Piano Music Japan

シューベルトピアノ曲がメインのブログ(のはず)。ピアニスト=佐伯周子 演奏会の紹介や、数々のシューベルト他の演奏会紹介等

スメタナ「チェコ舞曲第2集」(No.1810)

2011-03-22 21:37:01 | 作曲家・スメタナ(1824-1884)
 「チェコ舞曲集第2集」の前に「チェコ舞曲集第1集」が作曲されている。2年前の1877年だ。「第1集」はスメタナが生涯を賭けて作曲を続けた「ポルカ」が4曲で構成されており、『スメタナ作曲ポルカの最高傑作』の評価が高い。中でも、第2曲と第3曲は名曲の誉れが高い。sの「チェコ舞曲集第1集」が完成した後もスメタナは「わが祖国」後半の作曲を続けていたのだが、翌年1878年に大事件が起こる。

ドヴォルザークが「スラブ舞曲集第1集」作品46第5番「スコチナー」にて、スメタナ「売られた花嫁」をそのまま引用した!


のだ!
 ドヴォルザーク は スメタナ より17才若い同じチェコの作曲家。スメタナ はリストと親交が篤く「新ドイツ派作曲家」の1派と見なされていた。リスト が開発した「交響詩」を主力に作曲し、ついに

交響詩の最高傑作 = 「わが祖国」作曲途上で第4曲「ボヘミアの草原にて」まで作曲&初演済みだったスメタナ


が、1878年瞬間である。
 一方、ドヴォルザーク は読者の皆様がご存じの通り、「ブラームス直系の保守派作曲家」として世に出た。ベルリンの「ブラームスお抱え出版者 = ジムロック」から新作を出版してもれるように口を利いてもらったのが、1877年。

ベルリンのジムロックからの「委嘱作品第1号 = スラブ舞曲集第1集作品46」だった


のだ!
 それまでも、地元=プラハ では、大作曲家の1人として扱われていた ドヴォルザーク だが『世界的大作曲家委嘱作品第1号』は力が入った。その「スラブ舞曲集第1集」全8曲の内、唯一「他の作曲家からの引用」をしたのが、「スメタナの売られた花嫁」なのだ。
 ドヴォルザーク「スラブ舞曲集第1集」は超有名なように「ブラームスのハンガリー舞曲集」を手本にしながら(ジムロックの委嘱条件!)、「5つの曲名」を使い分けた。

  1. フリアント(1番&8番)


  2. ドゥムカ(2番)


  3. ソウセツカー(3番&4番)


  4. スコチナー(5番&7番)


  5. ポルカ(6番)



 これは

ドヴォルザーク による「舞曲史上の大革命」


だった。
 ハイドン&モーツァルトの時代から、「舞曲集」は人気があり、シューベルト が大人気を取る。ショパン や リスト や シューマン や ブラームス も倣う。J.シュトラウス ファミリーも無限かと思われる曲数を作曲。しかし、「同じ曲種だけでつなげる」だった。
 ベルリンを中心とした「ドイツ圏」の音楽ファンは「次々と現れる異国情緒あふれる舞曲集」に心を奪われ、1878年5月のピアノ連弾オリジナル版出版と同時に爆発的人気を得た。その人気の力に押され、「全曲管弦楽版」も同年の内に出版された! (ちなみにブラームスは「ハンガリー舞曲集」の内、自分自身で管弦楽化したのは1番、3番、10番の3曲のみ)


 「チェコ舞曲集第1集」までは「ポルカの曲集」ばかり作曲していた スメタナ は、上記の通り、特に他の作曲家に比べて、時代遅れだったわけではない。リスト や ブラームス と同じ作曲法だっただけである。
 ドヴォルザーク「スラブ舞曲集第1集」の人気は、ドイツ語圏内だけでなく地元チェコでもすさまじかった。
・・・と言うよりも、プラハの方が驚喜していたようだ。「管弦楽版」が出版される遙か前の 1878年5月16日に(管弦楽化が完了していた)1番+3番+4番 だけで「世界初演」したのは、プラハだった。もちろん、スメタナ も目の前で繰り広げられた熱狂を目の当たりにした。


 翌1879年に 連作交響詩「わが祖国」作曲を完了すると、「チェコ舞曲集第2集」全10曲に没頭する。全10曲に別の名前を与え、「ポルカ」は1曲も含まなかった。
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