世界の中心で吉熊が叫ぶ

体長15センチの「吉熊くん」と同居する独身OLの日常生活

被爆から69年

2014年08月06日 21時34分14秒 | Weblog
首筋や腕を触るとザラつく。汗が乾いて塩が残ったもよう。
以前、夏休みに尾道に行った際、あまりの暑さに全身塩だらけになり、まるで伯方の塩製造機になったかと錯覚したことを思い出す。
そう、以前は夏休みは毎回広島に行っていた。尾道が大好きなので。

今日8月6日は広島の原爆投下の日。
69回目の追悼式が執り行われた。

原爆資料館へは何度か行っていて、たしか2007年に行ったのが最後だ。
展示物の遺品一つ一つが悲しかったのを覚えている。


よく覚えているのは滋くんの弁当。
県立広島第二中学校1年の折免滋くん(当時13歳)は、建物疎開作業現場で被爆した。
母親のシゲコさんは、破壊された街を必死で捜索したのだが、なかなか発見できず、知人からの情報でようやく8月9日早朝、滋くんの遺体と、遺体に抱かかえられた真っ黒に焼けたお弁当箱と水筒を発見した。
滋くんは、出征中の父と兄に代わって、シゲコさんのために山や竹やぶを開墾して畑を作っていた。その日のお弁当の中身は、その畑から初めて収穫した作物でつくったおかずで、喜んで持っていったものだった。

爆心地から約600メートルで見つかったお弁当箱は中が炭になっていた。
滋くんはどんなにこのお弁当を食べたかったのだろう。
無念だ。
天国での滋くんがお腹いっぱいになっていますように・・・祈る。


広島に原爆が投下されたときのことを父方の祖母が語ってくれたことがある。
栃木にいた彼女は当然被爆していないのだが「広島に何かがピカっと光ってドンって落ちた」と彼女の周囲でも大騒ぎになったと言っていた。

また、高校時代、修学旅行先の宮島で、被爆者のお話を聞いたことがあった。
被爆して全身大やけどを負った人が手ぬぐいを持って逃げ込んできたのだが、よく見たら手ぬぐいではなくて、落ちかけた皮膚だった・・・と。


36歳の私。
両親は戦後生まれ。

私は戦後30年ちょっとで生まれたのだと、今日初めて強く感じた。
36年生きていて今までの人生を振り返ると「あっという間」だった。
戦争というと遠い中にあると思いがちなのだが、今の子に比べると私は時間的に戦争に近いところで育ったのだということを今日は強く感じた。


また、時折思い出す「夕凪の街 桜の国」
原爆資料館でこの漫画を買い、尾道に行く際、電車内で読んで涙が止まらなかった。
原爆投下から13年の広島で、前を向いて生きていこうとしていた皆実はある日を境にして寝込んでしまう。
床に伏した皆実の視線からの描写は静かなのに壮絶だ。目が見えなくなってからは、真白のコマが多く、薄れていく意識と身体の崩壊がつらかった。



映画化もされた。




昼すぎ、自身に塩を発生させながら、そして「暑い・・・」とうわ言のように言いながら、副社長がいる建物へ。
「おい、よう」
と副社長に引き止められた。
エクセルの使い方を教えてくれと言われたので、教えて差し上げた。
印刷範囲の設定、改ページプレビューのやり方を述べたら感動された。
「こんなこともできるんだねえ」
とその表情が少年のようだった。

滋くんが生きていればきっとこのぐらいの歳になっていたはずだ。

毎年この日は色々と考えさせられる。

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