世界の中心で吉熊が叫ぶ

体長15センチの「吉熊くん」と同居する独身OLの日常生活

二荒のいただき 残雪かすみ~♪

2006年08月30日 23時05分52秒 | Weblog
秋に開催される同窓会(高校時代)の案内状の返事を出した。

「ご出席」を○で囲んで。

「ご出席」の「ご」の部分に二重線を引きながら思う。
みんな、何してるんだろう。
どうなっているんだろう。
mixiで、何人かには再会できたが、実際に会えるのは何年かぶりである。

高校2年生の夏、「高校生クイズ」での決勝戦のとき、うちの学校近辺の風景がブラウン管に映された。
まさに干瓢畑オンリーの風景が、全国に放映されたのである。
そんな閑な場所で、私は高校時代を過ごした。

「白線流し」というドラマがあるが、あの雰囲気にとても似た学校だった。(白線流しの主人公たちは私と同年齢。)

昼休みは、窓際の一番前の席界隈でよくみんなとお喋りをした。
卒業寸前というよりも、受験寸前という現実味を帯びた雰囲気が濃くなった三学期でも、笑いが絶えることが無かった。あの空気が好きだった。
白線は流さなかったが、「白線流し」の主人公たちよりも煌めいた日々を送れたという自信がある。

旧制中学の学校だったからなのか、男子の生徒数が異常に多かった。
だから男子クラスなるものが存在し、中には共学の県立高校に入学したのに、3年間男子クラスに在籍するといった人もいた。でも結束力が強く、けっこう楽しそうだった。

ブラスバンド部の部室は、戦時中に武器兵庫として使用されていた建造物をそのまま使用していた。
マラソン大会で男子18キロ、女子8キロを走らせられ、しかもみんな真面目に完走していた。追試、もとい「追走」、下手すると「追々々…走」という「走るまで許さない」という規律があったから。
他にも、「学習合宿」と銘打っている行事なのに鬼怒川温泉(ホテルニュー岡部)という行楽地に生徒を連れていく…などといった不思議な現象がいくつも見られた学校だった。

しかし、先生方の熱心さは凄かった。
一人一人をちゃんとサポートしてくれていたと思う。

中でも、当時20代後半の英語教師だった女性の先生が印象的だ。
彼女は、私のサイン帳に「いつ死んでも良いように生きなさい」と書いてくれた。
センター試験が終わった翌日、自己採点をパソコンルームにて入力し、シュミレーションしていた時のこと。
パソコンに触ったことすらない私には、そんな単純作業にも戸惑っていた。
パソコン入力をOLのシンボル的な姿として思い描いていた私は、
「ああ、難しいよぉ。将来、『亮子のダメダメOL日記』でも書こうかな」と呟いた。
先生は「〇〇(私の苗字)って面白いんだね~」と爆笑してくれた。
10年後、ブログというツールを使用してこの日記を書いているOL亮子を、先生はあの声で笑ってくれるだろうか。

いつ死んでも良い…やっぱり今は嫌だ。
同窓会には行きたいもの。


☆高校の同級生のみなさん☆
吉熊を密かに連行していく予定です。
会場で私を見かけましたら

「世界の中心で…」と仰ってください。

「吉熊が叫ぶ」と、お答えします!
…吉熊自身が。



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