最近読んだ新聞記事で感じたことを書いてみようと思った。
まず、1月10日付けの読者投稿覧に80代の男性2人の投稿が目を惹いた。
一人は、昨年末にこのブログで記事にしたが、相変わらず続く「桜を見る会」の疑惑に関して、安倍総理個人を貶めるようなものの言い方をした内容だ。
こういう投稿がすごくたくさん目につくが、驚くほど同じパターンである。
まず投稿者が殆ど高齢者で、自分は人生の先輩なのだから、一国の首相に対してまでも何を言っても許されるとういう傲慢さを感じることである。
「~であってはならない」とか、「~であるべきだ」とか、「言語道断だ」など、自分が裁きを出す位置に置きながら厳しく責め立てる権利があって当然だ、という意識とともに、何か皮肉のようなたとえ話を持ち出して、相手を見下し馬鹿にしたようなものの言い方をする。
これって絶対良くない。
疑惑について徹底解明を求めることは当然の権利だし、そのこと自体は全く問題ない。
しかし、このパターンの投稿は別の意図を感じる。そこが問題だと私は感じる。
年末の記事にも書いたが、こういう方は日頃の、自らが解決出来ない不満や怒りなどを、最も安全で解放しがいのあるターゲットに向けて、その真意を、正論、正義といったものを隠れ蓑にして放出しているのではないかと思うのである。
あとは一国の首相にもの申しているという優越感であろう。
疑惑の解明のために具体的にどうして欲しいか、ということがほとんど書かれていない。
投稿した本人は全く気が付いていないだろうが、ここまでくると個人に対する誹謗・中傷のレベルだ。
1960年代の安保闘争、過激派によるテロ、各種反対集会やデモなどの中には、正義を振りかざして、目的とは無関係の、自分の未熟さからくる怒りを正当化しようとするものがある。
こういうものの真意を見極めて客観的に評価していかないと、巻き込まれて人生を台無しにしてしまうこともある。
ヤクザのように、悪いということが客観的に分かるようなストーレートな表現で言う方がまだよっぽどいい。
表への出方は正反対であるが、本質的には両者は全く同じであろう。
一方、もう一人の方の投稿である。
本人の同意が無いので、もし万が一指摘があればすぐに削除するが、下記に抜粋させてもらう。
「地位や名声、カネを求め、合理的に生きるだけが人生か。定年後はかように他人を批判しながら生きてきた。人に施すことに生きがいを感じ、上から目線で生きてきた。そしてそれができなくなると生きる意味を見失うなど愚の骨頂ではないか」
多くの病気を患い、けもののようにうなり、泣きわめく。
だが、これでも生きる意味があるのではないかと言っている。生きているだけでも金メダル。おかげ様でありがとう。この世に「いのちある」だけで素晴らしいとおっしゃっている。
今まで長い間読んできた数多くの投稿の中でも、これほど素晴らしいと感じたものは殆ど無い。
飾らず正直に現在の自分の心境を綴っている。
高齢者でありながら、自分の失敗も、未熟さも、不幸も、全てあるがままに認め、受け入れている。
人間存在が本質的に完全であり得ないことを悟っている。
そして人の人生も、必ずしも幸福になれないことがあるという運命を承知している。
どんな運命であろうと、生きていることにありがたみを感じる。
私もこういう心境になって生を全うしたいな。
まず、1月10日付けの読者投稿覧に80代の男性2人の投稿が目を惹いた。
一人は、昨年末にこのブログで記事にしたが、相変わらず続く「桜を見る会」の疑惑に関して、安倍総理個人を貶めるようなものの言い方をした内容だ。
こういう投稿がすごくたくさん目につくが、驚くほど同じパターンである。
まず投稿者が殆ど高齢者で、自分は人生の先輩なのだから、一国の首相に対してまでも何を言っても許されるとういう傲慢さを感じることである。
「~であってはならない」とか、「~であるべきだ」とか、「言語道断だ」など、自分が裁きを出す位置に置きながら厳しく責め立てる権利があって当然だ、という意識とともに、何か皮肉のようなたとえ話を持ち出して、相手を見下し馬鹿にしたようなものの言い方をする。
これって絶対良くない。
疑惑について徹底解明を求めることは当然の権利だし、そのこと自体は全く問題ない。
しかし、このパターンの投稿は別の意図を感じる。そこが問題だと私は感じる。
年末の記事にも書いたが、こういう方は日頃の、自らが解決出来ない不満や怒りなどを、最も安全で解放しがいのあるターゲットに向けて、その真意を、正論、正義といったものを隠れ蓑にして放出しているのではないかと思うのである。
あとは一国の首相にもの申しているという優越感であろう。
疑惑の解明のために具体的にどうして欲しいか、ということがほとんど書かれていない。
投稿した本人は全く気が付いていないだろうが、ここまでくると個人に対する誹謗・中傷のレベルだ。
1960年代の安保闘争、過激派によるテロ、各種反対集会やデモなどの中には、正義を振りかざして、目的とは無関係の、自分の未熟さからくる怒りを正当化しようとするものがある。
こういうものの真意を見極めて客観的に評価していかないと、巻き込まれて人生を台無しにしてしまうこともある。
ヤクザのように、悪いということが客観的に分かるようなストーレートな表現で言う方がまだよっぽどいい。
表への出方は正反対であるが、本質的には両者は全く同じであろう。
一方、もう一人の方の投稿である。
本人の同意が無いので、もし万が一指摘があればすぐに削除するが、下記に抜粋させてもらう。
「地位や名声、カネを求め、合理的に生きるだけが人生か。定年後はかように他人を批判しながら生きてきた。人に施すことに生きがいを感じ、上から目線で生きてきた。そしてそれができなくなると生きる意味を見失うなど愚の骨頂ではないか」
多くの病気を患い、けもののようにうなり、泣きわめく。
だが、これでも生きる意味があるのではないかと言っている。生きているだけでも金メダル。おかげ様でありがとう。この世に「いのちある」だけで素晴らしいとおっしゃっている。
今まで長い間読んできた数多くの投稿の中でも、これほど素晴らしいと感じたものは殆ど無い。
飾らず正直に現在の自分の心境を綴っている。
高齢者でありながら、自分の失敗も、未熟さも、不幸も、全てあるがままに認め、受け入れている。
人間存在が本質的に完全であり得ないことを悟っている。
そして人の人生も、必ずしも幸福になれないことがあるという運命を承知している。
どんな運命であろうと、生きていることにありがたみを感じる。
私もこういう心境になって生を全うしたいな。