2023/03/25 東京芸術劇場公演
メインの「春の祭典」は楽しい演奏であったが、ストラヴィンスキー について詳細述べるほど研究していない。2曲目=伊福部昭「シンフォニアタプカーラ」のみの批評である。
井上道義は日本を代表する指揮者であり、25年以上聴き続け、新日フィル「マーラー全曲演奏会」も通して聴いた。20世紀か! 素晴らしい演奏もあれば、何が演奏したいのかが全く分からない演奏も聴いた。最も近い例が、2022.11.12 - 13 のN響A定期 伊福部昭「シンフォニアタプカーラ」であった。1日目、悪くは無いが、メインのショスタコーヴィチ交響曲第10番の方が力が入った演奏、これがFMナマ中継 + 後日土曜日に放映された。公演半月前にインターネット掲載された井上道義インタビューがこれ。
取材 → 原稿起こし から鑑み、公演1ヶ月以上前で、スコアは読みこんでいるが、細かな指示などは全く考えていない、と思われる時期である。同時期にN響が Youtube にアップしたのがこれ。
<引用>
「シンフォニア」とつけられているのは、交響曲(シンフォニー)と呼んでほしくなかったのでしょう。バロックや古典派のシンフォニアのイメージで書いたのでしょうね。
<引用完>
伊福部音楽について、「バロックや古典派のシンフォニアのイメージ」を読んだのは初めてであり、絶大なる違和感を感じ、2日共チケットを購入したことを後悔したモノである(泣
伊福部昭主要管弦楽曲は少ない。
たったこれだけである。しかも
である。37年離れているから気付き難いが。
37年何も作曲しなかった訳では無い。1978年映画「お吟さま」までは映画音楽作曲中心人生、1979年東京音楽大学教授 → 学長人生であった。
覚えて置いて頂きたい。
「シンフォニアタプカーラ」世界初演はアメリカ。初演テープを聴いた伊福部昭は、出来悪さに驚き、それ以降は37年間「技巧的に優れたソリストのためだけ」に協奏曲を書いた。
<引用>
1991年に伊福部さんの《日本組曲》の管弦楽版の初演を振ったときに、いろいろと話をしながら濃厚な時間を過ごしました。リハーサルで、「速すぎる!」「もっと粘って!」「もっと土くさく!」「道義さん、都会っ子すぎる!」といったことをいつも言われました。もっとベタベタした演奏を望んでおられたのですね。今から思えば、あれは伊福部さんとの深いつき合いの時間でした。そのリハーサルで話したことを起点に、今も伊福部さんの曲を振っています。
<引用完>
これを気にした演奏=N響定期初日、第3楽章も「速過ぎず」演奏、悪くは無いが「おどけた面白さ」は無かった。2日目は、テンポ設定が全く異なり速く、「おどけた」感触が前面に出した。井上も「会心の出来」だったのだろう、終演直後左回りに客席向いて指揮棒を頭上にかざした。
この日「音楽大学フェスティバルオーケストラ」は16型、ホルンとトランペットだけエキストラ1名、トロンボーン・チューバ・木管楽器は楽譜通り。
井上道義の指揮は、基本N響「シンフォニアタプカーラ」と同じ。スコアをきちんと追い、曲想に合わせ、上半身を大きく支持を出す。音楽大学フェスティバルオーケストラは東京神奈川の9音楽大学のメンバーを集めたオーケストラ、練習期間&方法は一切分からないが、楽器内音程は極めて正確、tutti は東京芸術劇場の豊かな響きもあり、充分な音量を奏でる。1番奏者のソロになると、N響首席奏者の音量音色には及ばないが、充分に鳴らしてくれた。
井上道義の棒は、2日のN響定期の成果を反映させ、「表情濃い」が印象深い。特に第2楽章の静けさ、第3楽章のおどけ、が濃く映し出され、テンポ設定も大きく揺らす。N響定期2日目に匹敵する情熱を有し、終演直後のポーズも同じ。「井上道義会心の出来」であった。
さすが、オーケストラ版「日本組曲」世界初演指揮者 = 井上道義、「伊福部節」体得している!
あぁ、本日公演(川崎ミューザ)全席完売である><
当 Piano Music Japan で人気の 「作曲家兼ピアニスト・グルダ(1930-2000)」のブログ記事一覧-Piano Music Japan にも掲載しているように、「グルダは真実のみを語るのか?」は、「芸術家の言葉」を偏重するのが如何に危ないモノか、を表している.
同時代ピアニストを比較すると
は誰の目にも明らか。
である。N響発信のインタビューも Youtube もグルダ&グールド程度の発言、と思って頂きたい。
メインの「春の祭典」は楽しい演奏であったが、ストラヴィンスキー について詳細述べるほど研究していない。2曲目=伊福部昭「シンフォニアタプカーラ」のみの批評である。
N響A定期2日目(2022.11.13)伊福部昭「シンフォニアタプカーラ」路線を更に突き進めた名演
井上道義は日本を代表する指揮者であり、25年以上聴き続け、新日フィル「マーラー全曲演奏会」も通して聴いた。20世紀か! 素晴らしい演奏もあれば、何が演奏したいのかが全く分からない演奏も聴いた。最も近い例が、2022.11.12 - 13 のN響A定期 伊福部昭「シンフォニアタプカーラ」であった。1日目、悪くは無いが、メインのショスタコーヴィチ交響曲第10番の方が力が入った演奏、これがFMナマ中継 + 後日土曜日に放映された。公演半月前にインターネット掲載された井上道義インタビューがこれ。
取材 → 原稿起こし から鑑み、公演1ヶ月以上前で、スコアは読みこんでいるが、細かな指示などは全く考えていない、と思われる時期である。同時期にN響が Youtube にアップしたのがこれ。
<引用>
「シンフォニア」とつけられているのは、交響曲(シンフォニー)と呼んでほしくなかったのでしょう。バロックや古典派のシンフォニアのイメージで書いたのでしょうね。
<引用完>
伊福部音楽について、「バロックや古典派のシンフォニアのイメージ」を読んだのは初めてであり、絶大なる違和感を感じ、2日共チケットを購入したことを後悔したモノである(泣
井上道義は伊福部昭主要管弦楽曲を世界初演した指揮者で協奏曲以外では唯一の生存者
伊福部昭主要管弦楽曲は少ない。
- 日本狂詩曲 1935
- 交響譚詩 1943
- ヴァイオリンと管絃楽のための協奏風狂詩曲 1948
- シンフォニア・タプカーラ 1954
- ピアノと管絃楽のための「リトミカ・オスティナータ」 1961
- オーケストラとマリムバのための「ラウダ・コンチェルタータ」 1976
- ヴァイオリン協奏曲第2番 1978
- 二十絃箏とオーケストラのための「交響的エグログ」 1982
- 管絃楽のための「日本組曲」 1991
たったこれだけである。しかも
井上道義世界初演「日本組曲」直前の協奏曲で無い管弦楽曲=「シンフォニアタプカーラ」
である。37年離れているから気付き難いが。
37年何も作曲しなかった訳では無い。1978年映画「お吟さま」までは映画音楽作曲中心人生、1979年東京音楽大学教授 → 学長人生であった。
「シンフォニアタプカーラ」作曲1954年=映画「ゴジラ」封切り であり、映画音楽作曲がそれまで以上に殺到した
覚えて置いて頂きたい。
「シンフォニアタプカーラ」世界初演はアメリカ。初演テープを聴いた伊福部昭は、出来悪さに驚き、それ以降は37年間「技巧的に優れたソリストのためだけ」に協奏曲を書いた。
<引用>
1991年に伊福部さんの《日本組曲》の管弦楽版の初演を振ったときに、いろいろと話をしながら濃厚な時間を過ごしました。リハーサルで、「速すぎる!」「もっと粘って!」「もっと土くさく!」「道義さん、都会っ子すぎる!」といったことをいつも言われました。もっとベタベタした演奏を望んでおられたのですね。今から思えば、あれは伊福部さんとの深いつき合いの時間でした。そのリハーサルで話したことを起点に、今も伊福部さんの曲を振っています。
<引用完>
これを気にした演奏=N響定期初日、第3楽章も「速過ぎず」演奏、悪くは無いが「おどけた面白さ」は無かった。2日目は、テンポ設定が全く異なり速く、「おどけた」感触が前面に出した。井上も「会心の出来」だったのだろう、終演直後左回りに客席向いて指揮棒を頭上にかざした。
さすが、オーケストラ版「日本組曲」世界初演指揮者 = 井上道義、「伊福部節」体得、学生オーケストラでも再現!
この日「音楽大学フェスティバルオーケストラ」は16型、ホルンとトランペットだけエキストラ1名、トロンボーン・チューバ・木管楽器は楽譜通り。
井上道義の指揮は、基本N響「シンフォニアタプカーラ」と同じ。スコアをきちんと追い、曲想に合わせ、上半身を大きく支持を出す。音楽大学フェスティバルオーケストラは東京神奈川の9音楽大学のメンバーを集めたオーケストラ、練習期間&方法は一切分からないが、楽器内音程は極めて正確、tutti は東京芸術劇場の豊かな響きもあり、充分な音量を奏でる。1番奏者のソロになると、N響首席奏者の音量音色には及ばないが、充分に鳴らしてくれた。
井上道義の棒は、2日のN響定期の成果を反映させ、「表情濃い」が印象深い。特に第2楽章の静けさ、第3楽章のおどけ、が濃く映し出され、テンポ設定も大きく揺らす。N響定期2日目に匹敵する情熱を有し、終演直後のポーズも同じ。「井上道義会心の出来」であった。
さすが、オーケストラ版「日本組曲」世界初演指揮者 = 井上道義、「伊福部節」体得している!
あぁ、本日公演(川崎ミューザ)全席完売である><
井上道義 は真実のみを語るのか?
当 Piano Music Japan で人気の 「作曲家兼ピアニスト・グルダ(1930-2000)」のブログ記事一覧-Piano Music Japan にも掲載しているように、「グルダは真実のみを語るのか?」は、「芸術家の言葉」を偏重するのが如何に危ないモノか、を表している.
同時代ピアニストを比較すると
- グルダ → 話題作り最優先派
- ブレンデル → 堅実一貫派
- グールド → 話題作り最優先派
は誰の目にも明らか。
井上道義 = 話題作り最優先派
である。N響発信のインタビューも Youtube もグルダ&グールド程度の発言、と思って頂きたい。