ロシアにタチアナ・ニコラーエワ(1924~1993)というピアニストがいた。
ピアノ愛好家であればたいてい知っているピアニストであるが、J.S.バッハやショスタコーヴィチの演奏でかなりの録音が残っている。とくにバッハの演奏は評価が高い。
私がニコラーエワの存在を知ったのは、2年前にベートーヴェンのピアノソナタの聴き比べを始めてからまもない頃で、1984年にモスクワで行われたベートーヴェン・ピアノソナタの全曲演奏会のライブ録音のCDを手に入れてからであった。
しかしそのライブ演奏はあまり出来が良くなく、いささかがっかりしたものである。
その後バッハの平均律クラヴィーア集のCDを買ったが真剣に聴くことなく時が過ぎた。
先日、東京御茶ノ水にある老舗の某中古レコード店でCDやレコードを物色していたら、ニコラーエワの1987年のライブ録音のCDが見つかった。彼女が63歳の時のザルツブルグ音楽祭でのライブ録音であった。
CDの帯に、ゴットフリート・クラウスという音楽評論家(?)が「感動の一夜」と評していおり、演奏曲目の中に私の好きなベートーヴェンのピアノソナタ第32番があり、帯の宣伝の中に「風格の大きさで感動の極み。まさに”神品”と称するに値する一枚」と記されていたことから、買って聴いてみることにした。
このような宣伝文句を信じて聴いてみたら期待外れ、ということも無きにしもあらずであるが、今回の買い物は期待を裏切らないものであったばかりではなく、今後何度でも聴き続けるであろう、とても素晴らしい内容の演奏であったのだ。
バッハのフランス組曲の第1曲目「アルマンド」を聴いて驚いた。音が何とも暖かいのだ。しかも優しい音。聴き手が「何も構えなくていい」、「そのまますーっと心に落ちていく」ような音、タッチなのだ。
そして終曲「ジーグ」では極めて難しい技巧を、「音楽の自然な要求から生まれたもの」として何の強調もなく、流れるように弾くのである。こんなバッハを聴いたのは初めてであった。
そしてこのライブの最後の曲が、ベートーヴェンのピアノソナタ第32番(Op.111)であった。
ニコラーエワはバッハやショスタコーヴィチだけでなく、ベートーヴェンに対しても特別な思い入れを持っていると思われる。
1983年と1984年にそれぞれモスクワでピアノソナタ全曲演奏会を行っており、そのライブ演奏はCD化された。
冒頭に述べたように1984年のライブ演奏でがっかりした経験からか、もしかして良くないのでは、という気持ちが一瞬よぎったが、聴いてみたら1984年の演奏とはかなり違っていた。
1984年の時は力みがあり、無理やり余分な力で持って弾いているとういう印象であったが、この音楽祭のライブ演奏は余計な力みは全く無かった。
鍵盤を強く叩かなくても力強い音が出ているのが分かるのである。文章では上手く形容できないが、ピアノの最大限の性能を無駄な力を入れずに引き出しているだけでなく、引き出した物理的な音に、感情エネルギーがたくさん付加されて聴こえてくるのである。
だからそれほど強く鍵盤を叩いていないのに音が会場全体に響きわたっているのである。
この第32番はベートーヴェンのピアノソナタの中で最後の曲であり、彼の晩年の作である。
この第32番はベートーヴェンの人生そのもの、彼の人生の縮図である。ベートーヴェンのもがき苦しんだ人生と、その苦悩を乗り越えて晩年に辿り着いた心境と、それでもなおも過酷だった過去への回想とが交錯する極めて演奏表現の難しい曲である。
以前、ベートーヴェンのピアノソナタの名盤選出の第1回目として、この第32番をブログで取り上げたが、30以上の録音を聴いても2種類の名盤しか選出できなかった。1つはマリヤ・グリンベルクの1961年の録音、もう1つはアルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリの1988年のライブ録音であった。
その後も継続してこの2人に匹敵する名演奏を求めて、探し続けてきたがなかなか見出すことができなかった。
しかし今回このニコラーエワのライブ演奏を聴いてやっと3人目の名盤に出会うことができた。
この第32番は、表面的な上手さでは全く歯が立たない。技巧は何の役にもたたない。奏者の全人格そのものが演奏に出てこないと、聴き手を本当に感動させることはできない。ベートーヴェンの苦悩を心底身を持って理解できた奏者だけが真に聴き手を感動させられるといっても過言ではない。
このニコラーエワの演奏を聴いているときミケランジェリやグリンベルクの演奏を聴いているときと同じような感じを受けているのに気付くことがある。もしかするとニコラーエワがグリンベルクの演奏を聴いて感銘してその影響を受けたのではないか、とか、ミケランジェリは前年のこの音楽祭のニコラーエワのライブを聴いて感動し、その影響で翌年に自分もコンサートで弾いたのではないかとか。
もちろんそんな可能性は極めて低いのであるが、この3人の演奏には共通した感情を感じることができる。
この3人の演奏を聴き終えると大変なエネルギーを消耗していることに気付く。夏などに聴くと汗だくになる。
ニコラーエワのこの第32番の演奏は技術的な破たんがかなりあり、こういう破綻が気になる人には薦められない。しかしこのしばし出てくる破綻が殆ど気にならないほど音楽の表現の骨格が大きいのである。
ピアノ愛好家であればたいてい知っているピアニストであるが、J.S.バッハやショスタコーヴィチの演奏でかなりの録音が残っている。とくにバッハの演奏は評価が高い。
私がニコラーエワの存在を知ったのは、2年前にベートーヴェンのピアノソナタの聴き比べを始めてからまもない頃で、1984年にモスクワで行われたベートーヴェン・ピアノソナタの全曲演奏会のライブ録音のCDを手に入れてからであった。
しかしそのライブ演奏はあまり出来が良くなく、いささかがっかりしたものである。
その後バッハの平均律クラヴィーア集のCDを買ったが真剣に聴くことなく時が過ぎた。
先日、東京御茶ノ水にある老舗の某中古レコード店でCDやレコードを物色していたら、ニコラーエワの1987年のライブ録音のCDが見つかった。彼女が63歳の時のザルツブルグ音楽祭でのライブ録音であった。
CDの帯に、ゴットフリート・クラウスという音楽評論家(?)が「感動の一夜」と評していおり、演奏曲目の中に私の好きなベートーヴェンのピアノソナタ第32番があり、帯の宣伝の中に「風格の大きさで感動の極み。まさに”神品”と称するに値する一枚」と記されていたことから、買って聴いてみることにした。
このような宣伝文句を信じて聴いてみたら期待外れ、ということも無きにしもあらずであるが、今回の買い物は期待を裏切らないものであったばかりではなく、今後何度でも聴き続けるであろう、とても素晴らしい内容の演奏であったのだ。
バッハのフランス組曲の第1曲目「アルマンド」を聴いて驚いた。音が何とも暖かいのだ。しかも優しい音。聴き手が「何も構えなくていい」、「そのまますーっと心に落ちていく」ような音、タッチなのだ。
そして終曲「ジーグ」では極めて難しい技巧を、「音楽の自然な要求から生まれたもの」として何の強調もなく、流れるように弾くのである。こんなバッハを聴いたのは初めてであった。
そしてこのライブの最後の曲が、ベートーヴェンのピアノソナタ第32番(Op.111)であった。
ニコラーエワはバッハやショスタコーヴィチだけでなく、ベートーヴェンに対しても特別な思い入れを持っていると思われる。
1983年と1984年にそれぞれモスクワでピアノソナタ全曲演奏会を行っており、そのライブ演奏はCD化された。
冒頭に述べたように1984年のライブ演奏でがっかりした経験からか、もしかして良くないのでは、という気持ちが一瞬よぎったが、聴いてみたら1984年の演奏とはかなり違っていた。
1984年の時は力みがあり、無理やり余分な力で持って弾いているとういう印象であったが、この音楽祭のライブ演奏は余計な力みは全く無かった。
鍵盤を強く叩かなくても力強い音が出ているのが分かるのである。文章では上手く形容できないが、ピアノの最大限の性能を無駄な力を入れずに引き出しているだけでなく、引き出した物理的な音に、感情エネルギーがたくさん付加されて聴こえてくるのである。
だからそれほど強く鍵盤を叩いていないのに音が会場全体に響きわたっているのである。
この第32番はベートーヴェンのピアノソナタの中で最後の曲であり、彼の晩年の作である。
この第32番はベートーヴェンの人生そのもの、彼の人生の縮図である。ベートーヴェンのもがき苦しんだ人生と、その苦悩を乗り越えて晩年に辿り着いた心境と、それでもなおも過酷だった過去への回想とが交錯する極めて演奏表現の難しい曲である。
以前、ベートーヴェンのピアノソナタの名盤選出の第1回目として、この第32番をブログで取り上げたが、30以上の録音を聴いても2種類の名盤しか選出できなかった。1つはマリヤ・グリンベルクの1961年の録音、もう1つはアルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリの1988年のライブ録音であった。
その後も継続してこの2人に匹敵する名演奏を求めて、探し続けてきたがなかなか見出すことができなかった。
しかし今回このニコラーエワのライブ演奏を聴いてやっと3人目の名盤に出会うことができた。
この第32番は、表面的な上手さでは全く歯が立たない。技巧は何の役にもたたない。奏者の全人格そのものが演奏に出てこないと、聴き手を本当に感動させることはできない。ベートーヴェンの苦悩を心底身を持って理解できた奏者だけが真に聴き手を感動させられるといっても過言ではない。
このニコラーエワの演奏を聴いているときミケランジェリやグリンベルクの演奏を聴いているときと同じような感じを受けているのに気付くことがある。もしかするとニコラーエワがグリンベルクの演奏を聴いて感銘してその影響を受けたのではないか、とか、ミケランジェリは前年のこの音楽祭のニコラーエワのライブを聴いて感動し、その影響で翌年に自分もコンサートで弾いたのではないかとか。
もちろんそんな可能性は極めて低いのであるが、この3人の演奏には共通した感情を感じることができる。
この3人の演奏を聴き終えると大変なエネルギーを消耗していることに気付く。夏などに聴くと汗だくになる。
ニコラーエワのこの第32番の演奏は技術的な破たんがかなりあり、こういう破綻が気になる人には薦められない。しかしこのしばし出てくる破綻が殆ど気にならないほど音楽の表現の骨格が大きいのである。