3/27 0:11に書いた記事の続き
(その時の記事を再掲)
これ以上無いというくらい恐ろしく暗く、荒涼としていて、冷たく不気味ではあるが、生半可な理解を拒む哲学的な難解さに富み、単なる奇をてらった浅はかな形式的皮相的な構成とは全く次元の異なる、人間の潜在意識の奥底に潜む闇の感情に対峙した経験なくして得られない負の人間心理を浮き彫りにし描写した現代音楽を探しているのだが、なかなか見つけ出すことが出来ない。
そんな中、水野修孝作曲「ピアノのための仮象」というピアノ独奏曲に出会った。
1967年作曲。
演奏:高橋アキ



この曲に出会ったのが1年くらい前だったと思うが、単なる表層的で構成力の弱い現代音楽が多い中で、理解困難ではあるが何か心に響くものがあったので、ときどき聴いていた。
この曲は14のプロジェクト・ユニット(Project Unit 何て訳すのか?)で構成される。
タイトルの「仮象」(Provisional Color)とは一般的に、「実在的対象を反映しているように見えながら、対応すべき客観的実在性のない、単なる主観的な形象。仮の形。偽りの姿。」を意味するようだ。
極めて抽象的なタイトルを持つ曲であり、「仮象」という概念が音楽という手段でどう表現されているかを感じ取ることが鑑賞するうえでの鍵となるのであるが、正直、難しい。
人間の顕在意識レベルでの感情を音の組み合わせで構築し表現した、いわゆる普通の音楽とは全く異なる次元の音楽であるからだ。
(ここから続き)
PU1はピアニッシシモのD音で始まり次第に音量と速度を増し、その後速度を落としながら最初の音量に戻る。
D音の単音の連打の後、高い音域と低い音域の案音がD音に向かって交叉するように展開される。
このDの単音はその後プロジェクト・ユニットでも随所に現れる。この曲の何か需要なキーとなるものを意味していると思われる。
PU2は深夜の静けさ、冷たい荒涼としたものを感じる。
層の厚くないシンプルな和音と単音の組み合わせであるが、単音どうし、あるいは和音と単音の間を線で結ばれた記譜が見られ、楽譜に記載された作者注によると「線によって結ばれた音群は、ほぼ奏者の一呼吸以内に奏し終えるようにすること」という指定がなされている。
選で結ばれた音群は互いに連関し、一つの意味を持つものと考えられるが、何を意味するかは聴き手の感性に委ねられるということか。
最後の2回繰り返される2つの和音の呼応は、野呂武男作曲「コンポジションⅠ 永遠回帰」2楽章の最後を思い出させる。
PU3は高音と低音の単音が、何か意図された機械的で正確な間隔でもって呼応するように奏される。
途中何箇所にフェルマータの休止が挿入されるが、この休止の意味は何を意味するのか。
後半部にD音の連打がある。
PU4は2群の単音の連打が交錯していく展開だが、上の音群は何か細かい粒子が動き回っているようなイメージを感じる。
複数の単音が〇で囲まれ、グルーピングされているが、作曲者注によると、「ひとまとまりのフレーズと捉え、ひとつの動作で弾くこと。他の音群と区別できるための区切りをフレーズの前後に置くこと」という指示がなされている。


このPU4の終曲部の手前で、高音と低音が交錯し強烈に連打され、次第に速度と音量を落としていくが、ここでまたあのD音の繰り返しが現れ、 PU1の曲想が再現される(like a feeling of PU1)。
この部分を聴くと寒気がしてくる。このような雰囲気を待ち望んでいた。

PU5は短い。
llike a bellという指定がされている。静かで荒涼とした響きだ。
下声部の重音から上声部の単音に向かって矢線が引かれている。音の順番としては逆だ。
これは何を意味するのか。
PU6は2つの重音のみ構成される。これも2群に分かれてそれぞれが連関するようにつながりをもたせている。
Softly,Slowlyという指定をとっている。
PU7はPU5と同様短い。
やや荒涼とした無機的な和音の繰り返しの後に、突然、PU4で現れたような単音の非常に速度の速いひとまとまりの音群が一気に奏される。これも何か細かい粒子のようなものが非常に速い速度で動きまわるような感じを受ける。
PU8はPU4終結部手前に現れた高音と低音が激しく交錯する音型と同様のフレーズが繰り返され、最後は重音と単音が激しく交互に打ち下ろされる。
PU9は他のPUでも見られた弱音→強音→弱音、ゆっくりから始まり、次第に速度を速め跫音部を境に速度をゆるめていく展開をとる。速度や音量を緩めていく部分は重音の組み合わせだ。
PU10今までのPUとは異なる展開となる。
2群の高低の単音の組み合わせによるものである。音と音が線で結ばれているが、PU2で見られた線の意味とは異なる。
単なる音の順番を意味するものだと言う。
PU11も単音と重音の組み合わせで、弱音→強音→弱音、ゆっくり→次第に早く→ゆっくりというパターンは変わっていないが、途中、スフォルフォルツァンドの強烈な3重音が挿入され、最後はPU2と同じ荒涼とした3重音の繰り返しで終わる。
スフォルフォルツァンドの強烈な3重音を挿入しているところが、他のPUと異なるパターンであるが、その意味することは正直理解を超えている。
PU12は均等間隔で連打されるD音の連打とC#音との交錯が続いたあとに、荒涼とした静かな夜を思わせる終わり方となる。
PU13はPU12の前半と同じであるが、何故かD音とC#音の線の指定が異なっている。
そして間を置かずにPU14に移り、高温と低音の交錯する激しい連打の後に、PU1の最後のD音の繰り返しが等間隔で徐々に音量を下げながら進んでいき、最後はピアニッシシモで曲を締めくくる。

この曲の特徴は、単音と2音または3音の重音のみで構成され、弱音→強音→弱音、ゆっくり→次第に早く→ゆっくりというパターンを採るユニットが多いこと、またD音の単音の繰り返しが随所に現れることである。
完全な無調音楽であるため、全体的に暗く荒涼とした冷たさを感じさせる。
八村義夫のピアノ曲に見られるような、激しい強烈な和音の繰り返しは見られず、静かで繊細な表現を意図しているように思われる。
作者が「仮象」という概念、事象をどのような経緯、感性、イメージでこの曲に託したのか、資料が全く無いので分からないが、このような難解な現代音楽の場合、作曲者自らが曲の解説をつけることを期待したい。
聴き手は鑑賞にあたって何かしら曲を理解するうえでの手がかりが無いと、恐らく、何度繰り返し聴いても理解、共鳴することは困難であろう。
但し難解な現代音楽の中でも、聴き手の心と共振するものがある。
それは難解な音楽の中に、作者の感情が裏に隠されている場合だ。その感情とは多くの場合、負の感情である。
普通の音楽家が作品に表現することなど考えられないような、複雑で限定された領域の感情である。
作曲家の原博は彼の著作で、現代音楽作曲家たちのことを「彼らは近代科学の成功を見て、その論理を図式的に芸術に当てはめるという幻想的飛躍を行った。そのようにして作られた設計図を確信するあまり、そこから生まれ出る音のすべてを自らに許したのである」と述べた。
現代音楽をたくさん聴いていると、現代音楽にもさまざまなものがあることに気付く。
現代音楽を総称して、「こうだ」という言うことは出来ない。
現代音楽が先の原博が指摘した意味合いを持つものかどうかは、とにかく曲を聴いて判断するしかない。
ただ、これだけは言いたいのであるが、現代音楽にも優れて芸術的な作品があるということだ。
時代の潮流に乗って、そこから取り残されないようにと、そのような動機で作曲された曲も膨大にあるに違いない。
優れた現代音楽の作品は、聴き手に考える、感じ取る、理解する、といった「力」を要求する。
丁度難解な哲学書を読むのと同じような忍耐力と、探求心、直感的感性といった能力の成熟度が求められるのではないかと思う。
内容の濃い、深い現代音楽作品は、聴くたびに新たな発見や理解が得られ、その体験が、達成感という、調性音楽とは別の次元の喜びを聴き手にもたらすのではないかと思っている。
現代音楽 水野修孝「ピアノのための仮象」(1967) / 高橋アキ(pf) / 東芝盤
(その時の記事を再掲)
これ以上無いというくらい恐ろしく暗く、荒涼としていて、冷たく不気味ではあるが、生半可な理解を拒む哲学的な難解さに富み、単なる奇をてらった浅はかな形式的皮相的な構成とは全く次元の異なる、人間の潜在意識の奥底に潜む闇の感情に対峙した経験なくして得られない負の人間心理を浮き彫りにし描写した現代音楽を探しているのだが、なかなか見つけ出すことが出来ない。
そんな中、水野修孝作曲「ピアノのための仮象」というピアノ独奏曲に出会った。
1967年作曲。
演奏:高橋アキ



この曲に出会ったのが1年くらい前だったと思うが、単なる表層的で構成力の弱い現代音楽が多い中で、理解困難ではあるが何か心に響くものがあったので、ときどき聴いていた。
この曲は14のプロジェクト・ユニット(Project Unit 何て訳すのか?)で構成される。
タイトルの「仮象」(Provisional Color)とは一般的に、「実在的対象を反映しているように見えながら、対応すべき客観的実在性のない、単なる主観的な形象。仮の形。偽りの姿。」を意味するようだ。
極めて抽象的なタイトルを持つ曲であり、「仮象」という概念が音楽という手段でどう表現されているかを感じ取ることが鑑賞するうえでの鍵となるのであるが、正直、難しい。
人間の顕在意識レベルでの感情を音の組み合わせで構築し表現した、いわゆる普通の音楽とは全く異なる次元の音楽であるからだ。
(ここから続き)
PU1はピアニッシシモのD音で始まり次第に音量と速度を増し、その後速度を落としながら最初の音量に戻る。
D音の単音の連打の後、高い音域と低い音域の案音がD音に向かって交叉するように展開される。
このDの単音はその後プロジェクト・ユニットでも随所に現れる。この曲の何か需要なキーとなるものを意味していると思われる。
PU2は深夜の静けさ、冷たい荒涼としたものを感じる。
層の厚くないシンプルな和音と単音の組み合わせであるが、単音どうし、あるいは和音と単音の間を線で結ばれた記譜が見られ、楽譜に記載された作者注によると「線によって結ばれた音群は、ほぼ奏者の一呼吸以内に奏し終えるようにすること」という指定がなされている。
選で結ばれた音群は互いに連関し、一つの意味を持つものと考えられるが、何を意味するかは聴き手の感性に委ねられるということか。
最後の2回繰り返される2つの和音の呼応は、野呂武男作曲「コンポジションⅠ 永遠回帰」2楽章の最後を思い出させる。
PU3は高音と低音の単音が、何か意図された機械的で正確な間隔でもって呼応するように奏される。
途中何箇所にフェルマータの休止が挿入されるが、この休止の意味は何を意味するのか。
後半部にD音の連打がある。
PU4は2群の単音の連打が交錯していく展開だが、上の音群は何か細かい粒子が動き回っているようなイメージを感じる。
複数の単音が〇で囲まれ、グルーピングされているが、作曲者注によると、「ひとまとまりのフレーズと捉え、ひとつの動作で弾くこと。他の音群と区別できるための区切りをフレーズの前後に置くこと」という指示がなされている。


このPU4の終曲部の手前で、高音と低音が交錯し強烈に連打され、次第に速度と音量を落としていくが、ここでまたあのD音の繰り返しが現れ、 PU1の曲想が再現される(like a feeling of PU1)。
この部分を聴くと寒気がしてくる。このような雰囲気を待ち望んでいた。

PU5は短い。
llike a bellという指定がされている。静かで荒涼とした響きだ。
下声部の重音から上声部の単音に向かって矢線が引かれている。音の順番としては逆だ。
これは何を意味するのか。
PU6は2つの重音のみ構成される。これも2群に分かれてそれぞれが連関するようにつながりをもたせている。
Softly,Slowlyという指定をとっている。
PU7はPU5と同様短い。
やや荒涼とした無機的な和音の繰り返しの後に、突然、PU4で現れたような単音の非常に速度の速いひとまとまりの音群が一気に奏される。これも何か細かい粒子のようなものが非常に速い速度で動きまわるような感じを受ける。
PU8はPU4終結部手前に現れた高音と低音が激しく交錯する音型と同様のフレーズが繰り返され、最後は重音と単音が激しく交互に打ち下ろされる。
PU9は他のPUでも見られた弱音→強音→弱音、ゆっくりから始まり、次第に速度を速め跫音部を境に速度をゆるめていく展開をとる。速度や音量を緩めていく部分は重音の組み合わせだ。
PU10今までのPUとは異なる展開となる。
2群の高低の単音の組み合わせによるものである。音と音が線で結ばれているが、PU2で見られた線の意味とは異なる。
単なる音の順番を意味するものだと言う。
PU11も単音と重音の組み合わせで、弱音→強音→弱音、ゆっくり→次第に早く→ゆっくりというパターンは変わっていないが、途中、スフォルフォルツァンドの強烈な3重音が挿入され、最後はPU2と同じ荒涼とした3重音の繰り返しで終わる。
スフォルフォルツァンドの強烈な3重音を挿入しているところが、他のPUと異なるパターンであるが、その意味することは正直理解を超えている。
PU12は均等間隔で連打されるD音の連打とC#音との交錯が続いたあとに、荒涼とした静かな夜を思わせる終わり方となる。
PU13はPU12の前半と同じであるが、何故かD音とC#音の線の指定が異なっている。
そして間を置かずにPU14に移り、高温と低音の交錯する激しい連打の後に、PU1の最後のD音の繰り返しが等間隔で徐々に音量を下げながら進んでいき、最後はピアニッシシモで曲を締めくくる。

この曲の特徴は、単音と2音または3音の重音のみで構成され、弱音→強音→弱音、ゆっくり→次第に早く→ゆっくりというパターンを採るユニットが多いこと、またD音の単音の繰り返しが随所に現れることである。
完全な無調音楽であるため、全体的に暗く荒涼とした冷たさを感じさせる。
八村義夫のピアノ曲に見られるような、激しい強烈な和音の繰り返しは見られず、静かで繊細な表現を意図しているように思われる。
作者が「仮象」という概念、事象をどのような経緯、感性、イメージでこの曲に託したのか、資料が全く無いので分からないが、このような難解な現代音楽の場合、作曲者自らが曲の解説をつけることを期待したい。
聴き手は鑑賞にあたって何かしら曲を理解するうえでの手がかりが無いと、恐らく、何度繰り返し聴いても理解、共鳴することは困難であろう。
但し難解な現代音楽の中でも、聴き手の心と共振するものがある。
それは難解な音楽の中に、作者の感情が裏に隠されている場合だ。その感情とは多くの場合、負の感情である。
普通の音楽家が作品に表現することなど考えられないような、複雑で限定された領域の感情である。
作曲家の原博は彼の著作で、現代音楽作曲家たちのことを「彼らは近代科学の成功を見て、その論理を図式的に芸術に当てはめるという幻想的飛躍を行った。そのようにして作られた設計図を確信するあまり、そこから生まれ出る音のすべてを自らに許したのである」と述べた。
現代音楽をたくさん聴いていると、現代音楽にもさまざまなものがあることに気付く。
現代音楽を総称して、「こうだ」という言うことは出来ない。
現代音楽が先の原博が指摘した意味合いを持つものかどうかは、とにかく曲を聴いて判断するしかない。
ただ、これだけは言いたいのであるが、現代音楽にも優れて芸術的な作品があるということだ。
時代の潮流に乗って、そこから取り残されないようにと、そのような動機で作曲された曲も膨大にあるに違いない。
優れた現代音楽の作品は、聴き手に考える、感じ取る、理解する、といった「力」を要求する。
丁度難解な哲学書を読むのと同じような忍耐力と、探求心、直感的感性といった能力の成熟度が求められるのではないかと思う。
内容の濃い、深い現代音楽作品は、聴くたびに新たな発見や理解が得られ、その体験が、達成感という、調性音楽とは別の次元の喜びを聴き手にもたらすのではないかと思っている。
現代音楽 水野修孝「ピアノのための仮象」(1967) / 高橋アキ(pf) / 東芝盤
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