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パンダ イン・マイ・ライフ

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音楽と本、そしてちょっとグルメなナチュラルエッセイ

ビートルズのすべて 12 ビートルズの音楽を集大成(5)

2014-04-27 | ビートルズ
そうして「アビイ・ロード」においてソングライターとして、大きな評価を得たのがジョージでした。ジョージが書いた「サムシング(Something)」は、ジョージの作品としては、初めてビートルズ名義でシングルとして発表され、しかもA面で、トップにはならなかったものの好成績を収めました。また、フランク・シナトラをはじめ、幅広い分野の多くの歌手にカバーされるなど、ビートルズが生んだ名曲・傑作として名を連ねることになります。
では、「サムシング(Something)」をお聞きください。

そしてポールは、ポールならではといえる大衆的な親しみのあるポップスナンバーを披露しました。ロックバラードの「オー!ダーリン(Oh! Darling)」、昔なつかしいグッド・オールド・ディズ風のラグタイム的な「マックスウェルズ・シルヴァー・ハンマー(Maxwell's Silver Hammer)」などです。加えて、彼が熱意を持って取り組んだB面のメドレーにおいて光っていたのが、「ゴールデン・スランバーズ(Golden Slumbers)」です。
1603年に書かれた子守唄の楽譜を見つけたもので、ポールは楽譜が読めませんが、歌詞に感動し、それに新たにメロディを付け加えたという作品です。

ビートルズのすべて 12 ビートルズの音楽を集大成(4)

2014-03-23 | ビートルズ
ジョンの作品では強烈な印象を残すものがあります。その1曲が、アルバムの幕開けを告げる「カム・トゥゲザー(Come Together)」です。
「カム・トゥゲザー(Come Together)」は、ヒッピームーブメントのリーダー的存在だったカリフォルニア州知事選挙に出馬する予定だったティモシー・リアリーの選挙のスローガンを基にしたものです。冒頭の歌詞・メロディはチヤック・ベリーの「ユー・キャント・キャッチ・ミー」から引用したもので後に裁判沙汰にもなりました。
そして、ジョンの作品としては、「アイ・ウォント・ユー(I Want You (She's So Heavy))」があります。すでにゲット・バック・セッションの初期に基本的なレコーディングがされ、後にダビングを重ねて完成されたものです。ハードなギターサウンドがフューチュアされたブルースベースのナンバーで、ビートルズの作品の中では、実験的な「レヴォリューション9(Revolution 9)」を例外として、最も演奏時間の長いものです。
そして、「アイ・ウォント・ユー(I Want You (She's So Heavy))」は、ホワイトアルバムにおける「ヤー・ブルース(Yer Blues)」などの流れを組むジョンならではの作品です。
その 「ヤー・ブルース(Yer Blues)」は、当時のイギリスのロックシーンにおける最新のトレンドとなっていた、ブルース、ブルースロックを意識したものでした。
イギリスでは60年代半ば以降、リズム・アンド・ブルース、ソウルミュージックに続いてブルースが脚光を浴び、ブームを呼んでいくことになります。後年のギター演奏を前面に打ち出したブルースロック。それもエレクトリックパワーを全開にしたハードロックの原点となったものです。
その先駆者にあたるのは、ジョン・メイオールであり、彼の率いるブルースブレイカーズには、ヤードバーズ出身のエリック・クラプトンも参加しました。後にローリング・ストーンズの一員となるミック・テイラーも在籍していたことがあります。そして、ブルースブームを広く浸透させることになったのが、ブルースブレイカーズ出身者を中心にピーター・グリーンが結成したフリートウッド・マックです。ジョンは、そういったブルースバンドにいささか批判的な目を向けていたこともあったようですが、「アイ・ウォント・ユー(I Want You (She's So Heavy))」では、フリートウッド・マックの代表曲で、後年サンタナのヒット曲で知られる「ブラック・マジック・ウーマン」風の展開も見せています。
では、「アイ・ウォント・ユー(I Want You (She's So Heavy))」をお聞きください。

ビートルズのすべて 12 ビートルズの音楽を集大成(2)

2014-02-11 | ビートルズ
「ゲット・バック」は、ビートルズの原点に戻る、ライブにその魅力があるとうことで、4人の演奏を主体にライブを行うというのがそのテーマでした。同時にすべて新曲を用意し、それをライブで披露するというプランも意味があったわけですが、その新曲というのがいささか問題点・課題になったことも明らかだったようです。
「僕が一番つまらなく感じるのは、バンドの全員で演奏しなくなったことだ。ツアーを止めてからは、レコーディングのときしか顔を合わせなくなった。だから、レコーディングセッションもリハーサルなしでやることになった。それで時々、気が滅入るようになった。ビートルズはこの数年、音楽的にまとまっていなかった。いいレコードをつくるテクニックは随分身につけたけれど、音楽的には作業に結びついていなかった」というのは、ゲット・バック・セッションを振り返ってのジョンの言葉ですが。それはこの「アビイ・ロード」でも言えたようです。

新曲のリハーサル以前に新曲に関してできあったものは、作者の意向に即してレコーディングが行われる。しかも、作者にはすでにレコーディングについての何らかのイメージがあり、それを実現しようとする。その結果作者以外のメンバーは単に作者のイメージを具体化するための演奏者でしかないといったレコーディングが進められていったわけですね。また、作者が断片を持ち込み、それをセッションで完成させていく場合にも同じようなことが起こっていったわけです。
ジョージが語るには、ポールの作品にそうした傾向が強く、ポールが求めるもの意外はその演奏を許さない。それがポールとジョージの対立を生み、ジョージがグループを一時離れるという事態を生んだことは以前、お話ししてきたとおりです。その後メンバーの説得によりメンバーに復帰したジョージに対し、ポールは以前と違って敬意を持って接するようになったとも語っています。
ともあれ、ポールにしろ、ジョンにしろ、作品の断片のいくつかはあっても、作品としては未完成のままであり、そこから新曲をつくり、レコーディングを始めるというプロセスは当たり前のようになっていたわけです。
そうした事態の対処として、ポール、ジョージ・マーティンはかつて、「サージェント・ペパーズ」に収録された、いくつかの作品のように、断片を持ち寄り、それをつなぎ合わせることを思い立ちます。

ビートルズのすべて 12 ビートルズの音楽を集大成(1)

2014-02-09 | ビートルズ
「ビートルズのすべて」のラス前の12回目は、「アビイ・ロード(Abbey Road)」 ビートルズの音楽を集大成です。

アルバム『アビイ・ロード』にまつわるエピソードを中心に紹介していきたいと思います。
『アビイ・ロード』が発表されたのは、69年9月26日でした。『アビイ・ロード』はビートルズのアルバムの中でもその人気・評価も高く、最高傑作としてあげるファンも少なくありません。昨年、ビートルズのオリジナルアルバムがリマスタリングして発売され話題を呼びました。
レオ・モノラルのボックスセットともに、オリジナルアルバムは単体で発売されました。さる資料によれば、欧米で最も売れたアルバムは、「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド(Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band)」 でしたが、それに対して、日本では「アビイ・ロード(Abbey Road)」だったという結果を知り、とても興味深く思えました。というものそれは、日本におけるビートルズの親しまれ方・評価を物語るものではないかと思えたからです。
さて、『アビイ・ロード』ですが、前回お話したように、ビートルズにとって11枚目のオリジナルアルバムにあたります。実際には最後に発表されたアルバム、『レット・イット・ビー』。そこに収録された作品の元になったゲット・バック・セッションに次いで行われたセッションにおける作品を収録したものです。そして、ビートルズにとっては最後にレコーディングされたアルバムということになるわけです。
さまざまな資料によればこの『アビイ・ロード』のレコーディングが行われるようになったのは、69年の7月1日ということですが、収録された作品には、それ以前にレコーディングされたものもあるようです。
69年1月から映画の撮影と並行して行われ、後レコーディングだけに専念して行われたゲット・バック・セッションは収録作品を定め、完成しながら発表が見送りとなっていました。この「アビイ・ロード」は、それから漏れた作品も含め、新たなアルバムのプランのもと実施されることになったわけです。
ビートルズの原点に戻るということをテーマに始められたゲット・バック・セッションがそうであったように、『アビイ・ロード』のテーマもポールの提案によるものでした。それもゲット・バック・セッションに当初関わりながら最終的な仕上げ作業から離れていった、かつてのプロデューサーのジョージ・マーティンの復帰をポールが望み、それを説得、ジョージ・マーティンもそれを了解し、制作を務めることになります。

ビートルズのすべて 11 解散への足踏み(12)

2013-10-27 | ビートルズ
さて、フィル・スペクターの制作によって完成されたアルバム『レット・イット・ビー』("Let It Be")は、先にシングルとして発表された「ゲット・バック(Get Back)」、それからタイトル曲の「レット・イット・ビー(Let It Be)」が最大のハイライトといえるでしょう。

そうしたなかにゲット・バック本来の姿勢に立ち戻る、原点に立ち戻るというテーマに即して、タイトル曲とともに興味を引いたのが、ジョンの作品の「ワン・アフター・909(One After 909)」です。ビートルズの初期の作品で、学校をさぼってポールの家で書いたというエピソードがあります。そして、初期に録音されながら発表には至りませんでした。もっともその一部がアンソロジーで紹介されたことがあります。ここで 『レット・イット・ビー』から「ワン・アフター・909(One After 909)」をお聞きください。

ほかにジョンの作品では、ジョン自身が好きな曲として挙げている「アクロス・ザ・ユニヴァース(Across The Universe)」などが収録されています。さらに、ジョンとポールの共作で、ルーフ・トップ・コンサートでも聞き物であった「アイヴ・ガッタ・フィーリング(I've Got A Feeling)」なども見逃せません。そして、ジョージは「アイ・ミー・マイン(I Me Mine)」「フォー・ユー・ブルー(For You Blue)を提供しています。ではここでジョージの「アイ・ミー・マイン(I Me Mine)」をお聞きください。

ポールの作品では、「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード(The Long And Winding Road)」で、バラードを得意とする彼の個性が発揮されています。がそれにもまして聞き物は、「レット・イット・ビー(Let It Be)」でしょう。さまざまな問題を抱え、悩み続けていた彼が亡き母を夢に見てその声を聞いたというのがこの作品が生まれるきっかけになったということです。では最後に「レット・イット・ビー(Let It Be)」をお聞きください。  


ビートルズのすべて 11 解散への足踏み(11)

2013-10-20 | ビートルズ
そして、発表が先送りとなっていたゲット・バック・セッションのアルバムは映画の編集を終えるととともにアルバム自体いくつかの修正を加え、映画の公開とともに発表されることになりました。それが、『レット・イット・ビー』("Let It Be")です。

いくつかの修正というのは、映画でジョージのアイ・ミー・マイン - I Me Mine がジョンとヨーコが踊るシーンで起用されていたことから、新たに録音されたこと。そして、アルバムそのものがフィル・スペクターの手に委ねられることのなり、ストリングス、女性コーラスが追加録音されたことでした。
そうした結果、ポールの「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード - The Long And Winding Road)」など、編曲サウンドが大幅に改められることになったわけです。

ジョンは、くずのような作品を、みごとに仕上げてくれたんだからとフィル・スペクターに賛辞を寄せましたが、ポールは彼の意図に反するものであり、作品をないがしろにしたとして、フィルに対する嫌悪感を隠しませんでした。
後年、グリーン・ジョンズが制作し、完成させたマスターをもとに一部改変された作品を含む「レット・イット・ビー...ネイキッド (Let It Be... Naked)」が発表され、話題を呼んだものです。


ビートルズのすべて 11 解散への足踏み(10)

2013-10-14 | ビートルズ
さらにその年の暮れには、ジョージがアメリカの「ディラニー・アンド・ボニー・アンド・フレンズ」の一員として行動を共にするようになります。そのデラニーとボニーのコンビは一般的にはその存在は知られてはいませんが、60年代終わりから70年代半ばまでのアメリカイギリスでのロックシーンにおいて多大な影響を及ぼすなどロック史を語るに欠かせない存在です。
デラニー&ボニーは、アメリカの南部に根ざすリズム・アンド・ブルース、ゴスペルなど、ルーツミュージックを継承し、ソウルレビュースタイルのバンドに、後に脚光を浴びたレオンラッセルをはじめ、いろんなミュージシャンを抱えていました。ブルースベースのハードロックのグループ「クリーム」を経て、「ブラインド・フェイス」を結成したエリック・クラプトンが、デラニー&ボニーに心酔し、ブルースについて多くを学ぶことになります。後に結成した「デレク・アンド・ドミノス」も「ディラニー・アンド・ボニー・アンド・フレンズ」の主要なメンバーでした。
ジョージも「ディラニー・アンド・ボニー・アンド・フレンズ」の一員となるばかりか、後の主要作のメンバーとして、フレンズの面々を起用することになります。さらにジョンとヨーコも「ディラニー・アンド・ボニー・アンド・フレンズ」と交流を持つようになっていました。

ディラニー・アンド・ボニー・アンド・フレンズ「カミング・ホーム」

ボーカルはディラニーですが、エレクトリックギターは、エリック・クラプトンです。

ビートルズのメンバーはそれぞれにソロ活動を開始し、リンゴは、スタンダードナンバーに取り組んだ、「センチメンタル・ジャーニー」を発表。ポールも自身のソロ作に取り組み始めます。


ビートルズのすべて 11 解散への足踏み(9)

2013-10-06 | ビートルズ
10月はビートルズデビュー記念で、久々の「ビートルズのすべて」を続きを。1962年10月5日に「プリーズプリーズミー」でデビューしたビートルズ。
さて、『アビイ・ロード』が録音され、発表されるまでの間、ミュージック界では歴史に残るいくつかの出来事がありました。

7月5日にハイザポークでローリング・ストーンズのコンサートが実施されます。本来はオリジナルメンバーのブライアン・ジョーンズに代わってミック・テイラーが参加しての最初のコンサートになるものでしたが、ブライアンジョーンが7月2日に死去。ブライアンの追悼コンサートとなったものです。
そして8月15日から3日間にわたってニューヨーク郊外のベセルでウッドストック・ミュージック・アンド・アート・フェアが開かれました。40万人もの観客を動員し、後に記録映画が公開されるとともにロックシーンに残る伝説のイベントとして語り継がれることになります。さらに8月31日、イギリスのワイト島でもロックフェスティバルが開かれ、ボブ・ディランがザ・バンドを従えて登場。ジョンやジョージもそれにはせ参じました。

それまでにジョンとヨーコはプラスチック・オノ・バンドを結成し、「平和を我等に(Give Peace a Chance)」を発表。9月13日にはトロントピースフェスティバルに出演し、エリック・クラプトンをバックにして演奏しました。


ビートルズのすべて 11 解散への足踏み(8)

2013-02-24 | ビートルズ
前後して、ビートルズの身辺にはいろいろなことがありました。それまでビートルズのメンバー自身が行っていたマネージメントを、ローリング・ストーンスなどを手掛けていたアメリカ人のアライ・クラインに委ねることになります。もっとも、ポールはそれに納得せず、やがて結婚することになるリンダの父、リーにマネジメントを任せることを提案するなど、ビジネス面でのトラブルがそれからしばらく続くことになります。

そして、69年3月、ポールとリンダ・イーストマンが結婚。3月20日にはジョンとヨーコが結婚。しかも、ジョンとヨーコは、二人の結婚を機に、アムステルダムで、愛と平和を提案したベッドインを実施することになります。ベッドインはトロントでも実施され、ジョンはヨーコとのいきさつをテーマにした、「ジョンとヨーコのバラード(The ballad Of John and Yoko)」を発表することになります。おもしろいことに「ジョンとヨーコのバラード(The ballad Of John and Yoko)」は、ビートルズ名義で発表されたものの、ジョンとポールの2人でレコーディングされた作品でした。

「ジョンとヨーコのバラード(The ballad Of John and Yoko)」

さて、それまでにゲット・バック・セッションでレコーディングされた作品は、ミキシングエンジニアを務めたグリン・ジョンズによってアルバムとして2度完成されましたが、キャンセルとなり、発売は見送られることになります。
そして、ビートルズは新たに『アビイ・ロード』に取り組むことになります。それもポールの提案によるもので、再びジョージ・マーティンをプロジュースに迎えたものでした。

しかし、ビートルズの人気は衰えることを知らない。2月1日の新聞に、また、アナログ版レコードアルバムが発売されたとある。1枚3,800だが、ホワイトとパストは2枚組みで4,800円。ボックスセットで14枚59,800円252ページのブックレットが付いているという。そのブックレットに惹かれたが、思い出の時間は、そのときに買ったレコードで再現するものだろう。構えて聞くアナログ版の2枚目を買うことはないな。



ビートルズのすべて 11 解散への足踏み(7)

2012-10-14 | ビートルズ
それぞれが、持ち寄った曲、あるいはその断片を元にセッションが始められ、その作者の意向のままにレコーディングが進められる。ほかのメンバーには協力や参加を求めるよりも、自分の意向に即した演奏を要求する。
ポールとジョージの対立もそうしたことに起因したものでした。もっともジョージはメンバーの説得によりグループに復帰します。同時にレイ・チャールズの公演で見かけた、オルガン奏者のビリー・プレストンに声をかけ、セッションへの参加を誘います。ビリー・プレストンは、かつてハンブルグ時代、リトル・リチャードのバックを務めていたことから、ビートルズのメンバーには懐かしい人物でした。ビリー・プレストンの参加を得て、セッションははかどり、新曲が次々に生まれていきます。
そして、ライブを実現するという当初の目標は、彼らの本拠、アップレコードの屋上にステージを設置し、それを実現させます。そしてレコーディングされた作品の中から、「ゲット・バック」がニューシングルとして発表されました。

「ゲット・バック(Get Back)」

ゲットバックはイギリスアメリカそして日本でもヒットし、その内実と裏腹にビートルズの健在を示す作品となります。しかし、その後が続きませんでした。