rakitarouのきままな日常

人間様の虐待で小猫の時に隻眼になったrakitarouの名を借りて政治・医療・歴史その他人間界のもやもやを語ります。

若者が怖れ、悩むのは当たり前ではないのか

2008-07-09 22:57:31 | 社会
「誰でも良かった」連鎖する殺意 秋葉原事件一カ月(朝日新聞) - goo ニュース

10代後半から20代前半位の若い頃は、自分は何故生きるのか、どこに吐き出してよいか分らない熱情のようなものをどうすれば良いのか、他の人達は皆訳知りに人生を生きているようだけど、自分はどう生きればよいのか、自分の将来はどうなるのか、怖れ悩みました。取り合えず勉強に打ち込む、スポーツに打ち込むなどして深く考えないようにしたり、友人と話したり、具体的な目的を探したりと暗中模索を繰り返して大人になってきた記憶があります。若い時は「絶対的な自分」と「それ以外の社会や他人」という二つのカテゴリーしかなく、辛うじて家族や親しい友人はその中間にあるといった感覚であるのはきっと今の若い人達も一緒だろうと思います。

無差別に他人を殺してしまおうという衝動は起きませんでしたが、「絶対的な自分」と「それ以外の他人」という感覚と、現代の日常生活において「死」が遠い非現実的な存在であることから、掃き出し口のない熱情を他人の死によって成就させたいと考える若者が出てもおかしくないように思います。勿論それを肯定するつもりは全くありませんが。

無差別殺人には合理的な意味はないし、ある程度おちついた生活をしている大人たちが社会のせいだの、理解不能だのさわいだ所でどうなるものでもないように思われます。問題があるとすれば、大人たちが自分たちだってどうすれば良いか分らずに悩んで大人になってきたくせに、今の若者は分らないなどと自分達が昔から分別のある人間だったような態度を取る事ではないでしょうか。

若い時にどうすれば良いか分らず、悩み、悶々とすることは当たり前のことだし、格好悪い事ではないと言うことを大人達は示してやるべきです。時には「絶対的な自分でないモノ」をめちゃくちゃにしてしまいたい衝動、或いはそれに近い性的欲望に駆られる事もあるでしょう。自分にもその衝動は理解できるけれど、実際にそれをやってはいけない、一線は超えちゃ駄目だよと言ってやらないといかんのです。

私は若い頃は生だの死だのを暗示する「マーラー」の交響曲を諳んじられるほど良く聞いたし、マズローの自己実現とか、フロムの自由からの逃走とか読んで夏休みなどデートするでもなく、悶々と長い休みを過ごしていた記憶があります。まあ暗いというか、今から見ても格好悪い若者だったろうなあと思います。どうも今の若い人達はあまり深く悩んでいないように見えます。満足してないようなのですが、あっさりしているというか、クールというか、そういう深刻にみせないことが「格好良い」ことにつながるのでしょうか。

今の若者に対しては「訳知り顔などせずに、おまえらもっとぶざまに悩んだらどうだ。」と私は言いたい。私がぶざまだったから。でも無差別に他人を殺したいなどという方向に衝動を持ってゆくようなことはしなかったぞ。自分の持つ熱情をどう扱うか、悩んで考えて、それをうまく使いこなすのが若者の責務ではないか。大人はそう言ってやらないといけないのではないかと私は思います。
コメント (2)
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