ぱたの関心空間

関心空間と徒然なるままに。

ナージャの村@ギャラリーヒルゲート

2011-09-03 15:43:03 | 映画感想
OTODAMAもMETAMORPHOSEもEL LATINO20周年記念イベント『秋一番!』も中止にしやがった台風。それを尻目に向かうヒルゲート@寺町三条。
ギャラリーさんですよー。

一階では「貝原 浩『風しもの村』原画展-ぼくの見たチェルノブイリ-」
二階では「本橋 成一・スズキ コージNOMORE ATOMIC ENERGY!ゲンパツイラナイ展」
そして、二階の奥では「ナージャの村」の上映。

時間ギリギリに到着。
二階に上がると狭いスペースはもういっぱいに。後ろの方におとなしく座るとすぐ上映時間でした。

「ナージャの村」はベラルーシ共和国にあるドゥヂチ村の一年を追ったドキュメンタリー。
ちなみに、ドゥヂチ村は地図から消されているのだという。

!?

チェルノブイリ原発の事故で汚染された村は、政府から立ち退きを求められているが、それでも6家族が残り生活を続けている。村に入るには「STOP」と表示された車止めの柵を超えていかなくてはいけない。

ドゥヂチ村の暮らしは、春になれば畑を耕し種を植え、夏から秋に収穫し冬に備える。自家製のウォッカを作り、家畜を育て、ポルカを踊り、墓を守る。何の変哲もない、素朴なロシアの農村の暮らしだ。

映画でも、それを淡々と映し出すばかり。
「原発反対だ」とか「放射能怖い」とか、そんな言葉は全然出てこない。
最後の方にちょろっとだけ映る村の中の「汚染地帯危険」という標識と、村に入る検問の柵。それにちょっと皮肉を込めた老人のセリフがなければ、単にベラルーシにある寒村のドキュメンタリーにすぎない。
儂らは、この村がチェルノブイリ原発事故で汚染されていると知ってそういう目で見ているから、映画全体に放射能汚染の影を感じているが、そうじゃなかったら本当に何とも思わないだろう。

淡々と繰り返される(物質的には)質素なしかし(人間的には)豊かなくらし。

しかし、なんの事もないように、収穫する野菜にも。庭で遊んだり川に行ったりするナージャたちにも放射能の影を思わずにはいられない。辛い思いで見ている儂らの事なんか関係なしに、村人たちは昔ながらの暮らしを繰り返すだけだ。精々、2つ3つの恨み言を言うくらいなものだ。

「第二次世界大戦の時に、ナチスがこの村に来て戦場になった時でも、村の人たちは生き延びてきた。でも、今度のはダメかもしれない。」
きっと決定的に違うのだ。放射能という「敵」は。

「サマショーロ」というのだそうだ。
政府が、村を廃村にし移住するように言っているのに、それに従わずにいる「自分勝手な人」という意味らしい。
ただでさえ、(何の罪もないのに)苦しみを負う覚悟をしている人たちを、さらに蔑み傷つける言葉がトツクニにもある事に虚しさを覚える。人間と言うのは本当に残酷な生き物なんだ。

原発事故や報道を見聞きしている時にぬぐえないなんとも言えない違和感をずーっと感じていた。

そうだ。

放射能をみんな問題にしているんだよね。これくらいの放射能レベルなら安全だとか、危険だとか。
でも本当に問題なのは「放射能」ではなく「命」なのにな。

原発の是非をみんなが言い立てる。経済のためには電力供給が大切だ、国際競争力のためには原発の技術が大切だ、とか。
でも本当に大切なのは「経済」ではなく「人々のくらし」を守る事なのにな。

ドゥヂチ村には当たり前のように命をいつくしみ、当たり前のようにくらしを守る人が、「サマショーロ」と呼ばれながら暮らしていた。

翻ってこの国で、今本当に大事なものはなんだ?

答は明白、と思っている人は一体どれくらいいるのだろう?

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