明日から9連休なのだ。
お盆の時期に休まないでためていた計画年休をここに来て使うことにした。
(昨年も同様だった)
どう過ごすか。もう決めてある。
最初の2日間:マンドリン合奏猛練習
中4日間:小旅行(あまりおおっぴらにはできないが)
最後の3日間:マンドリン合奏猛練習
中4日間は鉄道を乗りながら仕事も何もかも忘れてボーっとゆっくりと過ごすつもりだ。
(ルートは山陰⇒山陽⇒関西)
今日久しぶりに新聞の読者投稿の中から印象に残ったものについての所感を書いてみようという気になった。
以下最近読んだ投稿で考えさせれた投稿3件をあげさせていただく。
1.SNSでの批判目的の批判について
女子大学生が書いたこの投稿を読んで、全く同感だなと思った。
SNSで書き込まれる、過ちを犯した人物への批判が目立つようになった。最近は批判それ自体が目的となってしまっている批判を多く目にすると指摘している。
「謝罪しているのにその後も必要以上に糾弾を続けたら、そこには目的がない。社会的に悪者と認められた存在を安全圏からたたくのは、正義感に浸ってストレスを発散しているようにしか見えない」
実はSNSだけでなく、新聞の読者投稿欄にもこの種の投稿は毎日のように見られる。
批判の対象は首相個人や政府(自民党)であるが、文面から非常に強い怒りや憎しみが伝わってくる。
正義正論を手段として批判しているので、一見正しい主張のように見えるが、その真の動機はその人に恒常的に起きている、癒し難い不快感情、すなわち憎しみや怒り、不満といったマイナス感情の一時的解消である。
このような行為を「正義中毒」というらしいが、これも最も安全で吐き出し甲斐のある人物(首相など)をターゲットとした「批判目的の批判」の一形態と見るべきであろう。
この女子学生は投稿で「画面に向かって行き過ぎた正義を振りかざす行為が大人として適切なものか考え直す必要がある」と結んでいるが、この「大人として適切なものか考え直す」必要があるかどうかについても自覚できないのが、批判する人の特徴でもある。
つまり自分の心の奥底に堆積されてことあるごとに意識に上がってくる抑圧された不快感情の元になっている原因に向き合おうとしていない人たちでもある。
外見は大人として振舞っているが、内面は大人になりきっていない未熟な段階にあると自覚できていない。
そして自覚できないまま年を重ね、おさまらない恒常的な不快感情を持て余すようになってしまい、その感情の発散を、自分が傷つかない手段で行っているというのが現実と思われる。
こういう「批判目的の批判」を行う人物とは極力、距離を置くべきだ。
絡まれるとメンタルを必ずやられる。
自分が強い怒りや憎しみを、その感情とは無関係の人間に向けていることに気付かず、批判をしていることに疑いも持っていないがために、徹底して気の済むまで攻撃されるのである。それも自分のやっていることの真実に気が付くまで永遠に。
マイナス感情の解消を目的とした批判以外に、ある特定の人物を執拗に批判する目的として、批判を向ける対象者と批判する人物とが同一の人間的性質を有している場合ががある。
わかりやすく言うと、批判する人が例えばいい加減で怠けることを許せなく、自分にも厳しく律しているような場合、他人にそのような性質を認めたとき、その他人を激しく責めたくなるという心理が働くということだ。
完璧主義者、努力家などに多くみられるが、人間である以上宿命的に有している不完全さ、怠ける、ずるい、不誠実、卑怯、といった人間の特質を許すことができずに、徹底してそのような性質を憎み、排除しようとしたことで、潜在意識に追いやられたその認めがたい自分の性質を他人に見出すと、無性に怒りが湧いてきて責めたくなるということである。
その性質を自分が徹底して憎み排除した人間が、他人が見せるその性質を許せるわけがないのである。
このような正義中毒や批判中毒から脱するためには、自分のやっていることの真の動機は一体、何なんだろうということにまずは気が付くことだ。
絶えず人を批判していないではいられないこの自分の心理状態は変なんではないか、とまずは疑うことだと思う。
そして次のステップに進むと、その不快感情に向き合う作業となるが、これは程度の差はあるが、その不快感情の発生源である元に辿り着き、その発生原因を身を持って理解し、本質的解消に向けて自分と向き合っていくためには、相当の年月を要するであろう。
2.自分の頭で考える教育の必要性
次の記事は熟経営者からの投稿で、文部科学省の1人1代端末環境のプロモーション動画を見て、動画の小学生が「タブレットがないと自分で全部頭で考えないといけないが、これがあると問題を間違っても解説があるからどんどん進んでいける」と言っているのを見て、疑問に感じたというもの。
「最も大事にしているのは、いかに自分の頭で考えさせるということだ。間違ってもいいから自分で考えさせ、ときに試行錯誤を重ねさせる。つまずかないように手取り足取り教えるよりも、自分で苦労して習得した方が、時間はかかっても確実に身になるのだ」と言っている。
これはまさにそのとおりだと思う。
私の経験からしても、答えを与えず、何日も考えたり、試行錯誤を重ねたりしてやっと解決策に辿り着いた方が、達成感や探求することの喜びが感じられるし、そこで得られた答えは容易に忘れることなく記憶に残り続けるし、その体験で得た忍耐力や探求心といったものは次の問題に対しても助けとなってくれるものである。
とくに社会に出て仕事であたらしいものを作り上げていくような場合、答えや解決策を提示してくれる人や機会を得ることはなかなか無い。
とにかく粘り強く、逃げないで取り組んでいかないと前に進んでいかないので、ときにしんどいと感じることもあるが、その取り組みが成功に終っても失敗に終っても、そのプロセスで自らが悩み考え抜いた体験は無駄にはならず必ず次に生きてくるものだ。
ギターなどの音楽への取り組みも、基本は独学のほうが時間はかかっても蓄積されるものは多いと感じる。
よく教室の発表会での生徒さんの演奏を聴くと、どの生徒も先生のコピーになっているのを感じたことがある。
教師が全てだと思わない方がいい。
自分で疑問に思ったことや興味が湧いたことは、自分で足を運んで調べたり、いろんな人に訊いたり、現地に行ってみるなどした方が絶対面白いに決まっている。
3.「がんばって」という励ましの言葉の効用について
女子高校生の投稿。
スポーツや受験で「がんばれ」と言われれば嬉しく感じるけど、たくさん努力しても疲弊してきっているときや傷ついているときの「がんばれ」はとてもつらく感じる。
私たちはいつまでがんばらなければいけないのでしょうか。つらそうな人に、優しい言葉で接することのできる社会になれればいいなと思う、という問題提起の投稿。
何気なく使われる「頑張って下さい」という言い方。
この言葉は安易に軽く使わない方がいいと考える。
この言葉を使うのは、相手は前向きな気持ち、自分の内面からの自発的な気持ちで行動し、しかもその気持ちが人の励ましによりさらに増幅されると期待される場合のみに限ったほうがいい。
この女子高校生が指摘するように、疲弊してきっているときや傷ついているときにこの言葉を使うと、言われた相手は逆につらくなるものだ。
何故辛くなるのかというと、疲弊している人は、自分の内面の自発的な感情に従って努力しているのではなく、人から責められるという恐怖から回避するという動機で自己否定することにより努力しているからだ。
恐怖を動機として自己否定し、責められない人間になろうと自分にムチを打っている人は遅かれ早かれ鬱病となり、最悪自殺する。
だから鬱病者に「がんばれ」は厳禁なのである。
鬱病者にがんばれと励ますことは、「もっと一生懸命自己否定しなさい」と言っていることに等しいのである。
ではこの女子高校生が最後に問題提起した「つらそうな人に、優しい言葉で接することのできる社会にする」ためにどんなことをしたらよいのだろうか。
私は、つらそうな人に、「もうこれ以上がんばらなくていいんだ。あなたは特別なことは何もしなくてもそのままで素晴らしい存在なんだ」と言ってあげたい。
人間はDNA的にはどんな人間も等しく素晴らしい存在で、人それぞれ特質の種類が違うだけなのだ。
それを画一的価値観で人を評価しようとするから、自分の特質を無視し、自ら否定し、全く別の人間になろうとするような悲劇が生れる。
そして自己否定に自己否定を重ねてボロボロになってしまっても、生きることを選択し決意した人に対しては、「よくここまで頑張ってきましたね」と言ってあげたい。
私は昔、ある人から「あなたはよくここまで頑張ってきましたね。これは並大抵のことではないんです。普通の人には出来ないことなんです」と言われて、心の奥から強い感情がとめどもなくこみ上げてきたことがあった。
そのように言ってくれた方も同様の体験をしたからこそ、出た言葉だったのではないかと思う。
お盆の時期に休まないでためていた計画年休をここに来て使うことにした。
(昨年も同様だった)
どう過ごすか。もう決めてある。
最初の2日間:マンドリン合奏猛練習
中4日間:小旅行(あまりおおっぴらにはできないが)
最後の3日間:マンドリン合奏猛練習
中4日間は鉄道を乗りながら仕事も何もかも忘れてボーっとゆっくりと過ごすつもりだ。
(ルートは山陰⇒山陽⇒関西)
今日久しぶりに新聞の読者投稿の中から印象に残ったものについての所感を書いてみようという気になった。
以下最近読んだ投稿で考えさせれた投稿3件をあげさせていただく。
1.SNSでの批判目的の批判について
女子大学生が書いたこの投稿を読んで、全く同感だなと思った。
SNSで書き込まれる、過ちを犯した人物への批判が目立つようになった。最近は批判それ自体が目的となってしまっている批判を多く目にすると指摘している。
「謝罪しているのにその後も必要以上に糾弾を続けたら、そこには目的がない。社会的に悪者と認められた存在を安全圏からたたくのは、正義感に浸ってストレスを発散しているようにしか見えない」
実はSNSだけでなく、新聞の読者投稿欄にもこの種の投稿は毎日のように見られる。
批判の対象は首相個人や政府(自民党)であるが、文面から非常に強い怒りや憎しみが伝わってくる。
正義正論を手段として批判しているので、一見正しい主張のように見えるが、その真の動機はその人に恒常的に起きている、癒し難い不快感情、すなわち憎しみや怒り、不満といったマイナス感情の一時的解消である。
このような行為を「正義中毒」というらしいが、これも最も安全で吐き出し甲斐のある人物(首相など)をターゲットとした「批判目的の批判」の一形態と見るべきであろう。
この女子学生は投稿で「画面に向かって行き過ぎた正義を振りかざす行為が大人として適切なものか考え直す必要がある」と結んでいるが、この「大人として適切なものか考え直す」必要があるかどうかについても自覚できないのが、批判する人の特徴でもある。
つまり自分の心の奥底に堆積されてことあるごとに意識に上がってくる抑圧された不快感情の元になっている原因に向き合おうとしていない人たちでもある。
外見は大人として振舞っているが、内面は大人になりきっていない未熟な段階にあると自覚できていない。
そして自覚できないまま年を重ね、おさまらない恒常的な不快感情を持て余すようになってしまい、その感情の発散を、自分が傷つかない手段で行っているというのが現実と思われる。
こういう「批判目的の批判」を行う人物とは極力、距離を置くべきだ。
絡まれるとメンタルを必ずやられる。
自分が強い怒りや憎しみを、その感情とは無関係の人間に向けていることに気付かず、批判をしていることに疑いも持っていないがために、徹底して気の済むまで攻撃されるのである。それも自分のやっていることの真実に気が付くまで永遠に。
マイナス感情の解消を目的とした批判以外に、ある特定の人物を執拗に批判する目的として、批判を向ける対象者と批判する人物とが同一の人間的性質を有している場合ががある。
わかりやすく言うと、批判する人が例えばいい加減で怠けることを許せなく、自分にも厳しく律しているような場合、他人にそのような性質を認めたとき、その他人を激しく責めたくなるという心理が働くということだ。
完璧主義者、努力家などに多くみられるが、人間である以上宿命的に有している不完全さ、怠ける、ずるい、不誠実、卑怯、といった人間の特質を許すことができずに、徹底してそのような性質を憎み、排除しようとしたことで、潜在意識に追いやられたその認めがたい自分の性質を他人に見出すと、無性に怒りが湧いてきて責めたくなるということである。
その性質を自分が徹底して憎み排除した人間が、他人が見せるその性質を許せるわけがないのである。
このような正義中毒や批判中毒から脱するためには、自分のやっていることの真の動機は一体、何なんだろうということにまずは気が付くことだ。
絶えず人を批判していないではいられないこの自分の心理状態は変なんではないか、とまずは疑うことだと思う。
そして次のステップに進むと、その不快感情に向き合う作業となるが、これは程度の差はあるが、その不快感情の発生源である元に辿り着き、その発生原因を身を持って理解し、本質的解消に向けて自分と向き合っていくためには、相当の年月を要するであろう。
2.自分の頭で考える教育の必要性
次の記事は熟経営者からの投稿で、文部科学省の1人1代端末環境のプロモーション動画を見て、動画の小学生が「タブレットがないと自分で全部頭で考えないといけないが、これがあると問題を間違っても解説があるからどんどん進んでいける」と言っているのを見て、疑問に感じたというもの。
「最も大事にしているのは、いかに自分の頭で考えさせるということだ。間違ってもいいから自分で考えさせ、ときに試行錯誤を重ねさせる。つまずかないように手取り足取り教えるよりも、自分で苦労して習得した方が、時間はかかっても確実に身になるのだ」と言っている。
これはまさにそのとおりだと思う。
私の経験からしても、答えを与えず、何日も考えたり、試行錯誤を重ねたりしてやっと解決策に辿り着いた方が、達成感や探求することの喜びが感じられるし、そこで得られた答えは容易に忘れることなく記憶に残り続けるし、その体験で得た忍耐力や探求心といったものは次の問題に対しても助けとなってくれるものである。
とくに社会に出て仕事であたらしいものを作り上げていくような場合、答えや解決策を提示してくれる人や機会を得ることはなかなか無い。
とにかく粘り強く、逃げないで取り組んでいかないと前に進んでいかないので、ときにしんどいと感じることもあるが、その取り組みが成功に終っても失敗に終っても、そのプロセスで自らが悩み考え抜いた体験は無駄にはならず必ず次に生きてくるものだ。
ギターなどの音楽への取り組みも、基本は独学のほうが時間はかかっても蓄積されるものは多いと感じる。
よく教室の発表会での生徒さんの演奏を聴くと、どの生徒も先生のコピーになっているのを感じたことがある。
教師が全てだと思わない方がいい。
自分で疑問に思ったことや興味が湧いたことは、自分で足を運んで調べたり、いろんな人に訊いたり、現地に行ってみるなどした方が絶対面白いに決まっている。
3.「がんばって」という励ましの言葉の効用について
女子高校生の投稿。
スポーツや受験で「がんばれ」と言われれば嬉しく感じるけど、たくさん努力しても疲弊してきっているときや傷ついているときの「がんばれ」はとてもつらく感じる。
私たちはいつまでがんばらなければいけないのでしょうか。つらそうな人に、優しい言葉で接することのできる社会になれればいいなと思う、という問題提起の投稿。
何気なく使われる「頑張って下さい」という言い方。
この言葉は安易に軽く使わない方がいいと考える。
この言葉を使うのは、相手は前向きな気持ち、自分の内面からの自発的な気持ちで行動し、しかもその気持ちが人の励ましによりさらに増幅されると期待される場合のみに限ったほうがいい。
この女子高校生が指摘するように、疲弊してきっているときや傷ついているときにこの言葉を使うと、言われた相手は逆につらくなるものだ。
何故辛くなるのかというと、疲弊している人は、自分の内面の自発的な感情に従って努力しているのではなく、人から責められるという恐怖から回避するという動機で自己否定することにより努力しているからだ。
恐怖を動機として自己否定し、責められない人間になろうと自分にムチを打っている人は遅かれ早かれ鬱病となり、最悪自殺する。
だから鬱病者に「がんばれ」は厳禁なのである。
鬱病者にがんばれと励ますことは、「もっと一生懸命自己否定しなさい」と言っていることに等しいのである。
ではこの女子高校生が最後に問題提起した「つらそうな人に、優しい言葉で接することのできる社会にする」ためにどんなことをしたらよいのだろうか。
私は、つらそうな人に、「もうこれ以上がんばらなくていいんだ。あなたは特別なことは何もしなくてもそのままで素晴らしい存在なんだ」と言ってあげたい。
人間はDNA的にはどんな人間も等しく素晴らしい存在で、人それぞれ特質の種類が違うだけなのだ。
それを画一的価値観で人を評価しようとするから、自分の特質を無視し、自ら否定し、全く別の人間になろうとするような悲劇が生れる。
そして自己否定に自己否定を重ねてボロボロになってしまっても、生きることを選択し決意した人に対しては、「よくここまで頑張ってきましたね」と言ってあげたい。
私は昔、ある人から「あなたはよくここまで頑張ってきましたね。これは並大抵のことではないんです。普通の人には出来ないことなんです」と言われて、心の奥から強い感情がとめどもなくこみ上げてきたことがあった。
そのように言ってくれた方も同様の体験をしたからこそ、出た言葉だったのではないかと思う。
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