rakitarouのきままな日常

人間様の虐待で小猫の時に隻眼になったrakitarouの名を借りて政治・医療・歴史その他人間界のもやもやを語ります。

岩手山登頂記

2019-08-06 18:44:55 | その他

 3日間の夏休みを利用して岩手山登山に挑戦してきました。実は昨年秋に八幡平のリゾートホテルに旅行で行った際、せっかくだから近くの山に登ろうということで八幡平(1,614m)、三石山(1,466m)、大松倉山(1,400m)に登りました。大松倉山からは岩手山への縦走コースもあって、時間があれば名峰岩手山もすぐそこで行けそうに思い、今年は岩手山を始めから目指して旅行に来ました。

八幡平から岩手山を臨む(昨年)         大松倉山から縦走で岩手山の山頂を臨む(頑張れば登頂できそうな高さ)

 宿泊は昨年と同様八幡平マウンテンホテルに泊まったのですが、安くて食事内容も良く、夜は星空見学説明会を毎日やっていて、都会では見れない奇麗な満天の星空を楽しむ事ができます。昨年秋は土星の輪を固定した双眼鏡で初めて肉眼で見る事ができ感動しました。今年は国際宇宙ステーション「きぼう」が上空を通過する時間に見学会が設定されていて、木星ほどの明るさ(1等星より明るい)のISSきぼうが1分程で上空を通過する様を肉眼で観察できました。

早朝の岩手山 焼走り登山口の近傍(この時は頂上が見えていた)        焼走り登山道のコマクサ

到達した時、頂上付近は霧と風で何も見えませんでした                下山してきて溶岩流の台地から岩手山頂上を臨む(少し晴れているかも)

 岩手山は奥羽山脈北部、盛岡市や新幹線からも眺望できる2,038mの成層火山で、日本100名山に数えられています。有史以来5回の噴火があったとされ、登山道にも第一、第二噴出口など立ち寄る事ができ、麓には溶岩流が流れて広がった焼走りと言われる地形が広がっています。いくつかの登山道があるのですが、今回は往復8〜9時間ほどの初心者向け、焼走りコースで登りました。朝6時前に焼走り登山口の登山者用駐車場(300台位停まれるがガラガラでした)に車を停めて、入り口の手洗い場に設置してある登山届けに記入してから歩き出します。天候がCランクで上空雲が掛かっていたので登山に来る人は少なく、抜きつ抜かれつしながら数人程が同じ時間帯に登りました。途中ホテルで作ってもらったカツサンドを朝食に取って、10:30頃には上坊コースと合流した後の平笠不動避難小屋(1770m)にたどり着きました。珍しいコマクサの多生する場所も通ります。そこから頂上までは40分程なのですが、今回残念ながら頂上近辺は霧と風が強く、頂上を目指したものの手前200m位の所で無理をせず引き返してきました。やー霧で何も見えませんでした。帰りは第二噴出口の辺りでこれもホテルで調達した持参の昼食を食べて降りました。

小川全体に40度くらいの温泉水が流れている場所 足湯可能             焼山への霧と硫黄の匂いが強い登山道で道先案内をしてくれる山カラス         

 その前日は八幡平の秋田県側にある後生掛温泉から200名山の一つである焼山(1,366m)を目指してトレッキングしてきました。4時間程のコースで途中、流れる川全体が温泉になっていて足湯ができる場所などがあるのですが、こちらも霧(雲)が濃くて眺めは今ひとつでした。途中硫黄の匂いが強い禿げ山の通路で先を案内してくれるように飛んだ山カラスが印象的でした。その日は焼山避難小屋に行って毛氈峠方面の別ルートで後生掛温泉に戻りました。

姫神山からの眺望     姫神山から岩手山方面を臨む(この時は岩手山が雲でよく見えませんでした)

 3日目は岩手山を男の山と例えると、その嫁さんと言われるやはり200名山の姫神山(1,123m)に登りました。このクラスだと頂上も雲の下にあって晴れていて眺望も良く、往復2.5時間程度で戻ってきました。午後は車を盛岡で返して新幹線で帰宅、東京はうだるような暑さでした。

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好敵手Curtiss P-40N Warhawk 陸軍一式戦闘機隼

2019-08-06 13:39:14 | プラモデル

 共に1/72でカーチス-40はハセガワ製、隼はフジミ製です。日本製のプラモは作り易く、整合も良いので安心して作れます。共にビルマ戦線で戦ったであろう時期と部隊の設定で作りました(細かい所までは調べていませんが)。私的に惹かれる所は、共に大量に作られて使用された割に、歴史的な戦闘機としての評価がP-51ムスタングやP-47サンダーボルト、或は海軍の零戦ほど高くないことです。

 

フジミ製 帝国陸軍 一式戦闘機隼 ハセガワ製 米国陸軍 カーチス P-40N Warhawk

 Curtiss P-40は大戦初期、汎用できる陸軍機がなかった時にP-36よりも馬力があって頑丈な戦闘機として活用され、13,000機が作られて大戦末期まで中国やソ連でも使用されました。隼の様な身軽さは無かったものの、12.7mm機銃6丁は当時としても重装備であり、一撃離脱で防御の弱い日本製の爆撃機などと戦うには十分な威力を発揮しました。防御力も強く、被弾しても無事に帰れる戦闘機としてパイロット達の信頼を集めたという記録があります。

 一方で一式戦闘機 隼は加藤隼戦闘隊の歌や映画で有名ですが、軽量で運動性能は抜群だったのですが、初期は7.7mm2丁、後期も12.7mm2丁の装備で防御力の強い連合軍機を落とすには非力でした。それでも後に続く2式戦闘機(鍾馗)や飛燕といった陸軍機の稼働率が十分でなかったため、隼は改良しながら長く使われたと言われます。2機並べると設計思想の違いなどが良く解るように思います。

P-40 実機 模型は米軍機ながらダークアースとダークグリーンの迷彩 下面はニュートラルグレー 以降の陸軍機はオリーブドラブ単一塗装かシルバーが多くなって行く。

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