先日、早坂文雄作曲のピアノ曲「雨」という曲を聴いたが、その時に彼の作曲による大作「ピアノ協奏曲」を初めて聴いた。
2楽章で構成される演奏時間30分以上に渡る長大な曲であるが、もっと知られてしかるべき力作だと感じた。
第1楽章は演奏時間が22分にもなる長い楽章であるが、終始寂寥感が漂う、暗く、しかし情熱に満ちた激しい箇所も随所に現れ、西洋音楽では聴くことな出来ない独特の音楽が展開される。
作曲年は1948年だが、曲の雰囲気としては最も以前、大正から昭和初期の音楽の影響があるように感じられる。
それに対し、第2楽章は曲想ががらっと変わる。
この曲想はあまりにも第1楽章とかけ離れているので、多少違和感を感じる。伊福部昭の「日本狂詩曲」」の第2楽章「祭」や、芥川也寸志の「交響三章」」の第3楽章を彷彿させる。
独学で大成し、繊細で強い情熱を秘めた音楽を生み出した類を見ない作風を持つ作曲家だと思う。もっと知られていい。
以下、早坂文雄についてウィキペディアから転載させていただく。
家庭はこれといって音楽的環境ではなかったが、父は日本画をたしなみ、早坂も旧制・北海中学校(現北海高等学校)入学時には洋画家になろうと思っていたが、15歳の頃から作曲家を志すようになった[2]。しかし16歳の時に父が出奔し、翌年には母も病没したため、2人の弟妹の面倒を一人で見なければならなくなり、音楽学校への進学を断念し、中学卒業ののち実社会に入った[2]。
音楽への情熱は冷めやらず、ピアノが買えない彼は、ピアノの音が聴こえれば、見知らぬ家であろうとかまわずに、その家でピアノを弾かせてもらっていた[2]。1934年、旧知であった伊福部昭・三浦淳史らによって「新音楽連盟」が結成されると、早坂もメンバーとなり、同年9月30日に開催された「国際現代音楽祭」では、ピアニストとしてエリック・サティ、マヌエル・デ・ファリャなどの作品を演奏した[2]。
(中略)
終戦後、箕作秋吉によって「再結成」された「日本現代音楽協会」の作曲部推薦委員に就任する[2]。同年、清瀬保二、伊福部昭、松平頼則、渡辺浦人、塚谷晃弘、荻原利次らと「新作曲派協会」を組織し、早坂は幹事として戦後の作曲家グループの先端の一翼を担った[2]。
戦後は新作曲派協会において毎年作品を発表するなど精力的に活動を続けながら、同時に映画音楽の分野でも卓越した才能を発揮し、多忙な日々を送る。1947年(昭和22年)、新作曲派協会「第1回作品発表会」においてピアノ曲《詩曲》(1947年)などが初演される。同年、黒澤明と初めて会う[2]。
翌1948年、《ピアノ協奏曲》(1948年)が東宝交響楽団(現東京交響楽団)主催「第11回東宝グランド・コンサート 日米現代音楽祭」で梶原完独奏により初演される[7]。
Fumio Hayasaka [早坂文雄]: Piano Concerto (Hiromi Okada, Yablonsky, Russian Philharmonic Orchestra)
2楽章で構成される演奏時間30分以上に渡る長大な曲であるが、もっと知られてしかるべき力作だと感じた。
第1楽章は演奏時間が22分にもなる長い楽章であるが、終始寂寥感が漂う、暗く、しかし情熱に満ちた激しい箇所も随所に現れ、西洋音楽では聴くことな出来ない独特の音楽が展開される。
作曲年は1948年だが、曲の雰囲気としては最も以前、大正から昭和初期の音楽の影響があるように感じられる。
それに対し、第2楽章は曲想ががらっと変わる。
この曲想はあまりにも第1楽章とかけ離れているので、多少違和感を感じる。伊福部昭の「日本狂詩曲」」の第2楽章「祭」や、芥川也寸志の「交響三章」」の第3楽章を彷彿させる。
独学で大成し、繊細で強い情熱を秘めた音楽を生み出した類を見ない作風を持つ作曲家だと思う。もっと知られていい。
以下、早坂文雄についてウィキペディアから転載させていただく。
家庭はこれといって音楽的環境ではなかったが、父は日本画をたしなみ、早坂も旧制・北海中学校(現北海高等学校)入学時には洋画家になろうと思っていたが、15歳の頃から作曲家を志すようになった[2]。しかし16歳の時に父が出奔し、翌年には母も病没したため、2人の弟妹の面倒を一人で見なければならなくなり、音楽学校への進学を断念し、中学卒業ののち実社会に入った[2]。
音楽への情熱は冷めやらず、ピアノが買えない彼は、ピアノの音が聴こえれば、見知らぬ家であろうとかまわずに、その家でピアノを弾かせてもらっていた[2]。1934年、旧知であった伊福部昭・三浦淳史らによって「新音楽連盟」が結成されると、早坂もメンバーとなり、同年9月30日に開催された「国際現代音楽祭」では、ピアニストとしてエリック・サティ、マヌエル・デ・ファリャなどの作品を演奏した[2]。
(中略)
終戦後、箕作秋吉によって「再結成」された「日本現代音楽協会」の作曲部推薦委員に就任する[2]。同年、清瀬保二、伊福部昭、松平頼則、渡辺浦人、塚谷晃弘、荻原利次らと「新作曲派協会」を組織し、早坂は幹事として戦後の作曲家グループの先端の一翼を担った[2]。
戦後は新作曲派協会において毎年作品を発表するなど精力的に活動を続けながら、同時に映画音楽の分野でも卓越した才能を発揮し、多忙な日々を送る。1947年(昭和22年)、新作曲派協会「第1回作品発表会」においてピアノ曲《詩曲》(1947年)などが初演される。同年、黒澤明と初めて会う[2]。
翌1948年、《ピアノ協奏曲》(1948年)が東宝交響楽団(現東京交響楽団)主催「第11回東宝グランド・コンサート 日米現代音楽祭」で梶原完独奏により初演される[7]。
Fumio Hayasaka [早坂文雄]: Piano Concerto (Hiromi Okada, Yablonsky, Russian Philharmonic Orchestra)