緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

アンドレイ・ニコルスキー演奏 リスト編曲シューベルト作曲 「水車屋と小川」を聴く

2017-06-04 21:14:12 | ピアノ
最近、アレックス・ワイセンベルクとアンドレイ・ニコルスキーというピアニストに注目している。
ワイセンベルクは多くの人が知っているが、アンドレイ・ニコルスキーは知られていない。

アンドレイ・ニコルスキー (Andrei Nikolsky、1959-1995)は旧ソ連出身で、1987年の第10回エリザベート・コンクールで第1位となったが、36歳の時に夜間の山道で小動物を避けて崖から転落し事故死した悲運のピアニストだ。
録音は極めて少なく、どれも廃盤だ。しかしYoutubeで彼の演奏のいくつかを聴くことができた。

テクニックが正確で全くごまかしの無い誠実な演奏をする。
低音はやや軽いが、高音が非常に美しい。
リストのソナタロ短調を聴けばその特徴がはっきりする。
ピアノで美しい高音を出せるピアニストは限られているが、ニコルスキーの高音は特別に美しく感じる。繊細さと芯の強さが同居した何とも言えない美しさだ。

今回聴いたのは、シューベルト作曲、リスト編曲のミュラー歌曲集より、Der Muller und der Bach(水車屋と小川(若者と小川)) 。
しかし、悲しくも美しい曲だ。シューベルトの、孤独の中にも幸福を追い求めた気持ちが伝わってくるようだ。


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中央大学マンドリン倶楽部 第112回定期演奏会を聴く

2017-06-04 01:30:43 | マンドリン合奏
今日(3日)、東京八王子市の南大沢文化会館で中央大学マンドリン倶楽部第112回定期演奏会が行われた。
中央大学の定期演奏会を聴きに行くようになって、もう4年目だ。
これまでの各年の正指揮者の姿をはっきりと憶えている。今年で4人目である。
毎年聴きにいく演奏会の中でも、この中央大学マンドリン倶楽部の定期演奏会はとりわけ楽しみにしているのであるが、今年は休日出勤が多く、今回の演奏会を聴くことができないと思っていたが、運よく時間が空いた。しかし明日は仕事に行かなければならない。

八王子は遠い。京王線など滅多に乗ることは無いが、南大沢という所は新興住宅地なのであろうか。
駅前に大きな商業施設が立ち並んでいた。
南大沢文化会館のホールはわりと聴きやすい、いいホールだと思った。音響も悪くない。

現役の部員数は1年生含めて約25名。かつてよりも少ないように思う。
1年生は早くも演奏会に参加すること自体驚きであるが、高校時代にマンドリンクラブに所属していたのであろうか。
今日は10名のOBが賛助出演していた。

今の若い人にとってマンドリンオーケストラというジャンルは、人気があるとは思えない。
マンドリン音楽に対する先入観やイメージが部員数の減少につながっている。
また30、40年前に比べて、力のある名曲が生み出されていないことも原因なのかもしれない。
吹奏楽、合唱、管弦楽に関心を持つ人はたくさんいるだろう。
しかしマンドリンオーケストラをやってみようと思う人は昔に比べて少なってきている。
しかし、マンドリンオーケストラの魅力に真に気付いたならば、この音楽のジャンルがとてつもなく大きな感動をもたらしてくれることを身を持って体感するに違いない。
この中央大学マンドリン倶楽部は、マンドリンオーケストラの真の魅力を感じさせてくれる、数少ない演奏集団の一つなのだ。

さて今日の演奏会のプログラムは下記であった。

第Ⅰ部

『幸せな一日』序曲 ドメニコ・チマローザ 作曲
『ジプシー風狂詩曲』 マリオ・マチョッキ 作曲
『ロマン的間奏曲』 アッリーゴ・カペリッティ 作曲
序曲『過去への礼賛』 ロドヴィコ・メラーナ=フォクト 作曲

第Ⅱ部

『海の少女』 服部 正 作曲
『2つの動機』 吉水 秀徳 作曲

どの曲も初めて聴くが、決して豊富とは言えないマンドリン曲の中でも、オリジナルの力作である。
この大学は安易なポピュラーものは選曲しない。徹底している。決して妥協しない。
やるからには、マンドリン音楽の本当の素晴らしさを感じさせてくれる内容の濃い、難曲に挑戦しよう、という気持ちがプログラムを見ると伝わってくる。
聴く側だって真剣だ。行きの電車の中で、日頃の睡眠不足を補うために居眠りし、会場に着くとできるだけ集中力を高める。

第Ⅰ部の1曲はイタリアの作曲家チマローザの曲。指揮は副指揮者。
チマローザと言えば、ギターのジュリアン・ブリームが若い頃に編曲して弾いていたのが思い出される。
イタリアらしい軽快な明るい曲だ。
2曲目で正指揮者に代わる。『ジプシー風狂詩曲』という曲の作者はマリオ・マチョッキという人はイタリア人であろうか。
強いユニゾンのやや悲愴的な旋律で始まる。ヨーロッパの曲は短調でも日本の曲のように陰鬱な感じは無い。リズムが激しく、頻繁に長調にも転じる
途中でプログラムに書かれていたように「黒い瞳」を思わせるメロディが現れる。
私は70年代に見た「ゴット・ファーザー」で出てきた音楽を思い出した。
3曲目もイタリア人の曲、『ロマン的間奏曲』。
マンドリン音楽の発祥地イタリアの全盛期の曲であろうか。
穏やかな明るく、雄大な感じがする。途中、パートトップによるソロが奏される。
こういう曲を聴くと国民性の違いを感じる。風土や歴史の違いといってもいい。日本人が真似をしようしても作れない曲だ。
第Ⅰ部最後の曲は、序曲『過去への礼賛』という曲。速度が速く、技巧を要する難曲だ。
中間部で繊細でゆっくりとした音楽に転じるが、最初のテーマが繰り返される。マンドリンの下降する単音のパッセージは技巧を要するところ。何度か冒頭の激しい主題と繊細かつゆったりとした部分とが折り重なる。

第Ⅱ部は日本人作曲家の曲。
服部正は聞いたことのある名前だ。家に帰って学生時代の楽譜を引っ張り出して探してみると、「旅愁の主題による変奏曲」という曲が見つかった。



大学2年生の時の定期演奏会間近の秋合宿最終日に、大学のある町の社会人団体とのジョイントコンサートで弾いた曲だ。この曲はあまり練習する時間が無かったが今でも覚えている。
今日聴いた「海の少女」という曲は変化に富んだ曲。
ギタートップ奏者のソロに続き1stマンドリンソロの哀愁ある旋律が続き、曲想は一転する。
ここからしばらく日本風でもありヨーロッパ的な書法による音楽に展開されるが、再び最初の軽快で華やかな音楽が繰り返された。
今日の演奏会の最後の曲は、吉水秀徳作曲の「2つの動機」という曲であった。
プログラムによると、この曲は吉水秀徳が1982年、大学生の時に作曲した処女作とのことだ。
1982年というと私も大学生であったから、私と吉水氏はほぼ同世代だ。
曲は70代の片鱗をかすかに感じるが、もはや80年代の新しい音楽に向かっていると感じた。
つまり、80年代以降の新しい感性による曲だと感じる。
正指揮者がギターパートの方を向いて、集中力を高める。そしてゆっくりと、しなやかに指揮棒が降られる。
ギターの低い低音が繰り返され、ドラのソロで始まる。
徐々にマンドリンやベースなどが加わり、フルートのソロも加わる。
伝統的なマンドリン音楽とは異なる。頻繁に転調し、つかみにくい感じがするが、変化に富んでおり、新しい感性を感じる。各パートの特性をよく活かしている。特にギターの音色と和声の使い方が上手い。難しいパーッセージが随所に現れ、難易度のとても高い曲だ。
20代前半でよくこのような曲を作れると思う。力作だと思う。
リズムの刻みが難しそう。
しかし生命感にあふれる曲だ。「生きている」という実感を強く感じる。しかも前向きの強いエネルギーだ。
芥川也寸志が著書で「リズムは生命に対応するものであり、リズムは音楽を生み、リズムを喪失した音楽は死ぬ。リズムは音楽の基礎であるばかりでなく、音楽の生命であり、音楽を超えた存在である」と語っていたが、マンドリン音楽ほどリズムを強く感じる音楽は無い。
冒頭にマンドリン音楽の魅力のことを言ったが、マンドリン音楽に特有な魅力は強い生命力を感じさせるリズミの刻みにある。
中央大学マンドリン倶楽部のこの最後の曲の演奏は、今まで聴いた定期演奏会の演奏の中でもとりわけ強く感動を与えてくれた。
正指揮者はこの曲を解釈し、演奏をまとめあげるのにとても苦労したに違いない。
曲が終ってから拍手がなかなか鳴りやまなかった。素晴らしい演奏であった。

今日の演奏会が終ってから家に帰るまで、感動の余韻がずっと消えることはなかった。
数多く聴いてきた演奏会の中でもこのような経験は極めて少ない。
彼らがリズムの刻みに呼応して体が自然に反応し、揺れる姿を見て、その計り知れないエネルギーの強さ、強いモチベーションがどこからくるのか、帰りの電車の中でしばらく考えていた。
力作、名曲であればあるほど作曲家のその曲に賭けた思いは強い。その曲を作り上げるプロセスにおいてさまざまな目に見えない苦労や、生の感情が存在している。
五線紙に記譜された音符や文字から、作者の思いや作者の曲づくりに至るプロセスを理解することは並大抵のことではない。
しかし、プロであろうとアマであろうと関係なく、演奏者が作者の思いやプロセスを理解し、完全に同化するためには強いモチベーションと忍耐強い努力を要する。
この強いモチベーションはマンドリン音楽が本当に好きでないと生まれてこないし持続できない。
そして作者の思いやプロセスに同化するためには何よりも練習に対する「誠実さ」が要求される。
しかも演奏するのは一人ではない。数十人のメンバーが思いを一つにすることの困難さは、言葉で表現できるものでは無い。

演奏会で彼らから放射されるエネルギーを浴びて感じたのは、彼らのここまでに至るさまざまの目に見えない道のり、すなわち人知れず苦労したことや影の努力の大変さが聴き手に意識せずとも伝わるからではないか。
聴き手はまず表向きは音楽の内容に注意を向けるが、実はこの奏者たちの音楽に対する思いの強さや、ここまで来た道のりで乗り越えてきたものを潜在的に感じ取って、感動しているのだと思う。

中央大学マンドリン倶楽部の今日の演奏に対し、彼ら自身としての評価は知る由もないが、少なくとも私は、このような演奏をした自分自身に対し、素直に感動に浸って欲しいと願う。
冬の定期演奏会ではどんな曲、どんな演奏をしてくれるのであろう。楽しみだ。
やるからには聴き手に最高の演奏を聴いて欲しいという、ひたむきさを強く感じた一日であった。




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