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パンダ イン・マイ・ライフ

ようこそ panda in my lifeの部屋へ。
音楽と本、そしてちょっとグルメなナチュラルエッセイ

ビートルズのすべて 2 イギリスを制覇(5)

2011-04-17 | ビートルズ
その後もレコード会社を回り、EMI系列のパーロフォン・レーベルとレコーディング契約を結ぶ。

そこで製作を担当していたのが、ジョージ・マーティンである。
歌、演奏、4人の個性的な人柄に惹かれたという。しかし、ドラムのピートの力量には難色をし、ピートは、解雇されることになる。ハンブルグ時代に競演したことのあるリンゴ・スターに参加を要請。4人の顔ぶれが出揃うことになる・
リンゴは1940年(昭和15年)7月7日にリバプールに生まれる。3歳のときに両親が離婚し、病弱であった。テディボーイ気取りのリンゴは、職場でスキッフルバンドを結成し、その後、ドラマーとして3人と交流を深めた。
しかし、マーティンはリンゴのドラムにも難色を示した。それゆえ、デビュー曲「ラヴ・ミー・ドゥ」はリンゴのドラムではなく、スタジオミュージシャンを起用した。
さらに「ラヴ・ミー・ドゥ」にも難色を示したが、彼らの意思を尊重した。「ラヴ・ミー・ドゥ」は、全英17位のヒットになった。
63年(昭和38年)に入り、1月に第2弾「プリーズ・プリーズ・ミー」を発表、2月には念願の全英1位を獲得した。
4月にデビューアルバムの『プリーズ・プリーズ・ミー』を発表、63年11月に2作目の『ウィズ・ザ・ビートルズ』が発表されるまで29週、1位を続ける。
「プリーズ・プリーズ・ミー」。ビートルズのすばらしいハーモニー。ジョンのブルースハープ。リンゴの小気味いいドラムス。ポールのストレートなリードボーカルとベースライン。変化に富んだメロディライン。

2回目に紹介された曲は、「マイ・ボニー」「いい娘じゃないか」「ハロー・リトルガール」「ライク・ドリーマーズ・ドゥー」「プリーズ・プリーズ・ミー」の5曲であった。

ビートルズのすべて 2 イギリスを制覇(4)

2011-04-10 | ビートルズ
61年の秋、リバプールの家具店のレコード部門を任されていたのが、ブライアン・エプスタインである。
1934年9月19日生まれ。俳優を志すも断念し、父の家業を手伝っていたが、キャバーンクラブに出入りしているうちに彼らの引かれ、ビートルズのマネイジメントを申し出た。これが、ロンドン進出、イギリス制覇、アメリカ進出、世界制覇へとの出会いとなる。

ブライアンは、出演料の交渉やレコード会社への売り込みを開始する。

62年1月1日に名門デッカレコードオーディションを受けさすが、不採用となる。その中には、ジョンの処女作である「ハロー・リトルガール」、ポールがソロをとる「ライク・ドリーマーズ・ドゥー」があった。
「ハロー・リトルガール」は、バックコーラスのすがすがしさ、曲の構成はさすがと思わせるが、インパクトに欠けるか。「ライク・ドリーマーズ・ドゥー」は、ポールにしては荒削りに聞こえる。
「ハロー・リトルガール」「ライク・ドリーマーズ・ドゥー」とも、「ビートルズ アンソロジー1」で聞くことができる。

ビートルズのすべて 2 イギリスを制覇(3)

2011-04-03 | ビートルズ
そして、2度目のハンブルグ公演を行う。
しかし、その間、シュツアート・サトクリフが脱退し、ポールがベースを担当するようになる。また、
トニー・シェリダンのバックに起用され、「トニー・シェリダン&ザ・ビート・ブラザーズ」として始めて公式レコーディングを行った。それが、「マイ・ボニー」だ。
また、トニー抜きで、ザ・ビート・ブラザーズとして、ジョン・レノンのボーカルの「いい娘じゃないか(エイント・シー・スイート)」」、インストゥルメンタルナンバーのビートルズのオリジナル曲「クライ・フォー・ア・シャドウ」もレコーディングされた。

「マイ・ボニー」は、果敢なギターソロ、カッティングの小気味いいサイドギターなど、ビートルズサウンドがある。「いい娘じゃないか(エイント・シー・スイート)」は、しゃがれたジョンの声、小気味のいいポールのベースライン。ジョージの粋なソロが堪能できる。

「マイ・ボニー」「いい娘じゃないか(エイント・シー・スイート)」「クライ・フォー・ア・シャドウ」の3曲とも、「ビートルズ アンソロジー1」の1枚目に収録されている。

ビートルズのすべて 2 イギリスを制覇(2)

2011-03-27 | ビートルズ
地元のアートスクールの学生たちが、ビートルズ目当てに訪れるようになる。
クラウス・フォアマンは、後にビートルズのジャケットを手がけ、ベーシストにもなった。、
アストリッド・キリッヘルは、写真を通し、ビートルズの可能性を探った。

そんな折り、ジョージが未成年、メンバーの滞在許可証の不所持などから、メンバーは順次、国外退去の憂き目に会う。

リバプールに帰り、意気消沈したメンバーだったが、やがて活動を再開。
1960年の暮れ、リバプールのホテルでハンブルグから来たビートルズとして凱旋公演を実現。皮のジャケット・パンツなどリバプールのグループとは異なるファッションが話題を呼ぶ。それにも増して、派手なアクションステージ、野性味あふれるエネルギッシュな演奏は大きな評判を呼ぶ。まさに、ハンブルグで確立した、ロックンロールを取り入れたビートルズサウンドがここにあった。

そして、リバプールのキャバーンクラブなど、さまざまな演奏の機会が増え、派手なステージ展開は評判を呼んだ。

ビートルズのすべて 2 イギリスを制覇(1)

2011-03-21 | ビートルズ
カルチャーラジオ「芸術その魅力 ビートルズのすべて」の2回目は、「プリーズ・プリーズ・ミー」(Please Please Me)。ビートルズ、イギリスを制覇。リバプール、ハンブルグ 、そして、ロンドンへ・・・である。

1960年(昭和35年)8月、ビートルズはハンブルグ巡業を行う。
ハンブルグはドイツ北部の港町。緯度もリバプールと同じような位置にある。その最初の拠点はワインドアクラブ.
歓楽街にあり、寝泊りも隣の映画館であった。そんな劣悪な労働条件の中、当初、客の反応は冷淡で、リバプールとは違うショウアップしたステージ内容が求められた。演奏時間も1時間が、8時間ぶっ続け。のどがつぶれるほど歌わなければならない、また、客に受けるための派手な動き回るステージパフォーマンス。そして、最初から最後までフルボリュームでの演奏など。客はこれを喜び、ファンを増やした。持ち歌だけでは要望に応えられず、最新のヒット曲を次々とレパートリーとして取り入れた。

恐ろしいほどの曲を覚え、なんでもやった修行時代だったと、ジョージは語る。

ビートルズのすべて 1 ビートルズの登場(5)

2011-03-20 | ビートルズ
1959年(昭和34年)、バンドのメンバーはジョン、ポール、ジョージの3人が中心となり、バンド名が「ジョニー&ザ・ムーン・ドッグス」となる。

1960年(昭和35年)、スチュアート・サトクリフがジョンに誘われバンドに加入。ベースを担当し、バンド名は、「ザ・シルヴァー・ビートルズ」になる。サトクリフは、1940年6月23日生まれの知性派で芸術、文学、映画に精通し、メンバーことにジョンに影響を与えたという。
1960年(昭和35年)5月にツアー参加、やがて、ビートルズに名前を変える。ビートルズの由来は、お気に入りのロックンローラー、バディ・ホリーのバンド名「バディ・ホリー&ザ・クリケッツ」のクリケッツ(こおろぎ)にあやかって、同じ昆虫のかぶとむしの名前、Beetlesではなく、Beatlesとしたといわれている。
また、ドイツのハンブルグ公演の誘いがあったが、バンドにドラムスがいなかったので、ピート・ベストに声をかけた。ピートは、1941年(昭和16年)11月24日生まれ。ピートの母親がクラブを開店し、ジョンやポールが出演していたことからハンブルグ公演に参加することとなった。
ビートルズの修行の場となったドイツ、ハンブルグへの旅が始まるのである。

第1回目で紹介された曲は、「ラヴ・ミー・ドゥ(Love Me Do)」「ロック・アラウンド・ザ・クロック(Rock Around The Clock)」「ハートブレイク・ホテル(Heartbreak Hotel)」「ロック・アイランド・ライン (Rock Island Line)」「ザットオール・ビー・ザ・ディ(That'll Be The Day)」の5曲であった。

ビートルズのすべて 1 ビートルズの登場(4)

2011-03-13 | ビートルズ
メンバーの紹介。
ジョンは、1940年(昭和15年)10月9日生まれ。幼い頃に両親が離婚。エルビス・プレスリー、ロニー・ドネガンを知り、ギターを引き歌い始めた。
ポールは、ジョンの知り合いの紹介でジョンと出会う。1942年(昭和17年)6月18日生まれ。家庭環境もあり、小さい頃から音楽に親しんだ。ポールもロックンロールやスキッフルとの出会いでギターに親しんだ。1956年(昭和31年)、14歳で母が死去し、処女作を書く。57年(昭和32年)7月にジョンと出会い、ザ・クォーリーメンに参加する。
また、そこにポールの紹介で、ジョージも参加することになる。ジョージは1943(昭和18年)年2月25日生まれ。ポールは学校で出会う。兄とスキッフルグループを結成していた。

いよいよ、1958年(昭和33年)、ザ・クォーリーメンは自主作成のレコードを1枚作る。3人のほかに、ジョン・ロー、コリン・ハントンの5人組だった。
A面にザットオール・ビー・ザ・ディ「That'll Be The Day」(バディ・ホリーのカバー曲)。ジョンがリードボーカル、ポールがコーラス。B面に「In Spite Of All The Danger」(ポールが書いた曲)を収録。ジョンがリードボーカル。この2曲は、1995年(平成7年)に発売された「ビートルズ アンソロジー1」の1枚目に収録されている。


ビートルズのすべて 1 ビートルズの登場(3)

2011-03-06 | ビートルズ
直接的な影響は、ロックンロールの登場だ。
1955年(昭和30年)のアメリカ映画「暴力教室」の主題歌、「ロック・アラウンド・ザ・クロック(Rock Around The Clock)」は、1954年(昭和29年)4月にアメリカで発表された。ビル・ヘイリーと彼のコメッツの曲。イギリスでも8週間全英チャートの1位を飾った。
さらに、アメリカで登場したエルビス・プレスリーが、1956年(昭和31年)3月にハートブレイク・ホテル(Heartbreak Hotel)で英国デビューする。次々にロックンロールがアメリカから紹介されてくる。

もう一つ、1956年(昭和31年)、ロニー・ドネガンの「ロック・アイランド・ライン (Rock Island Line)がヒットし、スキッフルミュージックブームがやってくる。
これは、アメリカのジャズバンドを元に、アメリカのフォークブルースやイギリスのフォークをもとに、イギリスで開花した。その楽器構成は、ギターと、茶箱に箒の柄を貼り付け、弦を張ったチェストベースや、洗濯板で、簡単に手に入るものであり、素朴で親しみにあふれた曲で、多くのアマチュアのスキッフルミュージックのグループが登場する。

このような戦後の都市の荒廃と、焼け跡とというの風俗の中で、音楽的には戦後の文化であるロックンロールをベースに、そして、楽器を演奏しながら歌うというバンドスタイルの中で、ビートルズは、1957年(昭和32年)、デビューの5年前、ジョンが結成したスキッフルグループのザ・クォーリーメンが母体となった。

ビートルズのすべて 1 ビートルズの登場(2)

2011-02-27 | ビートルズ
ビートルズのメンバーは、ジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスン、リンゴ・スターの4人。
デビューは1962年(昭和37年)10月。デビュー曲は、ラヴ・ミー・ドゥ(Love Me Do)だ。第1回はビートルズの登場「ラヴ・ミー・ドゥ(Love Me Do) ビートルズのデビュー」

まず、4人が生まれ育ったリバプールの紹介から。
リバプールは、イギリス南部のイングランドの北西部にある。この町は、17世紀末に商業都市となり、18世紀には北アメリカ、西アフリカを結ぶ、大西洋貿易の拠点となり、奴隷貿易で発展した。19世紀初頭、産業革命により、鉄道交通の拠点となり、19世紀末にはロンドンに告ぐ第2の都市、イギリス第1の港と成長した。最高80万人近い人口を有し、工業交易都市として栄えるが、第2次世界大戦時空襲爆撃を受ける。
1940年台後半綿貿易繊維産業の衰退もあり、1950年から斜陽化した歴史がある。
戦後、復興から放置されたこともあり、メンバーも幼少時焼け跡を遊び場とした育ったと言う。

戦後復興の中で、若者の文化風俗の新しい動向が生まれる。
その一つとして、雇用から締め出された若者は、特異なファッションに身を包み、食堂や街路にたまり場としてたむろし、粗野で乱暴な行動を通し、社会への反抗の姿勢を示した。ジョンやリンゴもテディボーイを気取ったものの、実際にはなりきれなかった。
2つ目は、戯曲や文学における、アングリーヤングメン「怒れる若者たち」の登場だ。ことに映画化された怒れる若者たちの作品は、ビートルズ登場の背景となった.

ビートルズのすべて 1 ビートルズの登場(1)

2011-02-20 | ビートルズ
サザンの桑田佳祐が、昨年の7月、食道がんを公表した。まさに同年代のわたしとしては、身につまされた。その桑田が回復し、年末の紅白に出演していた。医療のすごさと回復力に驚嘆した。
妻の原由子が、朝日新聞土曜日の「あじわい夕日新聞」に、桑田の病気について書いていた。看病も大変だったであろう。原が桑田の手術の時に、聞いていたのが桑田の大好きなビートルズだった。それも1枚目から順番に聞き、心配がピークに達したときが、「レット・イット・ビー」だったという。。

そして、今年の正月3が日は、NHKラジオ第2で、夜、カルチャーラジオ「芸術その魅力 ビートルズのすべて」を放送していた。2010年はビートルズの解散から40年目にあたった。音楽はもとより、社会にも大きな影響を与え、世代や時代を超えて愛されているビートルズとは。その音楽の魅力を振り返り、足跡をたどる3日間であった。
13回にも及ぶ30分番組の解説は、音楽評論家の小倉(おぐら)エージ。結構、アカデミックな番組で、テープおこしをしながら、この番組の魅力を紹介することにする。