rakitarouのきままな日常

人間様の虐待で小猫の時に隻眼になったrakitarouの名を借りて政治・医療・歴史その他人間界のもやもやを語ります。

延命治療と明け渡しについて

2012-04-25 22:44:40 | 医療

延命治療の胃ろう 病院経営の都合で行っているとの懸念あり(NEWSポストセブン) - goo ニュース

 

 現代の三大延命治療は人工呼吸、透析、胃瘻と言われています。自分は透析医療にかかわっていて、自分の患者さんに血液透析の導入を勧めることもあります。延命という意味はその医療行為を継続していないと死亡するという意味と、本来その行為を行なわなかった時点で神が決めた寿命であったものが、それ以上に命を永らえているという意味も含むと考えられます。しかしこの後者の意味付けには異論を持つ方もいると思います。患者さんによっては、呼吸筋が冒される特種な病気のために呼吸器さえつけていれば頭脳明晰であらゆるクリエイティブな仕事をこなせる人もいるでしょうし、透析を受けながら仕事をし社会生活を続けている人も沢山います。胃瘻も同様でしょう。生き甲斐を感じて生活できている人に「君はもう寿命だから」と生きるために必須の手段を「余計なもの」であると見做すことは医療の存在自体を否定することになりかねません。だからといって全ての患者さんが「延命治療を受けながら生き甲斐を感じて生活できている」という範疇に入るとは言えないこともこれらの治療を冷静な目で見ている人ならば誰でも認める事と思います。

 

 では何故延命治療が問題になるかと言うと、患者さん自身が延命治療の要否を決められるか、living willとして健全な状態の時にそういった治療を自分が受けることの是非を家族に明確に意思表示をしていればまだ良いのですが、そうでない場合にその患者さんが「延命治療を受けながら生き甲斐を感じながら今後も生活できる」かどうか決められないため、なし崩し的に延命治療が導入されて、その後「止めるに止められない」状態になることにあります。

 

 人工呼吸は適応となる例も少なく、透析は医療者の関与が大きいために家族は決まった時間医療者に患者を預けることで治療を完結できるのであまり迷うことはないかも知れません。しかし胃瘻については日常家族や介護者の関与する部分があまりに多いためにその負担の重さが問題になる場合が増えてきます。しかも真面目な人ほど痴呆で胃瘻管理の親の介護を延々と行いながら、「親も喜んでいるはずです」と問題視しようとする風潮をかえって批判したりするものです。自分が長期間一生懸命やっている介護を「無駄」などと否定されれば怒るのも当然です。自分の受けた治療は「良い治療だ」と思いたい心理と同じで自分が運命と受け入れたものは周りの人達にも「悪いものではない」と言いたいでしょう。

 

 私は医師として基本的に「また口から食べられる状態になる」見通しが立たないならば胃瘻は作るべきではないと考えます。動物は何であれ口から物が食べられなくなれば寿命です。胃瘻を作れば「間違いなく生き甲斐のある人生をその後も送れる見通しがある人」は勿論例外になりますが、それは一般論から外れた例外に過ぎず、そのような人のために「特種な医療」が必要なのであって「特種な医療」を全ての人にあてはめてはいけないというのがこれら延命治療の問題が我々に教えてくれる教訓なのだと思います。

 

 米沢慧氏の思想である「老いる」「病いる」「明け渡す」つまり老いを受け入れ、病いと共に生き、その時が来たら次の世代に世の中を明け渡す、というのが「還りの人生における正しい生き方」であることを私は推奨します。江戸、明治、大正の先人達は皆そうして現在の世の中を我々に明け渡してくれたのです。次は我々が平成、そしてその後に生まれてくる子孫の人達にこの世の中を明け渡してゆくのが先人からの恩に応える唯一の方法であることを肝に銘じなければいけません。人が死ぬのは次の世代に世の中を明け渡す必要があるからなのです。

 

 その意味で我々の世代は無垢の国土を先人達に明け渡してもらったにもかかわらず、核に汚染された土地と今後千年に渡る核廃棄物の管理という負担を子孫に残すという過ちを犯してしまったとんでもない世代です。数百年後の子孫達に「平成時代の先祖だけは許せない、奴等は自分達の事しか考えていなかった」と言い継がれることを覚悟しないといけないでしょう。限られた資源、限られた国土を確実に次代に明け渡してゆく事を我々は真剣に考えねばなりません。

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