世界の中心で吉熊が叫ぶ

体長15センチの「吉熊くん」と同居する独身OLの日常生活

市場からの脱退

2006年01月12日 23時33分50秒 | Weblog
殿方は、やはり若いムスメが好きなんだろうか。

「私がオバサンになったら」という森高千里の歌がある。

あれは未来の仮定法で構成されている歌詞なんだということを、最近、歌いながらしみじみ悟った。
歌っていて「私がオバサンになっ…たら?…たら?…“たら”で良いのか?たらたら…」と、不協和音感じてしまった私は、最早「オバサン」なんだろう。
しかし、そんな私は、殿方の目が定める「女の市場」からの脱退を密かに心地良く感じているのである。

「女性」であることによって制限される行為は、いまだに多く世の中に存在している。
「女の子なんだから…」とか
「女の子はこうあるべきだ」みたいな。

「あいつは、もう、女じゃね~よなぁ」と烙印を押された私は、それらの「女性」特有の制限をゴジラ並の破壊力で崩壊させることのできる幸せを噛み締めているんである。
そもそも、私は殿方市場に流通してはいけない異端な「商品」なのだから。

二次元の世界ではムスカを愛し、
三次元の世界では小室哲哉氏を激しく想っている。
そして何よりも自分を一番愛している。

自分が居心地良くない環境や束縛は絶対に我慢できない。
激しく気まぐれ。
自分の思い通りにならないことが、兎に角耐えられない。

そんな私は、心のどこかで、いつも殿方を避けていた。

それは「傷付きたくない」という乙女的理由ではなく、
「自分の思い通りにならない環境はさぞかし不快なのだろうなあ。」という自分の欲求優先の理由から。

自己愛精神の強い私が殿方と付き合うと、必ず軋轢が発生する。
実に面倒である。
だから数年前から、尼を実践してきた。
それは、自らのアイデンティティを確立し、庇護するためには仕方がなかった。

若い頃は、殿方市場に於いて、それなりの需要があった。
私の中に微量ながらも潜んでいた女性の本能が、無意識にそれらに応えようと努力したこともあった。
しかし、鍍金はすぐに剥がれ、結果、私は市場のニーズに応えられなかった。
やはり、流通してはいけない商品であった。


需要が希薄になった今、市場から降りることを何の疑いもなく容認され、私は本来あるべき「自己愛に没頭する自分」をフルに生きられるようになった。
同時に「女性」であることを求められない気楽さも入手できた。

避けてきた殿方の視線が、自然と寄り付かなくなる、
…そのことに多少の悲哀や未練が全く無いと言ったら嘘になる。

しかし、窮屈さから解放される喜びの方が遥かに大きい。

歳相応の役割を認識しつつ、自分の精神を安らかな方へ誘うのも年の功なのだろうか。
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