緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

ベートーヴェン作曲 ピアノ・ソナタ第9番・10番を聴く

2013-06-29 22:50:30 | ピアノ
こんにちは。
今日は梅雨も一休みなのか、暑くもなく乾いた気持ちのいい風の吹く1日でした。
ピアノの話題に戻ります。
今年に入ってからベートヴェンのピアノ・ソナタの鑑賞に力を入れていることは前に何度か述べましたが、今日紹介するのはピアノ・ソナタ第9番(Op.14の1)と第10番(Op.14の2)です。
ベートーヴェンのピアノ・ソナタは全部で32曲ありますが、この32曲の中で月光や熱情などの数曲は多くの人に親しまれていますが、中には印象の薄い、人によっては退屈に感じる曲もあります。
多くの作品を残した偉大な作曲家ベートーヴェンでも、あまり聴かれない曲は当然あると思います。
今日紹介する曲もそのような曲の中の一つですが、しかし、印象の薄いと感じられた曲も演奏家次第で聴き応えのある曲となることもあります。
この9番と10番のソナタを初めて聴いたのがアルトゥール・シュナーベルだったのですが、彼の低音の魅力を感じながらもなんとなく退屈な曲として通り過ぎてしまいました。
しかしその後スヴヤトスラフ・リヒテル(1915-1997)の演奏を聴いてから、これらの曲を何度も繰り返し聴くようになりました。
(1963年6月 フィルハーモニック・ホールでのライブ録音)



曲そのそのものは全体的に古典形式による要素の強い曲であり、私の好みにはどちかというと合わないのですが、この曲自体に魅力を感じたというよりも、リヒテルの演奏や音に強く魅力を感じたというのが正直なところです。
横道にそれますが、クラシック・ギターでもホアン・マネンという人がアンドレス・セゴビアのために作曲した幻想ソナタという曲がありますが、恐らくセゴビア以外に弾く人はいないだろうというくらいの退屈な曲ですが、セゴビアはこの曲を多彩な音の表現で、渾身の演奏を聴かせてくれます。よくこの曲をここまで弾けるなと。

前回紹介したベートーヴェンのソナタ31番もこの第9番、第10番でもそうなのですが、リヒテルの最大の魅力は音楽が自然であることです。意識的な誇張や技巧の強調は見られません。
リヒテルの演奏は人間的な(こういうのはヒューマンというのかな)自然の感情の流れが感じられます。だから聴いていて好きになる。
弱音部と強音部の対比が素晴らしく、その弱音も強音も実に美しい。
下の楽譜は弱音の美しさと強音の激しさとの対比が見事な第10番第1楽章アレグロ。



リヒテルの弱音はとても美しいが、単なる表層的な美しさとは違い再度聴きたくなる魅力があります。
驚くのはどんなに強い音でも決して不快にならないどころか、逆に惹きこまれてしまうこと。高名なピアニストでも強音が不快に聴こえることがあります。例えばポリーニとか、ヨーゼフ・ホフマンなど。
この強音を出すということは音楽の演奏において最も難しいのではないか。
下の楽譜はリヒテルの強音の魅力を楽しめる第9番第3楽章ロンド。



強い音は頭で意識したり計算したりして出すと聴き手には何か違和感を感じるのかもしれません。リヒテルの強音がどんなに強くても何故魅力を感じるのか、未だ謎なのですが、思うに音楽の自然な流れに沿った、人の感情の流れに従った、つきつめれば作曲者のこの曲を作曲したときに感じていたものを再現しているからなのではないかと思います。
リヒテルの演奏は恐らくそこまで到達していると思います(多分絶対)。
ギター曲でも合唱曲でも、野心的なもの、頭で計算したもの、聴き手に表面的に受けるような美音は心にどうしても残らない。
合唱曲でも中学生が中学生離れした美しい声を出しているのを聴くことがありますが、私は何故かあまり魅力を感じません。
中学生なら中学生、高校生なら高校生の自然な魅力があるわけであり、その演奏者の元から持っている自然な魅力が引き出された演奏が好きです。
その自然な魅力が作曲者が音楽で表現した気持ちと同化した演奏に最大の魅力を感じます。


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