年は60名ほどの部員を抱えるまでになったという。とくに今年はかなりの人数の新規入部があった。
私もそのうちの1人で、今年7月下旬、母校マンドリンクラブ55周年記念演奏会が終わった1週間後に参加させていただくことになった。

以前から、東京マンドリンクラブの同じパートの超ベテランのYさんや、大規模演奏会で一緒に演奏した母校OBの方々などからこの団体に入らないかと折に触れて勧められていたのだが、マンドリン合奏を再開してからまだ数年と合奏経験が浅いことや、講習会など他にもやりたいことがあったため断っていた。

今年7月に開催された母校マンドリンクラブ55周年記念演奏会の懇親会で、千葉マンドリンクラブの創設者であるKご夫妻と初めてお会いし、その時、この団体に所属するOBの方々、マンドリンのIさん、Nさん、チェロのKさん、ドラのTさんたちが集まってきて、あらかじめ決まっていたシナリオ通りというような感じで、この時点でもう入部が決まってしまった。
記念演奏会が終わってから後輩のTさんから東京マンドリンクラブのYさんに連絡を取ってくれたようで、Yさんが入部を喜んでくれたことがとても嬉しかった。

7月22日から練習に参加したが、定期演奏会の曲目はかなり難易度の高い曲であった。
9月上旬には東京マンドリンクラブの定期演奏会が控えており、しかも50回記念演奏会ということで演奏曲目は超難曲ぞろいだったので、必然的に練習はこちらの方を優先せざるを得なかった。
本格的に練習を開始出来たのが、9月中旬頃からだったと思うが、11月初めの東京マンドリンクラブギターパートの発表会の練習にも時間を割く必要があり、万全の体制で演奏会に臨むことが出来なかったことは認めざるを得ない。
それでも自分としては、最大限練習を重ねたと思っている。
難所など、成功率が落ちる箇所を弾かずにやりすごすか、リスクを覚悟して弾きとおすか、葛藤もあったが、後者を選択した。途中参加の身ではあるが、自分としては何としてもやり遂げたかった。

今回の曲目のギターパートには演奏困難な難所がいくつかあった。
一番の難所は演奏曲目1曲目のM氏作曲の1分程の曲の冒頭5小節から現れる次の部分。





この部分の運指をどう決めるか。運指の取り方で出来不出来か大きく左右される箇所だ。
この部分の運指を熟考の末定まったのが本番の1か月前だったと思う。
それから猛練習を開始したが壁にぶち当たった。独りで弾くときはちゃんと弾けるのに、いざ合奏の中で弾こうとすると弾けなくなってしまうのである。合奏練習のたびに情けない思いをした。
何故、合奏練習になると弾けなくなってしまうのか。
その原因を考えてみた。すぐに答えは出てこなかったが、しばらくしてこれが原因ではないかということが見えてきた。それは次のようなことだった。

①裏拍から入るのと、速度が速めであることと、左指の運指が難しいため、入るポイントを逃すと全く弾くことが出来なくなってしまうこと(途中から入り直すことは困難)。
②左指(右指も)の運指を一つ一つ確実に意識出来ていないと、曲の中で指の動きを見失ってしまうこと。

①は何度も合奏練習に参加していないと体感でつかめない入り方だった。合奏練習回数が相対的に不足していたので、合奏練習録音を頼りにこの部分を何度も再生しながら入り方と指の動きを練習した。この1か月近く何百回と再生したと思う。その甲斐があり練習録音を聴きながらでは成功率が90%くらいにまで上がってきた。
しかしそれでも実際の合奏練習では思うような演奏が出来なかった。何故?。
やはり録音と実際の演奏の中とでは違うのである。何が違うのかと言われると明確な答えは掴めていないが、自分としてはメンタル面での要素が関係しているのではないかと考えている。
また②については、左指の運指を潜在意識に任せて記憶させるのではなく、顕在意識化で一つ一つの音を明確に意識しながら指の動きを目で追い、演奏するということを実現しないと成功率が上がっていかないことも分かってきた。
これは単に指の運動というより脳の知覚の領域から来る要素が大きいのではないかと思っている。脳からの指令がいかに確実に迅速に指の運動に連動していかれるか、神経伝達回路を確実に形成するには相応の時間がかかる。今回の練習では間に合わなかった。本番では小さな音で、やっと弾けたというレベル。しかし打点が確実に合っていたという実感は持てなかった。

同様のフレーズが以下の部分。裏拍から入る。



ここもこの数週間で何百回も録音を再生しながら練習した。録音を聴きながら練習を開始する前までは、独りで弾くときは問題なく弾けるのに、いざ合奏練習で弾く段になると弾けなくなってしまうという現象が出てきた。
何故、合奏では弾けなくなってしまうのか。これも考えた末に出てきたことは上記①、②であった。
裏拍を明確に意識出来ていないから入れなくなってしまうのである。裏拍を心の中で数えるか、表拍のコントラバスの音を聴きながら入るかを意識しながら、合奏練習録音を聴きながらでの練習では成功率が90%くらいまで上がってきた。
しかしこのフレーズもいざ生の合奏練習では思うように弾くことが出来なかった。
ここもやはり①と②に関する脳の知覚と神経伝達が確実に定着するのが間に合わなかったという感じがしている。猛練習しても定着化にはそれ相応の時間が必要だと言うことが分かった。

他の曲でも同様な部分があったが割愛する。
次の演奏会のためにも反省点は記録しておきたい。
他にも本番では、入りが早かったり、遅れたりなど様々なミスがあった。合奏練習では出来ていたのに本番では想定外の事象が起きたということだ。このことで本番後、かなり落ち込んだ。
しかしこのような事象の発生原因を紐解いていけば、必ずその原因は見つかるものだと思っている。次の演奏会に活かすためにも、その原因は嫌でもはっきりさせておきたい。

・テンポ、入り、終わり方等、楽譜の記載内容ではなかなか記憶しにくい変動要素のある要注意な箇所は徹底的にマークして、無意識にその注意点が知覚されるまで、頭に叩きこんでおくこと。楽譜に分かりやすいように記載しておくことも一つの方法だ。

・テンポ、入り、終わり方等、不安な箇所、不明な箇所は本番まで持ち越さない。分からなかったらトップに聞く、指揮者に聞くなどして、その部分に迷いや懸念の無い状態にしておく。そしてその部分をとくに注視して練習する。

・合奏練習録音をどの曲も通しで聞きながら練習する。部分的に活用することも必要だが、フレーズとフレーズの切れ目など、要注意箇所は合奏練習録音を通しで聞くことで意識化、明確化出来る。今回この練習が出来なかったことが残念。

・出来るだけ早い段階から、合奏練習録音を活用した個人練習を習慣化する。合奏練習録音を聴きながら練習するのと聴かないで自分の主観で練習するのとでは雲泥の差が現れる。

・本番1週間前からは睡眠時間を多めにとる。今回、本番前1週間は睡眠時間を削ったせいで、リハーサル時にやや眠気に襲われた。普段から睡眠時間をそれなりに確保していないと、いい結果につながらないようだ。
ちなみに日本の平均睡眠時間は正確には忘れたが7時間10数分だとのことで、世界でも最も低い水準だそうだ。世界平均は8時間??分だった。
やはりなんだかんだ言って、たいていの人は7時間以上睡眠を取っているのだ。会社の隣の席の同僚(多忙な方)も7時間睡眠を取っていると言っていた。しかし彼は帰って晩御飯を食べて風呂入って寝るだけと言っていた。
帰宅してから練習したり音楽鑑賞していたら、あっという間に夜中になって睡眠時間が5時間を切ってしまう。しかし最近の電車内の広告やテレビなどで警告しているように、短い睡眠時間の習慣が心筋梗塞や脳梗塞の原因となり、また免疫力が低下することによるがんの発病の原因として考えられていることから、考え直さなければならないと思った(職場でも短い睡眠時間を習慣にしている方が、40代の若さで脳梗塞で亡くなった方が何人かいる)。


他にも色々あるが、重要なことは記載しておいた。
演奏会終了後は打ち上げに参加。これは結構楽しかった。
新人は一言スピーチするのが恒例のようで、私は、この団体に入ることを勧めてくれた方々に対する感謝の気持ちや、この団体が意外にも(と言ったら失礼かもしれないが)雰囲気が良く、いい方がたくさんいる団体で入って良かったと思っている、というようなことをしゃべった(口下手なスピーチで心苦しかったですが)。

定期演奏会が終わってひと段落する暇もなく、東京マンドリンクラブの定期演奏会の練習、そして千葉マンドリンクラブの部内発表会のための練習が始まる。
部内発表会ではYさんと2重奏をやることになった。今日、曲出しを開始。また独奏曲も弾かせてもらうことにした。
曲はあの曲にしようかと思う。5分くらいの曲。自分の好きな曲だ。

来年は定期演奏会の他、地方公演で他団体とのジョイントコンサートが決定しており、楽しみだ。しばらくはマンドリン合奏漬けの日々が続きそうだ。

【番外編】

思わぬアクシデント。
・今回の定期演奏会の衣装で、蝶ネクタイなるものを初めて着用した。
アマゾンで安いやつを買って、本番2日前に試しに装着を試みたが、ネットで調べても良くわからない。ひもが短かったのでもしかして子供用を買ってしまったのかと勘違いして、アマゾンで別の(安いやつ2つ)を追加注文した。
しかし届いたものは最初のものと同様のものだった。その後試行錯誤しているうちに何とか装着できるようになった。
演奏会当日、3つ買ったうちの1つだけ持っていけばいいだろうと思ったが、もしかして万が一忘れてしまった人のために持って行っても損は無いと思い、3つとも持って行った。
本番直前、着替えをしてその蝶ネクタイ(最初に買ったもの)を鏡の前で付けようとしたら、鏡に映る手の動きが実際の動きと正反対になるので、上手く装着出来ない。あせりも出てきて、試行錯誤していたら、何と、フックの金具が取れてしまった。フックを固定している紐の縫い目がいつの間にかほつれて切れてしまっていたのだ。不良品だ。縫い直さない限り使用不可。畜生だ。





一瞬、血の気が引いたが、他に2つ持ってきたことを思い出し、急いでパッケージを開け、これを装着する。こっちの方は装着しやすかった。



これはある意味幸運だった。もし予備を持っていかなかったら、私一人だけ蝶ネクタイ無しで演奏するはめになっていた。あ~あいつ、蝶ネクタイ忘れたドジなやつだな、と思われていたな~。
普段、身に付けたことのないものを初めて使用するときは、注意した方がいいということを学ぶ。(根っから用意周到な正確でないので、多分、忘れているだろうな)
でも正直なところ、黒ワイシャツと黒ズボンの方がいいな。動きやすいし。首も締め付けられない。わずか2時間しか着ていないのにクリーニングに出す必要もないし(黒ワイシャツと黒ズボンも都度クリーニングに出しているけど)。

・本番、入場前の1分前に、楽譜のファイルを持ってきていないことに突然気が付く。



慌てて、舞台袖のスペースに置いてあった楽譜ファイルを取りに走り出す。走っている最中、「え、どうしたの?」、「なんだ、なんだ」という声が聴こえてくる。
入場20秒くらい前までに間に合い、ほっとする。ポカミスだ。あーもう嫌だな。



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早坂文雄作曲、ピアノ曲「雨」を聴く

2023-11-17 22:26:57 | ピアノ
日本のクラシック音楽の創成期、伊福部昭と同世代の作曲家では早坂文雄(1914-1955)、松平頼則、塚谷晃弘(ギター曲として武井賞の受賞歴あり)などが知られている。
少し前の世代として鈴木静一と同世代の作曲家として清瀬保二がいるが、今日、早坂文雄のピアノ曲でなかなかの作品を見つけた。

雨(1947年)

早坂文雄の曲を初めて聴いたのは30代の前半の頃だったと思う。
「左方の舞と右方の舞」という曲だったが、どんな曲だったか全く覚えていない。
しかしこの「雨」というピアノの小品はかなりインパクトのある曲だ。
この時代の作曲家の初期の作風として、1900年代初め頃まで、すなわち西洋音楽が入ってくる前までの日本の伝統的な民族旋法、とくに陰旋法による音楽の素材に西洋の書法を適用して曲作りをする傾向があったと思うが、この「雨」はそのような性質の音楽から脱皮しているように感じ取れる。

しかし自分の関心事としては、1900年代初めに作られた、まだ西洋の音楽の影響を受けていない、日本の作曲家の手による日本独自の音楽を聴くことだ。
早坂氏は数多くのピアノ曲を残したが、それらの初期の作品に、日本の古来から伝わってきた日本の根源的独自性を感じさせる曲があるかもしれない。
こういう曲の音源がどれだけ探すことが出来るかだ。
もしできなければ、パソコンソフトで楽譜から音を再現するしかない。
時間が出来たらこういうこともやってみたい。

ちなみにウィキペディアに出ていた早坂文雄氏のピアノ作品は以下のものがあった。

君子の庵(1934年)
激越なる小品(1934年)散逸
エヴォカシオンⅠ、Ⅱ(1934年)
サティ讃歌(1934年)散逸
夜曲第1番(1937年)(チェレプニン・コレクション No.31)
ダンス(1937年)散逸
2つの舞曲(1939年)
ピアノのための五つの楽章(1940年)
五音音階によるピアノアルバム第1、第2(1940年)
子どものためのピアノ音楽(1940年)散逸
武曲三彩(1940年)
室内のためのピアノ小品集・第1集(1941年)
ピアノのための4つの前奏曲(1942年)
或る秋の祭りのための前奏曲(1944年)
ロンド(1944年)
ミュージカル・ボックス(1945年)
ピアノのためのロマンス(1945年)
九月のワルツ(1945年)
恋歌(1946年)
七月のワルツ(1946年)
哀歌(1947年)散逸
夜の悲歌(1947年)散逸
詩曲(1947年)
三つの挽歌(1947年)
夜曲第2番(1947年)
バルカローレ(1947年)
秋(1947年)
告別(1947年)
雨(1947年)
孤独(1947年)
筝うた(1947年)
君が心は(1949年)
母を葬るの歌(1949年)散逸

タイトルからして聴きたいという欲求がそそられる作品もあるが、楽譜はどれだけ入手可能なのか。録音があれば一番いいが。

千葉マンドリンクラブの定演が終わったら、こういう鑑賞面での楽しみも再開していきたい。

Videoleap-Un phénomène no.21「雨」早坂文雄
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