緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

新聞を読んで思う事(9)

2020-01-12 20:38:38 | 時事
最近読んだ新聞記事で感じたことを書いてみようと思った。
まず、1月10日付けの読者投稿覧に80代の男性2人の投稿が目を惹いた。
一人は、昨年末にこのブログで記事にしたが、相変わらず続く「桜を見る会」の疑惑に関して、安倍総理個人を貶めるようなものの言い方をした内容だ。
こういう投稿がすごくたくさん目につくが、驚くほど同じパターンである。
まず投稿者が殆ど高齢者で、自分は人生の先輩なのだから、一国の首相に対してまでも何を言っても許されるとういう傲慢さを感じることである。
「~であってはならない」とか、「~であるべきだ」とか、「言語道断だ」など、自分が裁きを出す位置に置きながら厳しく責め立てる権利があって当然だ、という意識とともに、何か皮肉のようなたとえ話を持ち出して、相手を見下し馬鹿にしたようなものの言い方をする。
これって絶対良くない。
疑惑について徹底解明を求めることは当然の権利だし、そのこと自体は全く問題ない。
しかし、このパターンの投稿は別の意図を感じる。そこが問題だと私は感じる。
年末の記事にも書いたが、こういう方は日頃の、自らが解決出来ない不満や怒りなどを、最も安全で解放しがいのあるターゲットに向けて、その真意を、正論、正義といったものを隠れ蓑にして放出しているのではないかと思うのである。
あとは一国の首相にもの申しているという優越感であろう。
疑惑の解明のために具体的にどうして欲しいか、ということがほとんど書かれていない。
投稿した本人は全く気が付いていないだろうが、ここまでくると個人に対する誹謗・中傷のレベルだ。
1960年代の安保闘争、過激派によるテロ、各種反対集会やデモなどの中には、正義を振りかざして、目的とは無関係の、自分の未熟さからくる怒りを正当化しようとするものがある。
こういうものの真意を見極めて客観的に評価していかないと、巻き込まれて人生を台無しにしてしまうこともある。
ヤクザのように、悪いということが客観的に分かるようなストーレートな表現で言う方がまだよっぽどいい。
表への出方は正反対であるが、本質的には両者は全く同じであろう。

一方、もう一人の方の投稿である。
本人の同意が無いので、もし万が一指摘があればすぐに削除するが、下記に抜粋させてもらう。
「地位や名声、カネを求め、合理的に生きるだけが人生か。定年後はかように他人を批判しながら生きてきた。人に施すことに生きがいを感じ、上から目線で生きてきた。そしてそれができなくなると生きる意味を見失うなど愚の骨頂ではないか」
多くの病気を患い、けもののようにうなり、泣きわめく。
だが、これでも生きる意味があるのではないかと言っている。生きているだけでも金メダル。おかげ様でありがとう。この世に「いのちある」だけで素晴らしいとおっしゃっている。
今まで長い間読んできた数多くの投稿の中でも、これほど素晴らしいと感じたものは殆ど無い。
飾らず正直に現在の自分の心境を綴っている。

高齢者でありながら、自分の失敗も、未熟さも、不幸も、全てあるがままに認め、受け入れている。
人間存在が本質的に完全であり得ないことを悟っている。
そして人の人生も、必ずしも幸福になれないことがあるという運命を承知している。
どんな運命であろうと、生きていることにありがたみを感じる。
私もこういう心境になって生を全うしたいな。
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IR建設反対!

2019-12-01 23:07:15 | 時事
29日の夕刊に、IR(カジノを含む統合型リゾート)の候補地となっていた北海道苫小牧市での建設が当面見送られることになったとの記事が掲載されていた。



理由は「希少な動植物が生息する可能性が高く、限られた期間で環境への配慮を行うことは不可能だと判断した」とのことらしい。しかし、「来るべき時には挑戦できるよう準備を進める」とも言っている。

今北海道は、新幹線建設や日本ハムのドーム建設など不必要な大型施設を、原始林まで破壊しながら建設しようとしている。
北海道内に何故新幹線が必要なのだ。
4時間も5時間もずっと座りっぱなしで乗ろうとする人はそう多くはないだろう。
LCCを含め飛行機の便がたくさんあるのに無駄なことだ。

野球のドームだって、札幌市内にあるのに、なぜ野幌原始林と呼ばれる札幌近郊の美しい自然を破壊してまでも作ろうとするのか。
今、ニセコが大変なことになっているらしい。
海外からのスキー客の増大で、高層のリゾートホテルや別荘などが乱立しているという。
それらの土地は海外資本から買い占められているようだ。

すぐ近くに大型商業施設があるのに、また同じような大型商業施設を作る。
何のために?
そんなにお金を儲けたいのか。
そんなに成功者だと言われたいのか。

こういうことをする人は、自然に全く関心が無い。
自然のもたらすものに触れたことが無い。
そもそも森林や草原があったとしたら、そういう場所は全く価値がないと認識する。
何故ならばお金を生まないから。
だからそういう場所を破壊して、お金を生むものに平気で変えてしまう。

子供の時に少しでも、自然に触れてそのありがたみを感じた経験があるならば、このようなことは決してしない。
お金儲けしか考えていない人が作った施設を、庶民が利用するようになって、だんだんと自然と共にあった生活が遠ざかっていき、庶民の心が貧しくなっていく。
芸術や文学などが、昔に比べつまらなくなった、真に感動できるものが少なくなったと感じることが、このことと無関係ではないと思う。

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新聞を読んで思うこと(8)

2019-08-25 20:33:14 | 時事
久しぶりに時事について書きたくなった。
5年くらい前から写真のようなスクラップ帖に新聞の切り抜きを貼っている。





切り抜きを貼ったはいいが、読み返すことは殆どない(では何のためにスクラップしてるの?)。

最近増えてきた記事は、いじめとか引きこもりだ。
この2つは因果関係がある。
いじめというものはいつの時代にも、どこに行ってもあるものだ。
人間であるがゆえの宿命だと言える。
しかし、いじめは昔は今に比べて多くは無かった。
私の経験からいうと、私が小学校~高等学校時代には、いやがらせが2、3あったものの、いじめと言えるものは無かった。
幸運だったと言える。
今私が中学生だとしたら、生きていけないかもしれない。
そのくらい今の子供社会はやっていくのが難しくなってきている。


いやがらせで記憶に残っているのは、高校時代。
ものすごく嫌な学校だったのだが、私は嫌な学校生活から逃避するために勉強ばかりしていた。
夜中の3時、4時まで勉強することが日常であった。
そのせいか、当時私は貧血気味で青い顔をしていた。
高校3年生のときだったと思う。
体育の授業で、中距離マラソンがあり、普段勉強ばかりして寝不足だった私は、その体育の終了後教室に戻ったとき、貧血を起こし気分が悪くなってしまった。
そして机に頭を乗せて気分の悪さが収まるのを待っていた。
すると、嫌いだった野球部のヤツが私のその姿を見て「顔が真っ青だせ。こいつ吐くんでないか」と言ったのである。
正に今にも吐きそうだった私はそいつに対し何も言い返せなかった。
同じく高校3年生の時。
トイレでタバコを吸って見つかり停学となり、修学旅行に行けなくなった同じクラスのヤツが、体育の授業を欠席した際に、私が居ないのをいいことに、私の大事な革製の筆箱の隙間に東鳩のココナッツビスケットをつっこんだのである。
(あとでそいつが犯人であることが分かった)。

これがいじめと言えるかどうか分からないが、とにかく当時の私はこういうことをされても直接抗議できなかった。
また嫌な学校だったので、よく学校を休んだ。
3年生のとき担任の先生から親に電話があり、「あなたの息子は出席日数が足りないのでこのままでは卒業できません。あと1日も休まないようにして下さい。」と言われた。
(これは後で人づてで聞いた話であるが、先の「こいつ吐くんじゃないか」と言った野球部のヤツが、卒業後1年目の同窓会で(私は当然出席しなかった)、私に心無い言葉を浴びせたことを後悔している、悪かったと言ったということを聞いた。)

かろうじて大学に現役で入り、心機一転、高校時代に出来なかったことをしようとサークル活動やアルバイトに精を出すようになった。
マンドリンクラブに入ったのもその一つだ。
並行してある学内の別の団体の活動も行った。
しかしその団体で、私はその後の長い人生で苦しまなければならなくなった辛い体験をした。
詳細は避けるが、この体験をきっかけに私は精神的に転落の人生を歩むようになっていった。

運よく就職したが、学生時代よりも恐ろしい現実が待ち受けていた。
思い出したくないほどの出来事だったが、私は廃人のようになってしまい、仕事が殆ど出来なくなってしまった。
しかし今考えると驚くべきことなのであるが、私は会社を辞めたり休職しなかったのである。
というかそういう行動に出るエネルギーすら無かった。
死に最も近かった。

当然閑職に追いやられ、仕事の殆ど無い時期を数年間過ごすはめになった。
転機は工場に転勤したときだった。
工場に転勤してもすぐにはろくな仕事しか与えられなかった。
転勤して1年くらいだったであろうか。
年末の納会が終り、資材部の部長に「お世話になりました」と挨拶したら、「ん?。君には何もお世話なんかしていないよ」と言われた。
そしてその後、半年くらい経ったときだったであろうか。
生産管理部長から呼び出されて何を言われるかと思ったら、「〇〇君(私のこと)は努力が足りないね。田舎に帰って農家でもやった方がいいよ」と言われたのである。
もう私は限界を超えていた。
その頃私は、この会社に見切りをつけて転職しようと思っていた。
もうどうでもいいと思った。開き直った。
部長に言われた直後、私は席に戻るや否や、自分の机の引き出しを引き出すや否や、渾身の力をこめて、思いっきり大音量をたてて叩きつけたのである。
その部長の席から数メートルしか離れていない位置である。
その時は周りは騒然となり、別室の部署からも何事かと人が様子を見に来たぐらいだった。

会社を辞めようと思っていたくらいなので左遷も覚悟していた。不思議と冷静だった。
完全に捨て身だった。
その後どうなったか。
私は捨て身だったので、その後もどうでもいいと思っていた。
その後、驚くことにその生産管理部長が私に対する態度を変えたのだ。
どんな風に変えたのか。
それは私に嫌がらせをするのではなく、何と、いろいろ仕事を個人的に直接依頼するようになったのだ。
私の直属の課長を飛び越してである。
ある時、工場でプロジェクトチームが立ち上がったとき、その生産管理部長は私をメンバーに抜擢した。
その時私の直属の課長(すごくずるくて意地悪な嫌なヤツだったが)が、このチームのメンバーとしては〇〇君(私のこと)ではなくて△△君の方が適任だと思いますが、と私の目の前で部長に進言したのである。
しかしその生産管理部長は「いや、〇〇君でないとダメだ」と言って課長の進言を退けた。

この体験が私を変えた。
今まで嫌なことをされても何も出来なかった私が、明確に反撃できるようになっていった。
そして仕事も物凄くやりだした。
会社を殆ど休まなくなった。
これ以降、私は会社を殆ど休んでいない。
それだけでなく休日出勤も多々やった。
ちなみにその生産管理部長は取締役まで登りつめ退職した。

いじめる人間に対しては、捨て身で臨むときが必ずやってくる。
捨て身で臨んだ結果がどうなるかかは分からない。𠮷とでるか凶とでるか。
しかし捨て身で臨むということは、自分の人生にとって最後の手段に出たということだ。
そこには人がどう思うなどといったものから超越した、真の自分の気持ちしかない。

いじめる人間にも2種類ある。
表面的に悪いことを言うが、性根はまっとうなやつ。
他方は、根っから心が腐ったやつ。

いめじに対して、またいじめのはびこる学校に対して、逃げてもいい、なんて無責任なことを言ってはならない。
子供にとって学校は楽しい場所でなければならない。
その楽しい場所であるべきものが、恐ろしい場所になっているのは、いじめられる側の問題ではない。
いじめる生徒や先生を締め出し、再教育すべきなのだ。
いま学校教育界はそういうことをやっていない。
いじめられる側が何で学校から逃げなければならないのだ。
いったん逃げたら再起することは極めて困難だ。
その結果が現在の異常な数の引きこもりだ。
そんな恐ろしい学校なら、行かなくていい、と安易で無責任なことを言った結果だ。

学校から逃げて何が解決できるというのか。
罪悪感で心がぼろぼろになるだけだ。

いじめる人間を締め出すのが本質的な解決だ。もちろんいじめる側の再教育は必須だ。
そのうえでいじめられる人間にも、強くなれるすべを教えていくことが最も大切なことだと思う。
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新聞を読んで思うこと(7)

2017-10-09 21:54:56 | 時事
三連休の最終日は朝から仕事となった。
しかしNコンやスペインギターコンクールを聴きに行けたのは幸いだ。

秋に入ると何故か普段思っていることを書きたくなる。
やはり寒くなってくると調子が出てくる。
最近読んだ新聞記事で感じたことをいくつか書いてみたい。

1.日本はこれ以上経済成長しないほうがいい?

昨日の新聞の読者投稿欄で、「日本経済を成長させることは、これ以上必要なのか」と問題提起した中学生の記事が掲載されていた。
まずこの手の投稿欄に投稿する子供はたいてい大人に褒められようとする動機のものが殆どであるが、この記事はちょっと違うような気がした。同時に勇気ある方だと思った。
しかしちょっと辛口になるかもしれないが、意見を述べさせて欲しい。

この中学生の方は、「そもそも若者はこれ以上の好景気を望んでいない」、「豊かになった日本には成長はいらない、安定させた方が良案だ」、「経済成長よりも、子供の7人に1人が貧困という大問題を解決して欲しい」、「今の日本に必要なのは、安定と富の分配。もう成長の時代ではない」と言う。
正直言うと、若い人たちにこんな考えを持って欲しくない。
若い時の希望のある年代から、こんな気持ちになっていては絶対にいけない。
若い人たちをこのような心境にしてしまった我々大人たちにも責任がある。

まず日本の現在の豊かさが今後安定して続いていけるのか、ということだ。
日本の豊かさの頂点の時代は1980年代終わりから始めにかけてのバブルの時であるが、そこに至るまでには日本人の大変な努力があった。
日本が知らず知らずに、波に乗ってすいすいと繁栄したわけではない。
第二次世界大戦で負けた日本は、家族、親戚、親友、恋人、婚約者など多くの人、そして住むところを失い、廃墟となった。
生き残った人たちは死んだ人の分まで働き、日本を再生させようと死にもの狂いで頑張ってきたのである。
そして日本は高度経済成長期を経て、世界第2位の経済大国に躍り出た。
1970年代から80年代にかけて、今は死語となったが、日本のサラリーマンは「モーレツ社員」とか「企業戦士」とも言われた。
私は高度成長期の幕開けに生まれ、高度成長時代に子供時代を過ごしたが、この時代はものすごく活気にあふれていた。
この時代には、とてつもなくいい人、やさしい人がたくさんいた。
テレビドラマやアニメ、時代劇などでも不朽の名作と呼ばれる作品がたくさん作られたのもこの時代だ。
日本の技術はアメリカの模倣に始まったが、松下、東芝、ソニー、トヨタ、ホンダなどのメーカーはアメリカを追い越し、低コスト、高品質な製品で世界屈指のブランドを確立した。
日本はものづくり大国と言われ、1980年代半ばには「日本的経営」という学問分野が世界的に研究された。
このような高品質、低価格の日本製品は国内のみならず世界で爆発的に売れ、日本の貿易黒字は巨額なまでに膨らんだ。
その結果余った金を投資に回してさらに増やそうという動きが起こった。まずこの動きは始め「財テク」と呼ばれたが、後にバブル経済と呼ばれる異常な状況に入っていった。
バブルの時代に人々は余ったお金で余暇を満喫するために、各地にゴルフ場、スキー場、レジャーランドを建設した。
ちなみに現在この時代に建設された施設は廃墟と化している。Youtubeでも映像が見られる。
日本の分岐点はここだった。
この時代に政府が賢明な政策をとっていたら、冒頭の中学生が言うような7人に1人の子供が貧困、ということにはならなかったであろう。

では何故、現在、じわじわと貧困が生まれるようになったのか。
それはバブル崩壊後に、日本の人々が物に対し低価格を求めるようになったからだ。その結果、生産拠点を中国などの海外へ移したからだ。
バブル崩壊後に人々は、「いいものを、できるだけ低価格で」を価値観とするようになった。
そしてこの価値感は「価格破壊」を引き起こした。
高級品が信じらないような低価格で取引されるようになった。
それまでの「いいものは高くて当然。そのいいものを手に入れるために努力する」という価値観は無くなった。
日本経済が右肩上がりの時代は、確かに「いいものはそれなりの値段」がした。
いいもの、おいしいもの、高級なものは、値段が下がることは売れ残りのバーゲンセール以外にはありえず、それらのものを手に入れたいと思っても簡単にはいかなかった。手に入れるためにはそれ相応の努力をしなければならなかった。
しかしバブルの時代に贅沢を尽くした日本人は、努力せずともいいものを手に入れようとした。
だから供給側は人件費の安くて労働力の豊富な中国などに生産拠点を移したのである。
中国に生産拠点を移せば当然のこととして、日本の生産拠点は無くなり空洞化する。
その結果、あぶれた従業員はリストラされ、失業する。
私の勤務先も以前リストラがあった。
失業した従業員の受け皿となったのが、人材派遣業である。
1990年代にスタッフサービスという会社がやたら派手なコマーシャルを頻繁に放送していたのが思い出される。
期間限定でしかも低賃金で必要な時だけ企業に派遣するという雇用形態が出来上がった。
これがいわゆる格差社会と呼ばれるようになったきっかけである。
格差社会を作ったのは政府のせいだと、なんでも政府のせいにする人がいるが、格差社会を作ったのはわれわれ自分自身だ。
ここで日本企業は生産拠点を安易に中国にシフトしなければよかったのである。
中国に生産拠点が出来、日本企業の指導で生産が始まると、安い製品が大量に日本に入ってくるようになり、日本の中小企業が大量に倒産した。
私の勤務先の取引先もバブル崩壊後に消えていった会社がいくつもある。
そして倒産した企業のノウハウや技術が中国や韓国などに流出していった。
空洞化した日本の製造業において、ものづくりの技術力はじわりじわりと劣化するようになっていった。
当然であろう。生産拠点が無ければ技術力が育つはずがない。
最近とみに増えてきた日本のトップメーカーの不具合や組織ぐるみの不正がそれを物語っている。
自動車の巨額リコール、データ改ざん、組織的な無資格検査、不正会計、こんなことは以前の日本では全く考えられなかった。
その反面、日本などの先進国の技術指導、技術供与を受けた中国などの製品の品質が格段に向上し、もう日本に追いついてきている。日本を追い越すのは時間の問題であろう。いや既に追い越している製品もある。

つまり、日本は今後安定成長できる要素、保証など何も無いのである。
かなりの高い確率で今後の日本は悪くなっていくと思われる。
おまけに日本は金が無いどころか、1100兆円もの借金をかかえており、年々増加している。
国民一人当たり、赤ちゃんも含めて800万円以上の借金をしているのだ。
今後ますます高齢化社会が拡大し、税収が減っていくのに、どうやってこの借金を返済し、財政を健全化しようというのか。
安倍政権が、消費増税の財源の公約を破棄して、福祉や授業料無償化に充てると方針転換したが、これはもちろん現政権が加計問題などで存続が危うくなったから、それを回避するために言っているに過ぎない。

今の日本は、高度経済成長期に死にもの狂いで働き、日本を世界有数の大国にまでにした方々が築いた土台の上に乗っかって、そこの上でたいしたこともせず、先人が蓄えた有形、無形の貯蓄を食いつぶしているようなものだ。
その事実すら気付いていない。
国や人々が行き着くところまで豊かになると、「ここまで豊かになったんだから、そんなにあくせく働かなくてもいいじゃないか、勉強など頑張る必要などないじゃないか」という心境が生まれてくるのは否定できない。人間の本質と言っていい。
私が就職した頃は、大学の8割が北海道から出て、東京、大阪などに就職したが、バブルの頃からUターンとか地元就職が増えてきた。
何も、生まれ育った故郷を離れ、家族や今まで築き上げた友達や人間関係を離れて、知らない新天地に行くよりも、慣れ親しんだところにいた方がいい、というような保守的な若い人が増えた。
いつだったかのテレビ番組で、日本の大学生の海外留学の希望者は世界で非常に低いランクにあると言っていた。
バブルの頃から「ゆとり教育」が始まったが、これもつめこみ教育を是正し、大幅に教える量を減らし、ゆとりのある教育をしようとの目的だったと思うが、これも「日本はこんなに豊かな国になったのだから、そんなにがむしゃらに頑張らなくてもいいではないか。」という考え方が根底にあるのだろう。事実「ゆとり教育」は学力低下を招き、現在は消滅した。

国でも人でも、豊かさの頂点にいる時が最も危ない。
その時に行く先を誤ると取り返しのつかないことになる。
バブルに入る前に、日本は余ったお金を将来の技術開発、研究開発、教育に振り向けるべきだった。
先人たちが死にもの狂いで築き上げてきた富を食いつぶすようなことをしてはいけなかったし、そのことに気付かなければならなかった。
日本人の人件費が上昇してコストが上がって市場競争が厳しくなっても、この余った資金でもっと高付加価値の製品を開発し、他国が追従できないような技術を開発すべきであった。
そしてそのような技術を開発できる人材の教育にお金を投資すべきであった。

バブル崩壊後の日本の動きを見ていくと、現状の豊かさを維持することは先にも述べたように不可能に近い。
現状維持の考えでいると、ますます貧困が拡大していく。中国などの国々に出稼ぎに行くようになることもそう遠くはないであろう。
中国などの国は、もう日本の製品を超えるところまで来ている。
それが現実となったら、ソニー、松下、トヨタなどのブランドは、そういえば過去にそんな会社があったっけ、と言われるようになるであろう。
先人が築き上げた強固な土台が今、ガタガタと崩壊してきている。
その崩壊を食い止めるパワーは今の若者には無い。

こういう苦しい時代になっていくと、マルクス経済のような考え方が現れてくる。
すなわち、だれもが平等に富を分配されるべきだと、する考え方だ。
これは絶対に良くない。一見公平、公正のようだけど、無責任な価値観だ。弊害を度外視している。
努力する者は報われない。努力しても報われないどころか、自分よりも怠けている者に自分の稼ぎが流れていくのである。
だから次第に誰も努力しなくなる。次第に国力が低下し、貧困が拡大していく。
資源があれば別であろうが、日本にはそのようなもの無い。食料だって殆どが輸入に頼っているというのに。
人々は活気がなくなり、悲観的な考え方が蔓延するであろう。昔の東欧諸国がそうであったように。

だから今の日本は絶対に、後ろ向きな考え方になってはいけないのである。
とにかく借金で首が回らなくても、技術習得くらいは可能だ。
シルバー世代を活用して若い人に、技術を伝承する。これを草の根でやっていく。
今の若い人には品質に対する基本的見方、意識がかなり欠けている。
これを徹底的に身に付けさせていく。
コストはかけない。今ある設備を使って幅広くやっていく。
そして政府は、1億総活躍などとあいまいで抽象的なことを言わないで、日本を世界有数の技術立国にするとか、最先端の医療技術の開発を目指して、がんなどの難病を何年後に半分に減らすとか、「技術」の分野でトップを目指していくことを強力に掲げて欲しい。
かつての「ものづくり」、すなわち品質の高い、低コストの製品を大量に生産する、という方向ではもう生き残れない時代となった。
これからは他メーカー、他国がやっていない独自の技術を開発し、その「技術」を売っていけるようにならないと、日本は今の豊かさを維持できない。
「大量生産」は人件費の安い国が口を開けて待っているのだから。
もちろん「技術」の開発には、高い生産ノウハウが求められる。その付随する高い生産ノウハウも開発し、生産化後、そのノウハウも有償で他国へ提供できるようにならなければならない。
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新聞を読んで思うこと(6)

2017-09-17 00:14:38 | 時事
購読している新聞で、最近読んだ記事や読者の投稿から感ずることを書いてみたいと思った。
いくつかのテーマで記事にしたい。

1.女尊男卑

購読している新聞の読者投稿覧に「若い世代」というのがあり、小学生の子供から20代前半までの世代の投稿が紹介されている。
この「若い世代」を読むといつも辟易する。なぜならば、いい子ちゃん、優等生のきれいごとのオンパレードだからだ。
まだ小学生なのに、中高年が使う様な言葉を使って表現をする。先生や親に褒めてもらうがためのきれいごとを書く。
こんな投稿を読むとこの子供たちは将来どうなってしまうのだろう、と思ってしまう。
何故こんな新聞に投稿するのか? 普通はしないだろう。もっと外に出て思いっきり遊ぶ方が絶対いいし、その方が健全だ。
家にいて難しいことを考えるより、外の自然の豊かさに触れた方がいい。
なんかこのような子供たちは案外寂しいのではないかと思う。

しかしごく稀に子供らしい正直な意見を目にすることがある。
昨日だったかの記事で、「男が傷つく女尊男卑」というタイトルの中学3年生の投稿があり、面白く読ませてもらった。
この投稿によると、今の時代は行き過ぎた「女尊男卑」が横行していて、「〇〇ハラ」や「痴漢」への対策など本来女性を守るためにできたルールが、だんだんと男性を傷つけ、女性が得をするように変わってきている。だから女性を守るべき法律などは見直すべきだと言う。
これは正直な意見だと思う。
いい子ちゃんは女性の地位をもっと認め、高めるべきだとか、女性に優しい社会の在り方を議論すべきだとか言うだろうが、この投稿者は逆だ。
良くも悪くも、まずは自分の気持ちを正直に飾らず表現することが大切だ。
未熟だと思われはしないか、など気にしなくていい。
どっかからの借り物の意見ほど虚しいものはない。
表面的に紳士的、格調高いことを言っている人が、裏や影で悪事を行っていたり、悪態をついていることは多々あることで、人間は表面の言動だけで評価したり判断できるものではない。

「女尊男卑」という言葉を見て、まず思い浮かぶのは職場の産休育児休暇制度だ。
私が社会人となった30年前に男女雇用機会均等法という法律が施行され、女性の職場における待遇は差別がなくなり、著しく向上した。
30年前は女性が結婚すればまもなく退職するのが一般的であったが、今はそのような事例は皆無に近い。産休育児休暇制度が出来たからだ。
今から20年くらいまで女性が結婚し妊娠すると、この産休育児休暇制度を取得し、この休暇を全て消化した直後に退職するということが横行していた。
つまり復職する意思が無いのに、この休暇制度による金銭的メリットを享受するために利用されていたのだ。
さすがにこれは問題だと感じ、会社の人事担当に何かの機会の折にコメントしたことがあるが、それ以降、このようなケースは無くなった。
ひどいなと思ったのは、昔、勤め先がリストラで早期退職を募っていた頃、産休育児休暇中の女性がその早期退職制度による退職金割増を利用して辞めたことだった。もちろんはなから復職する意思などない。
これにはさすがにあきれた。
大卒で入社しても特に事務系は男と対等な気持ちで仕事をするような人は殆どいない。
結婚後産休育児休暇を取り、復職しても新入社員の時と同じレベルの仕事しかしようとしない。
さらに有給休暇などは全て消化する。
だけど収入は高い。スーパーのパートの5倍以上の収入は得ている。しかも楽で気楽な仕事で。
もちろん女性の中には出産後育児をしながらも男と同等の働きをしている人もごく少数であるがいる。
そして管理職や幹部を目指して頑張っておられる方もいる。
そのような女性は本当に尊敬に値する。
しかし育児と両立させるため、仕事のレベルやボリュームが上がらない、逆に落ちるのであれば、もっと給料を下げるべきなのだ。パートや契約社員と同レベルでいい。
現実にはその程度しか仕事をしていないのだから。
その分、サービス残業をしている時間外手当の一切出ない管理職に回した方が、よっぽど士気が上がる。
「女尊男卑」という言葉をワープロで変換しようとすると、「女尊」は変換されたが「男卑」は返還されなかった。
男はどんな不公平、不利益な状況にあっても、不平不満を言わず、顔に出すものではない、ということを暗黙に美徳としているように感じる。
私は長い間殆ど仕事を休んでいないし、時間外勤務もたくさんしているが、男が女よりも不利益な待遇、処遇を現実にされている事実は多々あるし、それを美徳とやらで我慢するのは偽善的だと思う。

2.ハイビーム

職場まで車通勤しているが、この1年くらい夜間の対向車がヘッドライトをハイビーム(上向き照射)にしているのをかなり頻繁に目にするようになった。
今日の新聞の読者投稿覧で「ハイビーム 歩行者もまぶしい」と題する投稿を読んだ。
この投稿によると、警察が車のヘッドライトを原則的にハイビームにすることを強く推奨するようになったという。
そういえば昨年の新聞でそんな記事が載っていたのを思い出した。
理由は、ヘッドライトをロービームにすると、前を歩いていたり自転車に乗っている人に気付くのが遅れ、取り返しのつかない事故につながるからというものだったと思う。
投稿によると、ロービームは交通量の多い場所で使用する、と限定的な扱いだ。
この投稿者は「歩行時にハイビームを当てられると、まぶしくて路面や周囲が見えず危ない。仕方なく手で光を遮っていた時、横道から走って来た自転車に気付くのが遅れてぶつかりそうになった経験もある」と言っている。
私も同じ経験があり、会社の駐車場までの往来の少ない通りを歩く時に時々ハイビームを当てられ、その光がまぶしくて、運転者に気付いてもらうために顔の上部に手を当てて歩くことにしている。
往来の少ない住宅地の通りは大抵30~40km制限であり、街灯もあるのでハイビームなど必要ない。ロービームで十分な明るさが得られる。
30~40km制限の通りでハイビームが仮に必要だとしたら、80km超の速度で走行する時だけであろう。
制限速度並で走行するのであればハイビームなど必要ない。
まして最近の車のヘッドライトは過剰なほど明るい光を出すものが殆どであり、私の車のようにオレンジに近い優しい光を出す車は少数派となった。
街灯の一切無い山道でもハイビームは危険であろう。
ハイビームを当てられた対向車が視覚を遮られて崖から転落する危険も考えられる。
ハイビームを頻繁に使用する人の中には、対向車が来てもロービームにしない人もいる。
大抵はハイビームにしていることを忘れている。また対向車には気を使っても歩行者には全く注意を払わずハイビームのままにする人もいる。
ロービームによる事故が多くなったのは、ロービームが原因ではなく、スピードの出し過ぎである。あるいはスマホなどによるわき見運転であろう。
ハイービームによる運転はむしろ事故を増発させる。

あと車を運転していて気になるのは、ゆるやかなカーブで対向車が来ているにもかかわらず、センターラインをはみ出してくる車が多いことだ。
ゆるやかなカーブでセンターラインを超えて走行する理由はもちろん、スピードを落とさずに、なるべく直線走行したいからだ。
このような車は、対向車が来てもセンターラインの内側に入ろうとしない。
対向車が避けてくれるのが当たり前だと思っているようだ。
これも危険な走行のひとつだ。

3.政治家への不平不満

投稿記事で最も多いのは、主に年配者による政治家批判である。
最も多いのは安倍首相や失言した大臣やスキャンダルを起こした議員に対するものだ。
ここぞとばかりに、あなたはけしからん、こうあるべきだと、居丈高な表現で責め立てる。
今や安倍首相は最も安全な怒りの矛先であろう。
このような投稿者は北朝鮮やテロの首謀者には決して怒りを表現しない。
数か月前だったか、加計問題だったかで国会の機能が停滞しているのを見かねて、女子高校生がこんなスキャンダルの解明に国会での貴重な時間を費やすよりも、貧困対策など他にもっと重要なことがあり、そのようなことに政治家は対応すべきだ、と投稿したら、しばらくして年長者が、それは間違っていると、たしなめるような意見の投稿をしてきたのを読んだ。
これはいささか残念なことだ。私はこの女子高校生の気持ちの方が率直で本物だと思う。
今の日本は国の借金が1000兆円を越えており、世界トップの借金大国である。
この財政危機をこれからどうやって乗り切っていくのか。
近い将来、財政が破たんするリスクは非常に大きい。
これは多くの経済アナリストが警告していることでもある。
アベノニクスの第3の矢の施策も立ち遅れている。
日本の将来を中長期的に考えて、政府や政治家に働きかけていく必要があるのではないか。
例えば具体的には高校や大学の授業料無償化よりも、もっと将来の技術大国を目指した、研究開発のための支出増や、シルバー世代を活用した若者への技能の提供、教育に力を入れた方がよっぽどいい。
授業料無償化は短期的に家計を助けても、長期的にみれば国力の弱体化につながる。

政治家の失言にこれでもかというくらい過剰な批判を書く裏には、その人の日常の癒し難い持続的な怒りや不満が透けて見える。
投稿はその感情の放出弁の役割をしていることになる。国の首相に一段上から物を言う自分に価値を感じることが目的であることに案外気付いていないのかもしれない。
もちろん誰にだって、私にだって、理不尽なことに対する怒りを感じたり、或る程度の虚栄心はあるものであるが、過剰な批判的なものの言い方をする人には自分の心の解決が真の動機になっていると感じられることがある。
デモなどの抗議活動もその何割かは、抗議内容の実現よりも自分の心の問題解決を隠れた動機にしていると感じるものがある。

4.孤独死

今日の夕刊に、孤独死した人の部屋のミニュチュア(模型)を再現した人の紹介記事が載っていた。
ゴミに埋もれ、浴槽で亡くなったために赤いお湯があふれた浴槽のミニチュア、布団が体液で黒く染まった和室など。
かなり不気味であるが、この記事で思い出したのは、以前住んでいた公団で斜め下の階に住んでいた中年男性が孤独死したことだった。
夜仕事が終わり帰宅する際に、公団の階段を上っていくと卵の腐ったような異臭がするのに気付いた。
季節は2月ごろの真冬だった思う。
その異臭は数日後しなくなったが、その異臭がした部屋の窓が真冬なのにも関わらず全開しているのを不思議に思った。
その後、その部屋の住人が孤独死したことが分かった。
その時、この住人の死因がその部屋のすぐ上の階の住人に原因があるとすぐに思いついた。
この出来事が起こる半年くらい前に、この亡くなった住人のすぐ上の階、すなわち私の部屋の向かいの部屋にインド人のような外国人が住み始めた。
このインド人が引っ越してきてからまもなく、夜中の1時なのに掃除機をかけて床を思いっきりこすったり、小さな子供を部屋に連れてきて、夜中に思いっきり走り回らせたりして、大きな騒音が聴こえてきた。
何と非常識な住人だと思ったが、このような非常識な行動の目的が推測ではあるが、下の亡くなった住人に対するものであったと直感した。
なぜならば下の住人が亡くなってから、向かいのインド人の部屋から騒音がしなくなったからだ。
亡くなった住人が、このインド人が入る前の住人に以前、それはかなり前のことだったが、騒音の苦情を言っているのを聞いたことがあった。
恐らくではあるが、インド人に対し前の住人に対するのと同じように苦情を言いに行ったのであろう。
それに腹を立てたインド人が真夜中に壮絶とも言える騒音を床に対してたてていたと考えられる。
そしてこの常軌を逸した騒音に耐え切れず、心臓麻痺か何かで亡くなったのだと思う。
これが真実ならば、いや恐らく限りなく真実に近いと思うが、殺人と言ってもいいであろう。

私もその公団に住んでいた時、帰宅直後に下の住人から水が漏れていると言われて、天井を見たら水の跡がついており、その下の床を見たら水びだしになっていたので洗濯機からの水漏れに違いないと思い、すぐに上の階の住人に確認しに行ったら、そんなことはしていないと言う。
しかしどう考えても私自身はその日不在だったわけだし、天井から水が漏れている形跡がある以上、上の住人の水漏れであることは疑いの余地は無かった。
この直後、上の住人から床に大きな騒音をたてられた。
恐らく腹いせでやったのであろう。
人間の普段表に見せない悪を見せつけられた思いだ。

先の孤独死した住人は、私の車と色違いの同じ軽の四輪駆動車、2サイクルエンジン搭載の車に乗っていて、その車を大事にしていた。
私の車を見て関心を抱いているようだったが、物静かなおとなしい方だった。
いつも一人で寂しそうな方だった。
しかし部屋はゴミ屋敷ではなく、とても綺麗にしていたのをドアのすきまから見えていたのが思い出される。
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