晴乗雨読な休日

休日の趣味レベルで晴れの日は自転車に乗ってお出かけ。雨の日は家で読書。

葉室麟 『いのちなりけり』

2018-01-24 | 日本人作家 は
先日、葉室麟さんが亡くなったという新聞の記事を
見まして、いちおう時代小説ファンのはしくれ程度
ですが、それでもけっこうショックでした。
まだ全部の作品を読んでいませんので、これから心
して読みたいと思います。

さて、この『いのちなりけり』ですが、初期の作品
です。
「蜩ノ記」で直木賞を受賞されたときに、選考委員
が「登場人物がみんな清廉」という評価をされたそ
うですが、この作品は、けっこうドロドロしており
ます。

まず、のっけから、元禄七年(1694)、水戸藩江戸
屋敷にて、先代の藩主、水戸光圀が、屋敷で宴会を
している最中に水戸藩中老、藤井紋太夫を刺し殺し
ます。
宴の出席者は逃げるように帰り、それを聞いた光圀
は「不甲斐なき者どもじゃ」と嘆きます。
ですが、屋敷の奥(女性たちの居住エリア)は、奥
女中取締の咲弥(さくや)様が、私語は慎むように
と指示を出し、静まりかえっています。
それを聞いた光圀、「ほう、なるほどなあ」と感心
します。

この咲弥ですが、生まれは水戸ではなく、肥前佐賀
鍋島藩の支藩、小城藩の重臣の天源寺家に生まれま
す。咲弥は最初の結婚の夫が病死し、雨宮蔵人とい
う男と再婚します。天源寺家は藩の筆頭格の家臣、
一方、雨宮蔵人は馬乗士という下のほうの位で家格
が合わなく、しかも蔵人は藩内であまり評判が良く
ありません。それでも天源寺家の跡取りを早く欲し
がった父親のために再婚します。
咲弥は幼くして(才媛)と評判で、蔵人は学問の方
はからっきし。咲弥は「これこそ自身の心だという
和歌を教えてください」といい、それが見つかるま
ではいっしょに寝ません、と初夜に家庭内別居宣言。

ある年、藩で行われる新年の儀式のとき、藩主らが
座るところに矢が射かけられます。すると本家藩主
の世継ぎの前に一人の武者が立ちはだかり、矢を受
け止めます。この武者こそ蔵人だったのですが、本
家と支藩の仲が悪く、さらに同席していた小城藩主
の前に立たなかったことが「おのれの藩主よりも本
家の世継を守るとは、本家におもねった」などと
さんざんな評価。家に戻って義父からも「なぜ殿
(小城藩主)の前に立たなかったのじゃ」と怒られ
る始末。

ところが、この蔵人の行動を「飛んでくる矢の前に
立ってこれが命を狙うものかたんなる脅しか見極め
ようとしたのだ」と見抜いた者がいました。
それは、小城藩江戸屋敷にいる世継ぎ、元武に仕え
る巴十太夫という剣士。
この年、蔵人は参勤交代で江戸へ。そこで元武に呼
ばれます。そして「国に戻ったら、そなたの舅、天
源寺刑部を斬れ」との命が。元武は、本家の世継ぎ
の綱茂に矢を放った主犯格は刑部に違いないと見て
いたのです。

蔵人が国に戻ってから十日後、天源寺屋敷内で、主
の刑部が首を斬られて死んでいるのが発見されます。
その日の夜に蔵人はどこかに消え、犯人は蔵人と
断定、すぐに追っ手が蔵人を探しに出ます。

一方、天源寺家では、このままでは御家断絶になる
ので、蔵人の従兄弟の深町右京と咲弥を再婚させて
入り婿になってもらい、夫婦で刑部の仇討ちで蔵人
を討てばいい、ということに。
右京はこれを拒否しますが、元武といっしょに帰国
した巴十太夫の弟子たちが蔵人捜索に出ていると、
つまり元武は蔵人に刑部を斬らせ、その責めを蔵人
に負わせるつもりだと知って、藩に蔵人捜索の願い
を出しますが、藩からは右京に「御歌書役」という
位に登用のため、京行きということで、藩の外に出
ることを許可されます。が、咲弥にはある疑念が。
それは、右京の脇差が蔵人のものだったのですが・・・

鍋島家と龍造寺家との因縁からはじまり、さらに、
幕府、朝廷まで絡んできます。はたして右京と咲弥
は蔵人を見つけることが出来るのか。そして蔵人は
「自身の心」の和歌を見つけることができるのか。
そして、どういう経緯があって、咲弥は水戸藩預か
りとなったのか。

咲弥が幼い頃に出会った、花見にでかけたときに桜
の枝を折って渡してくれたのは、はじめは右京だと
勘違いしていたのですが、あれは蔵人だったのか。

とても美しい物語です。

この物語のキーパーソンとして、水戸光圀が登場し
ます。黄門様として有名ですが、じつは、ドラマで
印籠を出し「どなたと心得る、先の副将軍・・・」と
ありますが、(副将軍)という位は幕府にはなく、
また、そもそも御三家の一、水戸家の当主でも隠居
でも、水戸の城下と江戸屋敷の往復以外は認められ
なかったそうで、あんな全国行脚などできません。
ではなぜあの話ができたかというと、光圀のライフ
ワークとして「大日本史」の編纂というのがあって、
その資料集めに全国を飛び回っていた藩士で学者の
佐々宗淳、通称(介三郎)と、安積覚、通称(覚兵衛)、
文中にも登場しますが、このふたりがのちの「助さん
格さん」になり、さらにこの光圀公という人、かなり
ブッ飛んだ人だったらしく、先述したように水戸から
江戸の往復しかできなかったのですが、一度、水戸街
道からそれて上総、安房(現在の千葉県)を通り、船
で三浦半島に渡って、鎌倉を見物して江戸に入ったこ
とがあるそうで、おそらくこれを元にしてできたのが
「水戸黄門」なのでは、という話なのだそうな。
コメント
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