晴乗雨読な休日

休日の趣味レベルで晴れの日は自転車に乗ってお出かけ。雨の日は家で読書。

帚木蓬生 『襲来』

2023-12-31 | 日本人作家 は
今年の読書の投稿が17。このブログをはじめた当初は目指せ年間100冊なんて思ってましたが、まあ今年はちょっと学校のほうが忙しかったのでしょうがなかったのであります。

というわけで、帚木蓬生さん。この作品のタイトルの意味は元寇ですね。モンゴル帝国のフビライ・ハンが日本を2度に渡って攻めてきて、嵐に遭ってほうほうの体で帰っていったという、例のやつ。といってもこの作品のメインテーマは日蓮とその弟子の見助の話。

安房国(現在の千葉県南部)の片海(現在の小湊)の漁師、貫爺さん。一緒に住むのは孫ほど年の離れた見助という少年。じつは見助はみなし子で、ある嵐の翌朝、壊れた船に男女の遺体と泣いている赤子がいたのを見つけたのが貫爺さんで、乳を分けてもらったりしながら子育てをします。魚とり名人の貫爺さんから船の漕ぎ方や釣りのコツなどを教えてもらいますが、見助が13歳のとき、貫爺さんは亡くなります。
この片海一帯は下総国の守護である千葉氏の飛び地の所領になっていて、千葉氏の家来の富木氏が年に数回片海にやって来ては貫爺さんが魚や貝を差し上げたりしていました。貫爺さんの葬儀は富木様も訪れ、さらに清澄寺から僧侶までも来ます。そこで富木様は見助を呼び、僧侶に「この子が片海で貫助に拾われた見助です」と紹介します。その僧侶は「気落ちしているだろうがそなたにはきっと良い人生が待っている」と見助に言うのですが、拾われたような自分がなんで幸せになるのだろうと不思議に思います。

富木様に魚や貝を届けるのは見助の役目となり、ある日のこと、獲った大鯛6匹を館まで持っていくと、富木様に呼ばれます。すると、貫爺さんの葬式の時に来た僧侶がいます。この僧侶は清澄寺の蓮長といい、蓮長も片海の生まれで、12歳で清澄寺に入って18で鎌倉に上り、その後比叡山で修行して、法華経こそが民草を救う教えであることを見つけます。しかし時は鎌倉、念仏宗や禅宗が全盛で、清澄寺でも念仏に染まっていて蓮長は危険思想とみなされ、地頭の東条景信に命を狙われるようになり、蓮長は清澄寺を出て行くことに。そして、蓮長の教えに賛同するふたりの僧に、新しい宗派を立ち上げて名前も日蓮にすると宣言します。

そうして日蓮は鎌倉へと旅立ちます。その目的は、数年のうちに国中が天変地異で荒れ果て国が乱れ、さらに外敵が襲来すると予言され、それを防ぐには国主が法華経に帰依すべし、ということなのですが、つまり現在の北条家の政権批判です。そこで富木様は見助に日蓮との仲介役になってくれと頼みます。そのために数の数え方と字を覚えてくれということで、見助は練習をします。翌年、富木様が片海に戻ってきて、練習の成果を披露し、富木様を驚かせます。すると、清澄寺の浄顕坊という僧といっしょに鎌倉の日蓮のもとに行って荷物を届けてほしいというので、見助はあのお坊さんに会えると喜びます。そうして鎌倉の外れの松葉谷というところの小屋に着きます。

日蓮は鎌倉で辻説法を行いますが、その内容とは現政権批判と主流の宗派の批判、この国はだめになる、それを防ぐには南無妙法蓮華経を唱えなさい、といったもので、信者が少しづつ増えますが、同時に日蓮を憎む者も増えます。
そんな中、日蓮が駿河国にある実相寺に一月ほど滞在するので見助がお供をすることに。そこで出会った伯耆坊という少年僧がいるのですが、日蓮の門下に入りたいと告げます。
鎌倉に戻った日蓮は、書き上げた「立正安国論」を北条家に上奏します。ところがある夜、草庵が襲撃を受け燃やされ、見助は日蓮といっしょに裏山へ逃げ、いったん下総国の中山にある富木様の館で身を寄せることにします。
そこで、日蓮が見助を呼び、「対馬まで行ってほしい」と頼むのです。立正安国論によると他国の侵略は西方の海の向こうからで、最初に攻めるのが対馬であろうというのですが、今のところ対馬の守護に警戒せよという命令は出ておらず、見助に偵察に行ってほしいというのです。
下総国から鎌倉へ、途中の駿河で実相寺に寄り、京の都から難波、播磨へ、そこから瀬戸内を船で博多へ。そして肥前小城の千葉氏の領地に着いて、書状を渡します。そして、馬場冠治という武家といっしょに対馬へ・・・

というあたりで上巻が終わって、下巻になると史実とおりに実際に海の向こうから蒙古が船で来ます。対馬も壱岐も壊滅状態、いよいよ九州上陸となったところで嵐に遭って朝鮮に引き返します。そこで幕府はようやく防衛のために兵を九州に派遣し、博多の海岸に石築地を作ることになりますが、対馬と壱岐の防衛は無視。二度目の蒙古襲来も嵐で引き返します。これがのちに「神風」と呼ばれるようになるのですが、それはさておき、見助が対馬に滞在中、ずっと日蓮と文のやり取りをしていて、その間に日蓮は流刑されたり、甲斐国の身延というところに移ったことを知り、そして日蓮が病に伏せていると知って、日蓮のもとに帰る決意をするのですが・・・

日蓮の本弟子「六老僧」のひとり、日興は実相寺にいた伯耆坊で、日蓮亡きのち、身延山を下りて別の流派を立ち上げます。

いくら尊敬する方のたってのお願いとはいえひとりで20年以上も九州に行かせるのは日蓮さんちょっとあんまりじゃないのと思ったりもしましたが、見助本人が「日蓮さまの手足であり耳目になる」ことを幸せで喜びに感じているならどうしようもありません。
日蓮の布教の「お前らは間違ってる、このままじゃ地球は終わる、俺のいうことを聞け」という、現代のラップバトルよろしく煽っていくスタイルで味方ばかりか敵も増やしていくんですけど、古今東西どこも宗教家はそうなんですよね。まあ当時の教育水準だとそういった恐怖心が結局のところ一番有効なんではありますが。

さて、こんな大晦日に今年ラスト投稿。また来年もよろしくお願いします。良いお年を。

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