殺人や窃盗などの犯人が明確である刑事事件では、犯した罪に対して罰を受ける人は罪を犯した本人であり、責任のある人と取る人は同一と言えます。これは皆が納得できることなのですが、日本においては多くの社会的事案において責任のある人と、起こってしまった損害や障害に対して実際に責任を取って苦労をする人が異なる場合が多々あります。いや実際はそのような事案の方が多いと言えるのではないでしょうか。
例えばバブルの崩壊によって発生した不良資産を粉飾決算して飛ばした結果が後々になって表面化した件など、その当時の会社幹部に遡って責任追及がなされることはなく、表面化した時点での幹部が責任を取って奔走します。バブルの崩壊自体、企業倫理をないがしろにし、バブルに乗って不労所得の獲得に勤めた面々、ソフトランディングさせずに拙いやり方で崩壊させた官僚などはその後責任を追求されたという話を聞きません。苦労をさせられたのはおいしい目を味わわずにその後を継いだ世代の人達です。
原発の問題にしても、今ある分の汚染や廃棄物処理を今後2−300年先までの日本人子孫達に託す事だけでも申し訳ないと考えるのが普通であるのに、どうせだから建設途中の原発も作ってしまいましょうと安易に進める人達(責任取って苦労するのは自分たちではないと決め込んでいる人達)が沢山いる事に日本人の無責任体質の根の深さを感じざるを得ません。福島の事故を考えても、本来責任のあった人達が今苦労をして後始末をしているでしょうか。4次−5次の下請けで自分がどの程度危険な仕事をするのかさえ不明なまま一日1万円に満たない賃金で働いているのは本来福島の原発事故で責任を取るべき人達とは到底思えない方達です(http://blog.goo.ne.jp/tarutaru22/e/840a370be613b007907fd90783480926)。
日本では「組織において責任を取る」という事は「職を辞する」ことと同意であることがそもそもの間違いだと言えます。これは古来責任を取ることが切腹する、死んでお詫びをする、と同意であった文化によるものと思います。問題を起こした人が死んでお詫びをしたのだから、その結果おこった障害を責任のない人が「仕方が無い」と思いながら後始末をし、実際に被害を受けた人が責任のない人が一生懸命後始末をしている様を見て「まあ許してやるか」と譲歩をすることで日本社会は何とか丸く収まってきた訳です。それが腹切りの風習だけなくなり、職を辞すれば責任を取った事になり、責任のない人が謝罪しつつ後始末をし、被害を受けた人はしぶしぶ受け入れることだけが残ってしまったのが今の日本社会です。この日本文化はもう変えてゆく必要があるのではないでしょうか。
本来「責任を取る」とは、問題を起こした人が、引き起こされた障害を責任を持って解決する事を言うのであり、それまではその職に留まらねば解決などできません。問題が起きた原因が人ではなく組織の構造にあるのならば、人に責任を負わせるのではなく、問題となった組織のあり方を二度と同じ問題が起きないように確実に変革させることが正しい責任の取り方と言えます。日本以外の国では「責任を取る」というのはこのような事を言います。勿論問題を起こした人が責任を持って解決できる能力がないならば、他の人が変わって解決しないといけないでしょうが、その際には少なくとも「この人が無能なので」と世間に知らしめてからでないと本来責任のない人が問題解決に奔走する道理が立ちません。
この責任がある人が後始末をしなくてよい社会、というのはある意味「全ての日本人」に「自分の起こした問題は他の人に解決してもらえば良い」という甘えとして潜在的に意識されていると言えなくもありません。社会生活をしていると自分の起こした問題でない事を後始末させられる事も少なからず出てきます。「済みません」と口では謝罪しつつも本来自分の犯した罪ではないからそれほど心が痛む訳ではない。後始末のやり方も「ほどほど」であり、本当に被害者の立場に立ったものになりにくい面もあります。問題はこの「他人の責任を取る」という事態が持ち回りで日本社会全体を巡っている事です。つまり今他人の責任を取って奔走しているA君も、本来彼が取らなければいけない責任を他の人が取っているという事態が起こっていて、A君もそれを当然の事として期待し、是認しているという事です。被害を受けた人もどこかで加害者となり、その責任は他人が取っている事を無意識的に期待し受け入れているからこそ、本来責任のない人が後始末をしている事に文句を言わないという社会が出来上がっているのです。
これは年金の問題、社会保障の問題、派遣労働や卑近な所ではゴミ処理などについても「まあ誰かが何とかしてくれる」という心理につながっているように感じます。あまりにも生真面目に全ての問題に向き合うと息が詰まってしまいますが、少なくとも責任のある地位にある人が「辞める事が責任を取る事」という意識は日本人全ての総意としてそろそろ変えてゆく必要があるのではないでしょうか。
それなら適当に言い訳をして自分のせいではないことでうやむやにしてしまおうと、
うーん、仰るように日本的無責任体制かもしれません。
「PTAの役員選び」のようなものにも顕著ですが、役職を選出した後に責任は役員に押し付けて自らは責任を逃れ、協力的ではなかったりする冷たさ等も想起してしまいました。全員で問題に向き合うというのを苦手にしていますね。役割・役職、鬼ごっこの鬼のようでもありますが責任を押し付けてしまいがち。また、その感覚で器用に分業してしまっているので、責任感がありそうで実はそうでもない。身の潔白を証明しさえすればいいという所がある。伝統的なものなのか今風なのか微妙ですが、どうも無責任型の社会だよなって感じることが在ります。
日本では、武家社会が続いてきた中世から近世にかけて「武士」の在り方・本分が形成されてきました。「恥を晒す」や「おくれをとる」は武士にとって名誉に関わる重大な問題であり、「切腹」や「自害」は武士の名誉を守る行為と認知されていましたから、死を受容した者の名誉のために、「本当の責任」が置き去りになってしまったと私は思います。ですから、問題の棚上げにも似たこの構図は日本の風習でもあり、また「死者に鞭打つ」ことを善しとしない精神性もその風習を助長してきた、と私は思っています。
問題の当事者が問題の責任から離れることを是とするこの日本では、同じ過ちを平気で繰り返しかねない危険性が常に隠れていると思えてなりません。
今後、ブログを少しずつ拝読させていただきます。