rakitarouのきままな日常

人間様の虐待で小猫の時に隻眼になったrakitarouの名を借りて政治・医療・歴史その他人間界のもやもやを語ります。

不昧因果が大切です

2008-11-23 18:12:38 | その他
不昧因果(ふまいいんが)とは禅問答において不落因果に対する概念として語られるもので「因果をごまかさない」という意味で使われます。ブログなどでも「無門関」第2則「百丈野狐」の公案という出展が記されていますが、私は尊敬する安岡正篤氏の書物に書かれていた時に知った言葉です。かいつまんで出展を述べると、野狐にされた僧が高僧に対して「あなたのように因果を超越した存在になるにはどのような修業をすれば良いのか」と尋ねた所、高僧は「不昧因果」とのみ答えた。野狐は「ああ、そうか」と悟りを開き成仏した、という話しです。

何の事やらという感じですが、解説すると、修業を積めば因果を超越して、不老不死、現世利益、物理の法則も無視して空も飛べるなどというのは人を騙す「野狐」の如く全て嘘いつわりである。ひとつひとつの因果を全てごまかさず、ありのままを受け入れて対応することが悟りを開いた者のありかたである、と高僧に言われて因果に落ちないことが素晴らしいことであるという誤りを悟ったという話しです。単純な話しですが不昧因果というのはそれ自体が修業のようなものでなかなか出来ないことであると常々思います。

ジャズピアニストのチックコリアは、自分の音楽は「素晴らしい」と言われようが、「どんくさい」と言われようが全ての評価は受け入れなければいけない、それがプロの音楽家というものだ、と語ったと言います。これはある意味「不昧因果」を実践したことばと言えましょう。

医師の仕事においても、自分の治療、手術が上手く行く事もあり、合併症をおこしてしまうこともあります。上手く行けば患者さんからも感謝され、自分としても気分が良いのですが、上手く行かなかった場合患者さんからも信頼関係を損ねる場合があります。そんな時つい「この患者さんは他に合併症があったから」とか「進行していて難しかったから」とか言い訳をしてしまいがちです。まあそれが本当にそうであったとしても、患者さんにとってはうまく行かなかった結果は結果であって変えようがない事実です。私はやや辛いのですが、自分が治療した結果については「不昧因果」を貫いてとことん付き合うことが医者として大事だと思っています。「合併症から逃げない」ことが結局は患者さんに信頼しつづけてもらう上で一番大事だと思いますし、それがプロとしての勤めだろうと考えています。

会員制雑誌「選択」に評論家米沢慧氏の「還りのいのち還りの医療」というコラムがあります。表題の通り医療を語る上で「ただ治れば良い、生命を永らえれば良い」という視点でなく「死を意識した医療のありかた」を論じていていつも愛読しています。「選択」11月号のコラムでは、この十月に亡くなった俳優、緒形拳さんの死について論じていました。緒形さんが病気と壮絶な戦いをしながら生きたというよりも病気をそのまま受け入れながら自分の俳優としての生を全うした点が素晴らしいと評していて、「老いる」が老いをいきる、という意味とすれば病いを生きる「病いる」という生き方があってもよいのではないかと提言しています。遺伝子変異が全くない人間はいないのと同様に全く病気がない人間は本人が健康と思っていてもありえないことです。辛い苦しいは困りますが、それが何とか解決がつくならば医療によって死に至る病が見つけられてしまったとしても、それをありのまま受け入れて病とともに平常心で生きることができればこれは「不昧因果」そのものではないかと感じました。

翻って現実の世の中は、いかに因果をごまかそうという事態が多い事か。修業の結果空を飛んだり、現世利益を謳って喜捨ばかり要求するエセ宗教の氾濫、エセ錬金術による経済破綻を各国の借金でとりあえずフタをする人達、争いを根本原因の解決でなく「力」でねじふせようとする国家や集団、などなど日々のニュースの殆どは「不昧因果」を外していると言えます。

世の中、修業が足りないぞ。
コメント
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