こんにちは。
4月も半ばに入りますが、まだまだ寒いです。夜はストーブを点けています。
今日聴いた音楽はベートーヴェン ロンド ト長調 Op.51-2。演奏はマリヤ・グリンベルクだ。1973年の録音なので彼女の晩年の演奏である。
響きの良いホールでライブ録音であろうか。とにかくとても音が美しい。この音を聴くとピアノという楽器はここまで美しい音を引き出せるのかと感心してしまう。
最後の力強い和音の響きは、ちょっと大げさかもしれないが、最低音から最高音まで何十種類ものいろいろな音が層をなしているように聴こえる。
マリヤ・グリンベルクの録音の中には、ステレオ録音でもベートーヴェンのソナタ集のように彼女の音の持ち味が生かされておらず、味気ない録音もあるが、意外にライブ録音や放送録音の中に彼女の音の魅力が存分に発揮されているものがある。
彼女が残した演奏の録音は放送録音が多いようである。放送録音はお金をかけて編集録音などはしないから、一発録りであろうが、逆にその方がいい演奏が生まれるのではないかと思う。
編集録音で有名なのはグレン・グールドであるが、彼の演奏は聴く気になれない。100以上のテイクから継ぎ接ぎで編集して録音するというのは、作り物という感じがするからだ。だから私はちょっとくらいのミスが散見されても、ライブや放送録音のような録音の方が好きだ。
グリンベルクの1976年のシューベルトのライブ録音などは、タッチミスが非常に多いが、そんなものは関係ないくらい聴こえてくる音楽が大きいのである。
結局は、奏者から発せられる音楽の力の差なのだ。感情の差といっていい。奏者の中心から泉のように湧き出てくる力、感情などのエネルギーが聴くものの心をつかむ。
軽いタッチで超人的なテクニックで弾き切っても、それは曲芸としての感心しか与えない。セゴビアが決して必要以上の速さで弾こうとしなかったのは音楽を真にわかっていたからであろう。
リヒテルが1960年代のアメリカ公演で、聴衆を意識してか、必要以上の速さで技巧を全面に出した演奏をしているのを聴いてがっかりした。技巧の要する曲を速いテンポで弾いて、ノーミスで終われば聴衆は喜ぶ。ブラボーと叫ぶ。しかしそれは難しい技巧を完璧に成し遂げたことに対する賞賛であろう。それは曲芸に対する賞賛である。技巧的には地味で、音楽的に難しい曲に対しては、聴衆の反応は大抵鈍い。拍手も弱い。
超絶技巧で聴き手を酔わせることも演奏家には必要なことなのかもしれないが、私にはグリンベルクやアラウ、セゴビアのような音楽のエネルギーを感じさせてくれる演奏家の方が好きだ。
これは合唱曲にも言える。
去年の10月に行われたNコン全国大会で、私はある高校の演奏を聴いて非常に強いエネルギーを感じた。一見地味なのだが、その演奏は心に長く強く残り続けた。
その強いエネルギーは大きい音量や美しい透明な音から生み出されるものではない。大きな迫力のある音量でなくても強い感情が伝わってくることがある。
セゴビアが弾くポンセのソナタ・ロマンティカを聴くと、意識という次元が全くない状態、心の芯から出てくるものそのものだけで演奏しているを感じる。ものすごく高い集中力で、頭で考えているものが一切入り込んでいないような演奏なのだ。
多分、音楽を作った人が感じた感情を、そのままに感じて演奏しているからなのであろう。
4月も半ばに入りますが、まだまだ寒いです。夜はストーブを点けています。
今日聴いた音楽はベートーヴェン ロンド ト長調 Op.51-2。演奏はマリヤ・グリンベルクだ。1973年の録音なので彼女の晩年の演奏である。
響きの良いホールでライブ録音であろうか。とにかくとても音が美しい。この音を聴くとピアノという楽器はここまで美しい音を引き出せるのかと感心してしまう。
最後の力強い和音の響きは、ちょっと大げさかもしれないが、最低音から最高音まで何十種類ものいろいろな音が層をなしているように聴こえる。
マリヤ・グリンベルクの録音の中には、ステレオ録音でもベートーヴェンのソナタ集のように彼女の音の持ち味が生かされておらず、味気ない録音もあるが、意外にライブ録音や放送録音の中に彼女の音の魅力が存分に発揮されているものがある。
彼女が残した演奏の録音は放送録音が多いようである。放送録音はお金をかけて編集録音などはしないから、一発録りであろうが、逆にその方がいい演奏が生まれるのではないかと思う。
編集録音で有名なのはグレン・グールドであるが、彼の演奏は聴く気になれない。100以上のテイクから継ぎ接ぎで編集して録音するというのは、作り物という感じがするからだ。だから私はちょっとくらいのミスが散見されても、ライブや放送録音のような録音の方が好きだ。
グリンベルクの1976年のシューベルトのライブ録音などは、タッチミスが非常に多いが、そんなものは関係ないくらい聴こえてくる音楽が大きいのである。
結局は、奏者から発せられる音楽の力の差なのだ。感情の差といっていい。奏者の中心から泉のように湧き出てくる力、感情などのエネルギーが聴くものの心をつかむ。
軽いタッチで超人的なテクニックで弾き切っても、それは曲芸としての感心しか与えない。セゴビアが決して必要以上の速さで弾こうとしなかったのは音楽を真にわかっていたからであろう。
リヒテルが1960年代のアメリカ公演で、聴衆を意識してか、必要以上の速さで技巧を全面に出した演奏をしているのを聴いてがっかりした。技巧の要する曲を速いテンポで弾いて、ノーミスで終われば聴衆は喜ぶ。ブラボーと叫ぶ。しかしそれは難しい技巧を完璧に成し遂げたことに対する賞賛であろう。それは曲芸に対する賞賛である。技巧的には地味で、音楽的に難しい曲に対しては、聴衆の反応は大抵鈍い。拍手も弱い。
超絶技巧で聴き手を酔わせることも演奏家には必要なことなのかもしれないが、私にはグリンベルクやアラウ、セゴビアのような音楽のエネルギーを感じさせてくれる演奏家の方が好きだ。
これは合唱曲にも言える。
去年の10月に行われたNコン全国大会で、私はある高校の演奏を聴いて非常に強いエネルギーを感じた。一見地味なのだが、その演奏は心に長く強く残り続けた。
その強いエネルギーは大きい音量や美しい透明な音から生み出されるものではない。大きな迫力のある音量でなくても強い感情が伝わってくることがある。
セゴビアが弾くポンセのソナタ・ロマンティカを聴くと、意識という次元が全くない状態、心の芯から出てくるものそのものだけで演奏しているを感じる。ものすごく高い集中力で、頭で考えているものが一切入り込んでいないような演奏なのだ。
多分、音楽を作った人が感じた感情を、そのままに感じて演奏しているからなのであろう。