緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

ワイセンベルク演奏 ベートーヴェン ピアノソナタ「月光」を聴く

2017-08-16 22:55:02 | ピアノ
前回の記事でワイセンベルクの弾く ベートーヴェンのピアノソナタ「熱情」を聴いて、彼が単なる技巧だけの奏者でないことを感想として書いた。
そして三大ソナタの一つである「月光」も聴いて、ワイセンベルクに対する感じ方を確かなものにしたいと思った。

ピアノソナタ第14番「月光」といえばピアノ鑑賞を本格的に拡げるきかっけとなった曲だ。
CDショップで何気なく買った1枚のCDが自分の音楽鑑賞の在り方を大きく変えた。
そのCDはハンガリー出身のゲザ・アンダ(Geza Anda 1921-1976)の弾くベートーヴェンのピアノソナタ3曲を収めたものであった。
その中に「月光」があり、この「月光」のゲザ・アンダの演奏があまりにも強烈に心に焼き付き、その後、ベートーヴェンのピアノソナタを数多く聴きまくるきっかけとなったのである。

今まで多数の「月光」の演奏を聴いてきたが、このゲザ・アンダの演奏を超えるものに出会っていない。
「月光」の演奏で難しいのはどんな要素だろうか。
第1楽章では、まずテンポの取り方が思い浮かぶ。
Adagio sostenuto(アダージョより少しテンポを抑え気味に)、そしてsempre legato(常になめらかに)と指定されているが、奏者によってかなり幅がある。
今まで聴いた第1楽章のテンポで最も遅かったのはソロモン・カットナーであるが、ワイセンベルクの速度はソロモンより僅かに速い。
それにしても最も遅い部類に入る。
メトロノーム記号でいえば♩=40未満である。
Adagioといえばギター曲では有名なアランフェス協奏曲の第2楽章の速度指定があるが、楽譜の指定では♩=44である。
メトロノームを音楽家で最初に利用したのはベートーヴェンであると言われているが、ピアノソナタにはメトロノーム記号が記載されていない。
Adagio sostenutoという速度は奏者の解釈により幅が生じるのは避けられないが、私自身としてはあまり速くすべきではないと感じる。

次に音量であるが、全体的に静けさを要求されていると思う。同時にsempre legatoである。
必要以上にテンポを崩したり、強弱の起伏を大きくすべきではない。また特定の音を強く強調するのも良くない。
特に下記の部分であるが、グルダやギレリス、ポリーニを始めとする多くの演奏は上昇音階をクレッシェンド、下降音階をデクレッシェンドしているが、楽譜にはそのような指定はない。



終結部に、短いが同じような音型の部分があり、ベートーヴェンはクレッシェンド、デクレッションドを要求しているが、恐らくこの部分と同様に弾くものだと解釈しているのかもしれない。
この部分の解釈は奏者により2分されるからとても興味深い(ブレンデルはずっとクレッシェンドかな)。
しかし私は上記の写真の部分は常に一定の音量(P)で弾くべきだと考える。
ワイセンベルク、ゲザ・アンダ、ソロモンはこの部分を静かに一定の音量で弾いている。

遅い速度でテンポを崩さず、常に静かで滑らかな弾き方で、同時に感情を表現することは難しい。
僅かな音の強弱、音の使い方の違い、表面的にはそうなのであろうが、ここは奏者の音楽性の違いが最も現れるところだ。
ワイセンベルクの演奏は、楽譜に記載された強弱記号をそのままに(大きく)表現していない。常に抑制され控え目であるが、これが彼のこの第1楽章に対する解釈の根幹を示していると思う。
あまり音の起伏を大きくしてしまうと、この楽章の主題からかけ離れると解釈しているのかもしれない。
その意味するところを理解するためにはかなりの時間を要するかもしれないが、この曲を理解するためのキーとなると思う。
なおワイセベルクの演奏は抑制されているからと言って、感情的なものが感じられないというのではない。抑制された表現でいかに感情的なものを引き出せるか、ということを念頭においた解釈である。

第2楽章は一転気分が変わる。
この第2楽章のテンポの選択も重要だ。
Allegrettoの指定であるが、あまりゆっくりだと間延びしたような変な感じを受ける。
ポリーニの演奏がそのような印象を受けたが、この第2楽章は第1楽章とは対照的に表現すべきだと思う。
すなわち、軽快に気分よく気持ちが乗るように演奏しなければならないと思う。
下記の低音部fpはあまり強調し過ぎない方がいい。ソロモンはかなり強調しているがやや違和感を感じる。ワイセンベルクはここを強調していない。
あまり好きな奏者ではないが、アルフレッド・ブレンデルがこの楽章を上手く弾いていた。
音をレガートにする部分と切る部分との使い分け、リズムの取り方が上手く融合していないと気分が乗ってこない。
この第2楽章と第3楽章との間は長く空けずにすぐに弾いた方がいい。
録音により間隔を長くとっているものがあるが、必ず興覚めする。

第3楽章Presto agitatoの速度であるが、文字通り解釈すれば、極めて速くかつ激しくということになる。
この楽章をアレグロくらいの速度で弾く奏者がいるが、駄目だ。
やはりPrestoで弾かなくてはならないと思う。なぜならばPrestoでないと激しい情熱が表現できないからだ。
超絶技巧を要するので、Prestoで各音を明瞭に淀みなく弾くことは至難である。
ワイセベルクはソロモンやハイドシェクよりもわずかに遅い速度であるが、技巧は極めて正確である。
この楽章をテクニックを強調するためがごとく弾いているような演奏に出くわすことがあるが、感心しない。エミール・ギレリスのライブ録音がそんな印象だったか。
ワイセベルクの演奏に、テクニックの強調という要素は微塵も感じられない。
ワイセベルクの演奏が時に機械のように精巧で冷たいと評されるの見ることがあるが、ここが大きな誤解なのである。
このように評する人は、音の表面しか聴いていない、いや表面しか感じられないのである。
音の裏側から聴こえてくるものに注意を払っていないし、感じられていないということだ。
ワイセベルクという人は、過度に感情を表す演奏家ではない。
しかし精巧で完璧とも言える技巧の裏から聴こえてくるものは、決して無機的なものではなく、まぎれもなく人間の深い感情だ。
例えば第3楽章の要となる下記の部分の演奏などは、決して技巧だけのものではないことが分かる。



一番最後のffの強い和音も凄い。


ワイセンベルクの演奏はいわゆる楽譜にやけに忠実で無機的であるが、技巧だけは凄いという演奏とは全く次元の異なる演奏なのである。
ワイセンベルクがパーキンソン病を患ってから30年以上経過し、その間の録音が無いことから、ワイセンベルクに対する評価が正しくされていないように思う。
私は彼が本当の意味での音楽家であることは間違いないと思っている。

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