晴乗雨読な休日

休日の趣味レベルで晴れの日は自転車に乗ってお出かけ。雨の日は家で読書。

楡周平 『猛禽の宴』

2011-09-19 | 日本人作家 な
デビュー作「Cの福音」があまりにも面白く、続きがある
と知って、はやく読みたいと急いで本屋に行って買ってき
ました。

父親の仕事の都合でアメリカへ渡り、大学入学の直前に
両親を飛行機事故で亡くし、大学に入り、チンピラに
襲われたときに誤って相手を殺してしまい、正当防衛が
認められるも、決まっていた就職先から断られ、大学時代
の友人(この友人は事故死した)の父親を頼ってマフィア
の道に入った日本人、浅倉恭介が主人公の話で、前作『Cの
福音』では、完璧ともいえるドラッグの密輸そして日本国内
での販売網を構築するも、警察ではなく台湾系マフィアに
追われてしまい、いったん日本での活動を休止して、アメリカ
へ戻った恭介、というところからはじまります。

恭介を死んだ息子のように可愛がるファルージオ、この男は
ニューヨークを拠点とするマフィアのドン。ひさしぶりに
再会する恭介とファルージオ。そして、その席には、マフィア
の重役たちも。
ここ数年、どうもマフィアの上納金が減っているとファルージオ
はお怒りの様子。というのも、香港の中国返還にともない、香港
のマフィアがいっせいにアメリカに流れ込んで、その中国系マフ
ィアは、それまでの流儀や縄張りなどお構い無しに勢力を拡大し、
ファルージオのファミリーも手を焼いている状況。

ブルックリンとブルックス界隈を仕切っていたコジモは、もともと
黒人系やラテン系との小競り合いがあった上に中国系とも争わなけれ
ばならず、売上げダウンで窮地に追い込まれます。

そんな中、ラテン系が中国系と手を組んで、ニューヨークに君臨する
イタリア系マフィアのドン、ファルージオを殺そうとする計画が。
その計画は恐ろしく大胆なもので、オフィスへ向かうファルージオの
乗る車に向かって、追撃砲を発射するのです。
車は大爆発、しかし後部座席にいたファルージオはなんとか一命を
とりとめるのですが、車椅子生活を余儀なくされ、ここで後継者争い
が・・・

この騒ぎに便乗してマフィアの頂点に立ってやろうとコジモはたくらみ、
ナンバーツーがドンに就任した直後に暗殺、これを中国系とラテン系の
仕業に思わせ、とうとうコジモがドンの座に。

一方、アメリカはケンタッキー州の山奥で、七面鳥ハンティングを楽しむ
恭介。組織から“あてがわれた”女性ナンシーも魅力的で、幸せな時を
過ごしていました。また山へ狩りに出かけると、反対方向から人間が。
なんとか誤射を避けて近づきます。男はテキサスから来て、アランと名乗り
ます。突然アランは苦しみだし、恭介はバッグの中の薬を取り出しアラン
に飲ませます。

アランはもともと空軍のヘリパイロットだったのですが、湾岸戦争に派遣
されたときに軍から支給された薬が原因でヘリの操縦ができず退役、生活
が荒んで妻と子に去られてしまいます。
軍の払い下げ品を売るという仕事に就きますが、政府の意向で軍費削減、
なんでもかんでも払い下げ、中には海外に絶対に渡ってはいけないとされる
情報の入ったファイルまでもが流れてきて、軍に、そして国に対して憤り
を持っているアラン・・・

アランは今でも後遺症に苦しんでいて、その発作がはじまったときに恭介
に助けてもらい、身の内話を語るアラン、そして軍のファイルも話します。
これは面白そうだと恭介は感じて、自分は商社員で、そのファイルを高額
で買い取ると伝えます。

というケンタッキーでの休暇中にいきなり飛び込んできたボス襲撃の知らせ。
急いでニューヨークへ戻る恭介。なんやかやでコジモがドンに就任と聞き、
何やら怪しいと読みます。
自分を実の息子のように思ってくれるファルージオを恭介も慕い、なんとか
して犯人を探し出そうとしますが・・・

ナンシーとアランも絡んできて、ここから目まぐるしく展開し、手に汗握る
アクション、もう素晴らしいです。

そして、終わりのほうに、なにやら「含み」を持つシーンが。CIAの人間
が恭介を?うーん、どうなるんでしょうか。
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楡周平 『Cの福音』

2011-09-15 | 日本人作家 な
べつに理由も無く、避けてたとかいうのでもなく、その作家
の作品は未読です、というケースがあります。

アクション、ミステリ、エンタテインメントが大好きでも、
なぜか楡周平は読まずにきました。「楡(にれ)」が読め
なかったから、ではありません。念のため。

そして読み終わるやいなや、この『Cの福音』の続編にあたる
「猛禽の宴」を急いで本屋に買いに行きました。

両親の仕事の関係でアメリカへ渡った浅倉恭介は、成績優秀で
全寮制のミリタリースクールに入学、そこでも優秀でブラウン
大学へ入学も決まり、華々しい未来が約束されると思いきや、
両親が乗る飛行機が墜落しふたりとも死亡。

父の会社からはすずめの涙ほどの見舞金、そして遺産やら保険
で大学に通い、卒業間近、通ってた道場の帰り道、強盗に襲われ
そうになりますが、返り討ちにし、そのうちの1人を殺してしま
います。

裁判では正当防衛が認められ無罪となりますが、ブラウン大学で
成績優秀、日米双方の文化をよく知る恭介のもとに殺到していた
一流企業のリクルートはいっせいに背を向けます。

さらに不幸なことが。大学時代の親友、リチャードが事故で死んで
しまうのです。一度リチャードの家に招かれて彼の両親に会ったこ
とのある恭介は、父親の職業がマフィア、しかも大物であることを
知ります。

ビジネスマンになることを諦めた恭介は、リチャードの父親、ファル
ージオのもとを訪れます。そして、ニューヨークマフィアのドンに、
ある魅力的な“ビジネス”の提案をするのですが・・・

ドラッグに溺れた日本人ビジネスマンを使って、あるシステムを
聞き出し、それでドラッグを密輸、国内でさばくのは、それまでの
原始的なやりとりではなく、コンピュータシステムを使い、さらに
ルートが暴かれたとしても恭介のもとには捜査の手がかからない
周到さ。

でしたが、あるアメリカ帰りの商社員が、“ルール”を破ってしまい、
別の台湾系マフィアからドラッグを手に入れてしまい、台湾系マフィア
に、アメリカからの上質のドラッグが日本で流通してるとバレてしまい・・・

久しぶりに素晴らしいアクション、ミステリ、エンターテインメント
を堪能しました。

先述した続編ももうすぐ読み終わります。こちらも面白い。

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夏目漱石 『門』

2011-06-24 | 日本人作家 な
漱石の『門』といえば、「三四郎」「それから」と
三部作と呼ばれる三作目にあたる作品で、これらの
作品はシリーズ化されているわけでもなく、作者の
意図か、読者の解釈か、「三四郎」の(それから)が
「それから」で、「それから」の(それから)が
『門』ということになっています。

まあ、あえて共通のテーマを探すとすれば、主人公の
男が、何がしかの苦悩を持っていて、その解決を見出
せず(見出そうとしていませんが)にもがいている、
とでもいいましょうか。

東京の裕福な家に生まれた宗助は、不自由なく暮らし、
京都の大学に進むも、ろくに勉強もせず、挙句、親友
の安井という男の妻であった御米とデキてしまい、地方
を転々として、今は東京に戻り借家住まい。

裕福だった実家は、宗助の父の死後、叔父に遺産管理
を任せていたのですが、どこでどう転んだのか、宗助
のところにはお金が入ってこず、その叔父が死んでし
まい、叔父の家に預けられていた宗助の歳の離れた弟
を引き取ることに。

ところが薄給の宗助にとって弟の学費を捻出するのは
困難で、叔母に助けを求めるのですが、断わられます。

宗助と御米は互いに会話こそしますが、世間並みの
付き合いなどは全く無く、厭世の観があり、それは
かつて親友の妻と結ばれてしまった(御米にとっては
夫に対しての裏切り)ことへの贖罪ということなの
でしょうか。

ところが、ある出来事がきっかけで、大家と付き合い
がはじまり、ある日、大家宅に行った宗助は、そこで
なんと、安井の消息を耳にするのです・・・

この後宗助は、具合が悪くなったといって療養をかね
た小旅行へ出るのですが、じつは御米にも内緒で、鎌倉
の禅寺へ行くのです。
寺で修行したからといって、安井が大家のもとに来なく
なるわけでもなし、東京に戻った宗助にとって事態が
好転したといえば、大家が弟を書生として引き取って
くれるということくらい。

エンディングの夫婦の会話は、「道草」の終わりの夫婦
の会話と同じくらい、なんとも後味の悪い締めくくり方
となっています。
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夏目漱石 『それから』

2011-04-10 | 日本人作家 な
この作品は漱石の「三四郎」と「門」のあいだにきて
三部作として有名な作品ですが、それぞれに共通する
登場人物がいるわけではありません。

時代的に「三四郎」の“それから”ということらしく、
まああの三四郎も『それから』の主人公代助のような
モラトリアムになる素質は備えているわけでして、つま
り“それから”の話、ということなのでしょう。

三十歳で父と兄に経済援助をしてもらいながら日がな
遊びほうけている代助のもとに、親友の平岡から手紙
が届きます。
なんでも神戸で仕事を辞めて、ふたたび東京に戻って
くるとのこと。
この平岡の妻三千代は、代助の大学時代の友人の妹で、
代助もこころ惹かれていたものの、平岡も同じ想いと
いうのを知り、自分は身を引いたという過去が。

そんなこんなで平岡と三千代が東京に来ることになり、
代助はそんな甲斐性も無いくせに、彼らの住まいや新し
い仕事先などを探し回ってあげるのです。
三千代への想いが再燃してしまったのか、いやそれとも
たんに平岡に対する友情のしるしなのか、生活に窮する
夫婦に金を工面したりもします。

しかしそうそう世の中うまく代助の都合の良いようには
まわらず、彼に見合いの話が舞い込んできます。よく聞
けばそれは父と兄の事業のためのいわば政略結婚のよう
なものだったのです。

とにかくこの代助という男は、自己弁護、屁理屈のオン
パレードで、かといって本人が何かするというわけでも
なく、何もしてない人が何かやってる人の文句を言った
り否定したり、というのは何も現代社会に出てきた弊害
ではなく、100年前にもいたんだなあ、と。

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野沢尚 『恋愛時代』

2010-07-02 | 日本人作家 な
この作品は、江戸川乱歩賞受賞作「破線のマリス」の前に書かれた作品で、
あとがきの池上冬樹さんの解説にもあったのですが、テレビや映画の脚本家
、つまり「映像畑の人間」が書く小説はドラマのノヴェライズのような脆弱さ
を予想していたが違った、とあり、なるほど確かにたっぷりと読ませる筆の力
を感じました。

衛藤はる、26歳。スポーツジムのインストラクター。そして早勢理一郎、34歳。
渋谷の書店で働いております。このふたりは2年前まで夫婦だった…結婚生活わずか
1年半という短い結婚生活を終えます。原因は数あれど、直接は、はじめての子ども
が死産で、悲しみに打ちひしがれるはるを残し「仕事が」と言って理一郎は病院から
消えます。

息子の墓参りに今年も顔を合わせ、そのまま食事に繰り出すふたり。しかし、
話すことといえば憎まれ口。そして、お互いが幸せになるよう、それぞれが
ふさわしい再婚相手を見つけようじゃないかと約束。

はるの妹の大学生しず夏、理一郎の幼なじみで産婦人科医(はるの死産に立ち会った)
海江田は、そんなふたりを「意地の張り合い」と冷めた目で見ています。
外から見れば、まだふたりは愛し合っていて、また元通りになればいいのに、と
思っているのですが、当人同士の亀裂は深いのです。

そんな中、理一郎の書店にひとりの男が来ます。はると理一郎の結婚式の時にいた
式場の係、永富でした。ふたりが離婚したと聞き、じつははるさんに興味があったと
言う永富。というのも、式の直前、理一郎は永富にはるの事を洗いざらい話していた
のでした。

そうして永富とはるを引き合わせた理一郎。一方、はるはスポーツジムで再会した
故郷長崎の小学校時代の友達、かすみを理一郎に紹介します。

はたしてふたりの恋の行方は・・・それともふたりは意地の張り合いをやめて
「モトサヤ」に戻るのか・・・

正直、恋愛小説のたぐいは、過去に読んだ、ある海外の恋愛小説で懲りている
(ぶっちゃけ、面白くなかったというか、自分には向いてないと思った)ので、
タイトルでずばり「恋愛時代」ですから、どうなのかなあ、と思っていたのですが、
杞憂も杞憂、冒頭書いたように、筆の力でぐいぐいと引き込まれ、人物描写も
お見事、セリフまわしも「さすが脚本家」だけあって上手だし、そして、不意打ち
食らったかのように、いきなり泣ける場面が来たりして、読むものを飽きさせない
素晴らしい作品です。

もし、恋愛小説は苦手、そのジャンルは手を出さない、という方がいらっしゃったら、
『恋愛時代』はそんじょそこらのヤワな作品ではありませんので、ぜひ騙されたと
思って読んでみてください。

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夏目漱石 『坑夫』

2010-04-13 | 日本人作家 な
文庫の解説(三好行雄さん)によると、『坑夫』は、漱石宅にヒョックリ
やって来た青年が、自身の経験を題材に小説を書いてほしく、その
報酬を求めてきたそうで、はじめは自分で書いたらどうだと断ったの
ですが、漱石が小説の連載を書いていた朝日新聞で、島崎藤村が
連載をスタートさせるはずが原稿が上がらず、漱石がピンチヒッター
として連載を書くことになりました。

ここで、件の青年の話していたことを題材に書きはじめたのです。
それはそうと、この当時の朝日新聞の連載小説のラインナップは、
まず漱石の「虞美人草」後に二葉亭四迷が、さらに島崎藤村と続く
予定でした。今考えてみたらかなり豪華なオーダーです。

というわけで、この『坑夫』は漱石の着想ではなく、「聞いた話」
をアレンジして書かれていて、登場人物の一人称「自分」の背景
として、それなりの家柄で、女性問題で出奔し、あてどもなく彷徨
っているうちにひょんなことから鉱山で働くことになった、という
のは漱石のオリジナル人物描写となります。

「自分」は、東京のさる家柄として生まれ、不自由なく学生生活を
送るはずでしたが、二人の女性の間で揺れ動き、家族からは不誠実を
詰られたかなにかで、自分の味方はもういないと思い家を飛び出し、
死に場所を探すも死にきれず、街道の宿場でポン引きの甘い話にのって
しまい、鉱山に連れてゆかれます。
途中、ポン引きは「赤毛布(あかげっと)」や「小僧」も拾い、彼らを
引き連れて山を登ります。
書生風情の若者を小ばかにする坑夫たち。「自分」も彼らを蒙昧な
半獣と見下します。
飯場で平たく寝るだけの男。「ジャンボー」という葬式。炭鉱の穴で
出会う男。痛烈なカルチャーショックを受けます。

そもそもはなから小説として書きたかったわけでもないので、小説
の技法を使っておらず、構成もありません。一応「ルポルタージュ的」
とされてはいますが、それでも完全に構成を排除するまでにはいたって
いないように思うのです。
三好行雄さんの解説にもあったのですが、「自分」の東京での人物
相関は、「虞美人草」の男女関係に近く、考え方によっては「虞美人草」
の続編あるいはスピン・オフ作品とみることもできます。

ここでは、『坑夫』以降に書かれる、苦悩に満ちた明治青年というほど
には「自分」はあまり深く考えてはいません。しかし、彼を代弁者として
漱石が日ごろ思っていたことや感じていたこと、ひらたくいうと「ムカつい
ていたこと」が文中に書かれているように感じられます。
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梨木香歩 『西の魔女が死んだ』

2010-04-01 | 日本人作家 な
小説において勝ち負けや優劣というものは、なんといっても内容
の面白さで決める以外ないのですが、しかしその内容は、買って
(あるいは借りて)読んでみないとわからないものです。
そこで「これは面白そうだぞ」と思わせる要因は、なんといっても
タイトルと本の装丁でしょうか――○○賞受賞作というハクもあり
ますけどね――。

そういったことをふまえると、『西の魔女が死んだ』というタイトル、
もうこれは勝ち。料理名を聞いただけで美味しそうだと思わせる
ような魅力を持っています。

内容は、幼いころに日本の魅力を聞いたイギリス人女性が日本
にやってきて、日本人男性と結婚、田舎に住みます。
その孫が祖母と田舎の家でひと夏過ごした思い出を、祖母の死
によって回想するといった話です。

孫のまいは、いわゆる不登校児で、しばらく祖母の家で面倒を
見てもらうことになります。
母からは「あの人は本物の魔女」と打ち明けられたことがあり、
母娘は祖母のことを、その家の方角から「西の魔女」と呼んで
います。
とはいっても、ハリーポッターのように人間を動物に変えたり
箒にまたがって浮遊したりといった魔法が使えるおばあちゃん
ではなく、そんなおおっぴらではない魔女としての能力の持ち
主なのです。
まいにもその素質があるかどうかはともかく、魔法を使えるよう
になりたいと思えばなれると祖母はアドバイスします。
しかしその訓練は、早寝早起き、お手伝いをし、よく食べる、と
いった「よい子」であることなのですが・・・

祖母の家の庭には畑があり、小屋で鶏を飼い、山奥に行けば
野いちごを採ってジャムにして、といった「スローライフ」を実践。
その文体と表現から、どことなくイギリスの湖水地方を描いて
いるような感じで、なんとも不思議な世界観です。

都会のカラーはそれぞれ違いますが、田舎の原風景はどこの国
でもそれほどの差異はありません。というのは、多くを求めるより
も、「これでいい」と足るを知る、自然からの恩恵を体と心で受け
取り、人間も大いなる自然のサイクルに仲間入りさせてもらって
いる、それが少なくとも「間違いではない生き方」だという経験則
を持っていることが共通しているからでしょうか。

この物語を読んで、「価値観」という言葉の大切さを知ったような
気がします。大前提として、ひとりひとりが違う価値の見出し方を
持っていて当然であり、他者の価値観に敬意を持つことがいかに
大切なのかを学ばせてもらいました。

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夏目漱石 『道草』

2010-03-14 | 日本人作家 な
『道草』は、夏目漱石の自伝的小説ということで、晩年の漱石が
神経衰弱あるいは慢性的に胃痛に悩まされていたのがよく分か
るくらい、日常生活の厄介ごとが多かったと思われます。
まず、こちらは実際の話として、漱石こと金之助少年は4歳のとき
に養子に出されて、その後養父の家出や離婚などで実家に戻され
ます。その後、文学界でスターダムを確立するや、かつての養父
からの金の無心がはじまります。
というのも、籍を戻す際に、それまでの養育費を養父に支払うと
同時に、何かあったときには助けてくれ的な一札も入れてしまい、
義理堅い漱石は養父に金をせびられることになるのです。

主人公の健三は、海外留学から戻り、大学の講師の職につきます。
講師のかたわら、自宅で健三は執筆作業に勤しむのですが、ある日
町中でなつかしい顔を見かけます。
それは、かつて少年時代に養子に出された先の養父であった島田。
しかし、養父は愛人をこさえて家出し、健三は実家に復籍して以来
交流がなく、今ごろ自分の前に現れたことを訝ります。
案の定というか、島田は健三宅に来て、爪に火をともすような貧窮
生活を語り、健三に金を貸してくれと言います。
しかし健三は、姉夫婦や兄にも毎月金を送り、さらに妻の父、健三
にとって義父からも金の相談があるのです。
肉親や妻の家族に金の工面はいいのですが、島田とは縁遠くなって
久しかったのですが、いくらか包んで島田に帰ってもらいます。
しかし再びやって来て、今度はある紙を買ってくれと言ってきます。
それは、籍を戻す際に、実家から島田に「将来困ったときには不実
のないように」という証文で、それを突きつけてきて・・・

金銭問題に苦しむ健三。そんなに高給取りというわけでもないのに
毎月生活費に苦しみます。家庭では、妻との価値観や性格の不一致
にも悩みます。妻は夫に冷たく、だらしなく、狡猾というふうに
健三は思って、一方妻のほうは夫の理屈っぽく常に自分を小ばかに
する態度に辟易しています。
たまにある妻の発作のときには健三はかいがいしく付き添い世話を
するのですが、それ以外はお互い見つめ合うことはありません。

ただ、文中の健三は、おいおいそれは女性、ましてや妻に対する
言動じゃないだろ、、そりゃ家庭不和にもなるわな、という感じ
で、妻の非よりも健三の悪い部分を強く描いています。

というのも、『道草』の前に書かれた「こころ」「行人」、さらに
「彼岸過迄」「虞美人草」での登場人物の苦悩は、そんなに深く
醜く描かれてはいないのですが、『道草』の健三は、これでもかと
人間の心に潜む卑しい部分を抉り出していています。

このような「苦悩、嘆きのスパイラル」を描くのは、それでもどこか
に救いや光明が見出せなければ作品として“しまらない”のですが、
例えばフランスの作家、モーパッサンの「女の一生」という作品があり、
一筋の希望や救いはこのように書くのだよ、という手本があります。
『道草』での光明は、ラストの妻の台詞と生まれたばかりの赤ん坊に
接吻するところにあるのでは、と思いました。



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夏目漱石 『行人』

2010-02-20 | 日本人作家 な
『行人』は、漱石の中期の作品で、この頃の漱石は、所属していた
朝日新聞社を辞め、死のふちをさまようほどの大病を患い、それら
が起因しているかどうか、小説の登場人物の心の葛藤がハンパで
はなく、『行人』の前に書かれた「彼岸過迄」では、なかなか結婚
に踏み切れない男を描き、後に書かれた「こころ」では、恋に悩み
自殺した親友を晩年まで思い苦しむ男が描かれます。

『行人』の前後に書かれた作品との特徴というか共通点があり、
まず物語の軸となる登場人物は、語り手による説明あるいは手紙
といったフィルターを通して描かれます。
「こころ」では、先生は長い手紙で自分の過去を明かすのですが、
これがあとがきによると、原稿用紙200枚は用いたほどの長さ
で、『行人』もラストに手紙があるのですが、ことらも負けじと
原稿用紙100枚ほどの量になるそうです。

物語は、学問のみを心の拠り所とし、妻とはうまく接すること
ができず、弟や両親からまでも扱いにくいとされている一郎が、
妻は弟とはこころ安く会話をするのを浮気と思い込み、なんと
妻と弟とふたりで旅行に行ってくれと頼むのです。
結果、何もなく、また妻のほうも一郎と接する術を模索して、
自分を責めていたのです。
しかしそれを知ったところで一郎はますます殻に閉じこもり、
ついには神や前世といった分野に傾倒しだし・・・

いよいよ心配になった弟は兄と交流のあるHに兄を旅行に誘って
もらいます。なんとか旅行に行った兄の様子を、何か変わったこと
でもあれば報告してくれとHに頼みます。
そして、送られてきたのが、原稿用紙100枚量の長い手紙という
わけです。

物語の主軸を語り手によって描くという手法は、エミリー・ブロンテ
の「嵐が丘」で、都会に疲れて田舎に来た青年が、「嵐が丘」と呼
ばれる館で起こった愛憎物語を聞く、という構成に近く、漱石文学
の特徴としては、人物描写を重要なファクターとする考えはイギリス
の作家チャールズ・ディケンズの作品に影響されたとする意見もあり
ますが、「彼岸過迄」から『行人』そして「こころ」へと続く一連の
作風(「彼岸過迄」の前の「虞美人草」も入れてもいい)はブロンテ
に影響されたと考えると、興味深いですね。

「死ぬか、気が狂うか、宗教に頼るか」、ここまで苦悩する一郎。
漱石自身の当時の心の叫びを一郎に投影していたのでしょう。
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夏目漱石 『彼岸過迄』

2010-02-09 | 日本人作家 な
『彼岸過迄』というタイトルは、物語とは関係がなく、大病を患い、
朝日新聞社を辞し、さらに身内の不幸と、辛い状況にあったときに
元日から書き始めて、彼岸のあたりまでに書き上げる予定、これが
タイトルになったのですが、意気込みとして、個々の短編を相合せて
長編に構成されるように仕組む、というもの。

敬太郎という、これといって職もなくブラブラしているような男
がいて、同じ下宿先の森本という男に興味を持ちます。
彼の話す過去はどうも眉唾ものというか、実際、今は新橋の駅で
働いているという情報もちょっと疑わしいくらい。
そんな森本が、家賃滞納のまま中国に渡ってしまうのです。
そして、彼の残していった、持ち手が蛇の奇妙なステッキを敬太郎
に差し上げるという手紙が届くのでした。

ここから須永という敬太郎の友人の話に移ります。全体的にこの
物語は、須永の周りを描いており、それを敬太郎の視点を介して
語られてゆきます。
敬太郎は須永に、職の斡旋をしてもらおうと須永の叔父にあたる
田口という男に頼みます。
ちょくちょく須永の家に行く敬太郎は、ある日家の前に見たことの
ない女性がいるのを見かけます。その女性は須永の家に入ってゆき、
気まずくなった敬太郎は道をうろうろしていると、二階の窓から
須永に声をかけられます。
家に上がった敬太郎ですが、どうにも先程の女性を聞くことはでき
ません。

さて、田口に会った敬太郎は、なんでもすると請け負い、田口に
探偵のまねごとを頼まれます。
それは、市電のある駅で降りる男を見張って、その行動を報告せよ
よというもの。
現場で男の来るのを見張る敬太郎の前に、田口から聞いていた特徴
の男が市電から降りてきますが、それまで敬太郎と同じく駅の前に
しばらくいた女と待ち合わせていた様子。
一部始終を田口に報告し、この男のもとへ敬太郎を向かわせます。
じつはこの男とは田口と須永の親戚で、松本といい、資産があり
働いていない、本人曰く「高等遊民」という存在。
さらに同伴していた女は田口の娘で、いつか須永の家に入っていった
女性だったのです。

須永と田口の娘である千代子は、お互い惹かれているも、須永の
ほうは彼女をどこか恐れていて、煮え切らない態度に千代子は
苛立つも、想いは断ち切れないまま。
須永の母は千代子と息子との結婚を切望しており、しかし須永は
松本に影響されてか、結婚にも人生にも前向きではありません。

このふたりの関係はどうなったか、さらに須永や田口の家庭の事情
などが敬太郎の聞いた話で描かれてゆきます。
都会のいち青年の苦悩を描くという形式ではなく、敬太郎という
ワンクッションを置くことによって、深刻さは感じられません。
本来、物語の主軸となる話を断片として扱うあたりが「吾輩は猫である」
に通ずるものがあります。
序盤の森本の話ですが、最終的には人物そのものはあまり関係がなく
ステッキが「活躍」します。

ちなみに2月9日は漱石の誕生日だそうです。

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