緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

合唱曲「なんとなんとなんしょ」「再生」を聴く

2017-03-05 21:06:05 | 合唱
全日本合唱コンクール全国大会の過去の録音を聴いていたら、とてもいい演奏に出会った。
作詞:淵上毛錢、作曲:瑞慶覧尚子。女声合唱組曲「なんとなんとなんしょ」より、Ⅰ  なんとなんとなんしょ、Ⅱ 再生 、演奏は熊本県立第一高等学校である。

この曲は、演奏者である熊本県立第一高等学校の委嘱により作曲されたとこと。
作詞の 淵上毛錢(1915-1950)は熊本県水俣市の出身で、結核から脊椎カリエスを患い、寝たきりの状態で精力的に作詞活動を行ったが、35歳で早世した。
創作された作品の殆どは、寝たきりの病床で書かれたという。
素朴であるが味わい深いものを感じる。

熊本県立第一高等学校の演奏は、2006年度の全国大会での演奏であるが、素朴で、高校生らしい歌い方をする。
声質が柔らかく優しい。ハーモニーが美しく、ときに楽器のような音で聴こえてくることがある。
そして歌い方、声が自然であること。無理をしたり、理想の歌声に合わせようとしていない。
自然な歌い方だから、歌い手が日常で感じている気持ちや、歌い手の日々の生活の過ごし方などが反映され、それを感じることができる。
要は濁りがないのである。野心的なものにも支配されていない。
結局、歌を歌う以前に、まずは歌い手たちの日常の気持ちの在り方が先である。
そして演奏を聴いて、普段の日常の歌い手の気持ちが無意識に聴き手に伝わってくるのを感じるのが好きなのである。

今まで何度も書いてきたが、「高い技巧に支えられた自然さ」というものが最も大切だと思う。
高い技巧に支えられても、演奏者の自然さを殺した演奏は聴くに堪えない
技巧が多少劣っていても「自然さ」をそのまま生かした演奏のほうが、はるかに聴き応えがある。
指導者の人間性と音楽に対する考え方に大きく左右される。指導者の役割は絶大である。
うわべだけの表現や技巧、音の美しさ、統一性ではなく、歌い手の根本的に備えている感情、それも曲と同化した感情をいかに引き出せるか。指導者の力量次第であり、歌い手の素質にも依存する。

淵上毛錢は正岡子規と同じような運命を辿っている。
「再生」という詩で、野菊の咲く野原で、太陽の陽を浴びながら、このまま埋まってしまい、来年の
野菊に再生したい、と言っている。
常に死と対峙しながらそれを受け入れ、精一杯生きる力を感じる詩、曲、演奏である。




※小さい字が見えにくくなってきたので、フォントサイズを大きくしました。
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