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パンダ イン・マイ・ライフ

ようこそ panda in my lifeの部屋へ。
音楽と本、そしてちょっとグルメなナチュラルエッセイ

ビートルズのすべて 11 解散への足踏み(6)

2012-10-07 | ビートルズ
一昨日、10月5日は、ビートルズのデビューの日。「プリーズ・プリーズ・ミー(Please Please Me)」のレコードが発売されました。実は映画「007-ダブルオーセブン」シリーズも封切りの日。そして、同時に50年を迎えました。

ビートルズのメンバーの中では、ジョージがボブディランやザ・バンドの音楽に心酔し、実際に深い交流を持つことになります。ゲット・バック・セッションが行われるしばらくの合間、ジョージはアメリカで、ボブディラン、ザ・バンドと交流を深め、セッションを行っていました。そうしたことからイギリスに戻っゲットセッションに参加したところ、そのセッションのあり方に疑問を持ち、特にポールとの対立からしばしグループを離れることになります。

当初、セッションに参加していたジョージマーティンも、「衝突が多くて。方向が定まらず、このときはほんとうに舵取りもいなかった。彼らはお互いが気に入らず、喧嘩ばかりしていた」というのがセッションの実情だったわけです。

ジョンが当時を振り返って語るには、「ビートルズが頂点に達したときには、もう互いにほかのやつらの鼻をへし折ろうとしていた。ある種のフォーマットに押し込めなきゃって無理することで、僕たちの曲作りの能力にも演奏力にも歯止めをかける結果になった」と語って言います。さらに続けて、「ずっとずっと昔から4人はいっしょだった。その結果どうなったかといえば、退屈もあり、いろんなことがあって、プレッシャーがのしかかり、それに押しつぶされちゃった。そうなるとみんなお互いのあら捜しを始める。自分たちしかいないから、互いにぶつけ合うしかないんだ」と語っています。

ビートルズのすべて 11 解散への足踏み(5)

2012-09-23 | ビートルズ
66年、バイクによる事故により隠遁生活を送っていたボブ・ディラン67年、復帰作として発表した「ジョン・ウェズリー・ハーディング」はシンプルなロックスタイルによるもので、以後、ボブディランはカントリーミュージックをはじめ、アメリカのルーツ音楽への回帰への姿勢を明らかにします。

ここで、ボブディランの曲、ジョージがゲットバックセッションで取り上げた、「アイ・スリュー・イット・オール・アウェイ - I Threw It All Away」をお聞きください。

激しいシャウトといいますか、60年代半ば、フォークから、フォークロックへと転向したボブディランは、ワイルドな叫び声を上げていたわけですが、今お聞きのようになめらかな歌声で、しかもカントリーミュージックへ傾倒していったわけです。サイケデリックロックやブルースロックが全盛を極めようとしていた時代にあって、もうこれはもう非常に異色的な出来事で、当時は話題になりました。

さて、ビートルズにとってボブディランとともに大きな刺激、という以上に大きな影響を受けたのが、ザ・バンドの存在だったようです。
ザ・バンドはボブディランのバックバンドを勤めた後、デビューしたものです。ザ・バンドは世の風潮、当時の多くのロックバンドが価値観を断ち切り、反戦や反体制運動に関わり、支援することが多かったのに対し、反抗に対する反抗の姿勢を明確に打ち出していました。それは伝統に根ざした音楽に敬意を払い、それを継承し、現代化すること。また、世代間の断絶に関して、親と子、家族、親族の絆の重要さを訴えていたことなどです。
では、ここで、ザ・バンドの「ザ・ウエイト」をお聞きください。


ビートルズのすべて 11 解散への足踏み(4)

2012-09-22 | ビートルズ
さて、ビートルズが、ゲット・バック・セッションに取り組んだ、69年前後、ロックミュージックは大きな変革期を迎えていました。これまで、60年代のロック革命といったことを触れてきましたが、それをリードしてきたのは、まぎれもなくビートルズとボブディランです。

9回目のエピソード、愛こそはすべてで触れてきたように、67年の夏、ヒッピームーブメントを背景にしたサマー・オブ・ラブがありました。それらと深いかかわりのあったサンフランシスコを本拠とするジェファーソン・エアプレーンやグレイトフル・デッドなどが脚光を浴び、サイケデリックロックが大きな盛り上がりを見せ、それはイギリスなどにも波及していきます。

前後して、60年代半ば以降、イギリスでは、リズム・アンド・ブルース、ソウルミュージックに続いて、ブルースロックが脚光を浴び、ブームを呼ぶことになります。そして、それはやがてハードロックの原点の一つとにもなっていきます。

社会的には、反体制運動、反戦運動が大きな盛り上がりを見せ、そうした動向を反映した作品も数も多く生まれていました。そうした中にあってビートルズとともに、60年代のロック革命の担い手として、時代の先端を歩み、ロックシーンに多大な影響を与えてきたボブディランが音楽的な方向を改め始めます。

ビートルズのすべて 11 解散への足踏み(3)

2012-09-17 | ビートルズ
原点に戻るというポールの発案から、ゲットバックセッションとして語られるようになったレコーディングは、69年の1月、映画スタジオにおいて、そのリハーサルが開始されます。

ホワイトアルバム終了後、前回も紹介しましたが、リンゴによると「バンドのよさを取り戻した」という言葉もありましたが、実際のところ、ゲットバックセッションにおいて、さまざまな曲のリハーサルが行われ、その断片なども含め、最終的には100曲以上もの作品が演奏されたとのことでしたが、なかなか思うようにこことははかどらなかったようです。

さて、演奏した作品には、ゲットバック、原点に戻るというテーマに習うように、ビートルズ初期、それもハンブルグ時代に彼らがカバーした、リズムアンドブルース、ロックンロールのクラシックナンバー、たとえば、エルビス・プレスリーの作品ですね、それからビートルズ初期に書かれながらレコーディングしないままにあった作品、同時にボブディランの最新の作品なども含まれていました。


ビートルズのすべて 11 解散への足踏み(2)

2012-09-16 | ビートルズ
発案者は、ブライアン・エプスタイン亡き後、グループの先頭に立って、グループを牽引してきたポール・マッカートニーでした。

「ライブをやらせれば、僕ら最高のバンドだ」という認識のもと、とにかく演奏さえ続けていれば、何もかもすべて帰結するんじゃないかと思ったんだ」というポールの言葉がそれを裏付けています。もっともその言葉は意欲や意気込みにあふれるものというよりも、ホワイトアルバムの制作時における、ビートルズ内部での亀裂、緊張関係などを解決し、崩壊状態を目の当たりにした、ポールの切ない願いを物語るものではないかと思います。

同時に新曲の曲作り、リハーサル、レコーディングの過程を撮影し、最終的にはライブコンサートを披露するというプランも含まれていました。当初はテレビ番組での放映が予定されていましたが、それが頓挫し、映画で公開するプランに改められることになります。

ビートルズのすべて 11 解散への足踏み(1)

2012-09-09 | ビートルズ
いよいよ11回目になりました。「『レット・イット・ビー(Let It Be)』 解散への足踏み ビートルズの終末」です。

アルバム『レット・イット・ビー(Let It Be)』について触れていきたい。

かつてビートルズに親しんできた方、また、ビートルズの軌跡、足跡をご存知の方であれば、今回のテーマに首を傾げられる方もおられるかもしれません。

前回テーマにしてきたのは、ビートルズ9枚目のオリジナルアルバムである『ホワイトアルバム』でした。それに続いて発表されたアルバムは「アビイ・ロード - Abbey Road)」です。ま、そうした経緯からすれば、今回は、「アビイ・ロード」の話をするのがふさわしいことになります。もっともビートルズの足跡をたどっていけば、アルバムの発表順こそ、「アビイ・ロード」が先になるが、実は「アビイ・ロード」は最後にレコーディングされたアルバムです。
そして、発表の順序こそ「アビイ・ロード」の後になりましたが、「レット・イット・ビー」に収録された作品は、「アビイ・ロード」より先に収録された作品でした。もっとも、レコ-ディングを終え、作品として完成しながら発表が見送られました。同時にレコーディングの模様は撮影され、映画化される計画がもたれていたが、その完成が遅れたこともあって、しばしお蔵入りすることになりました。
ビートルズは、「ホワイトアルバム」の発表後、新作のレコーディングに取り組みます。そのアイデアとしては、ビートルズの本来の姿、その原点に立ち戻り、ライブバンドとして、アルバム作りに取り組むというものでした。

ビートルズのすべて 10 グループから声(9)

2012-08-26 | ビートルズ
再びリンゴの証言。「ホワイトアルバムのレコーディングが終わったとき、僕らはもう一度バンドらしさを取り戻していた。僕はずっとバンドというものを愛し続けている、バンドが好きなんだ」と。
私が感じるのは、4人が一体化した、グループとしてのバンドサウンドではなく、作品によってそれぞれの個性が際立つ、バンド的サウンドでした。それには、この「ホワイトアルバム」の多くの作品がインドでギターにより書かれた作品であること、そして生まれた原曲、断片をもとにギターによるアンサンブルを主体とした作品が目立っていることも、この「ホワイトアルバム」の特徴になっている。ギターバンドらしいバンドサウンドということになるか。
では、最後にリンゴのボーカルをフューチャーした作品を聞くことにしよう。リンゴがホワイトアルバムで、はじめて単独で書いたオリジナル作品を発表した。
「ドント・パス・ミー・バイ(Don't Pass Me By)」だ。すごく魅力的な作品です。しかし、リンゴのボーカルが利ける作品と問えば、「グッド・ナイト(Good Night)」 ではないでしょうか。「グッド・ナイト(Good Night)」を聞きながらお別れしたと思います。

ビートルズのすべて 10 グループから声(8)

2012-08-19 | ビートルズ
ビートルズのレコーディングの現場に妻であれ、ガールフレンドであれ、女性がそばにいることは、それまでめったになかったことでした。
さらにヨーコはジョンに意見を求められれば、率直に自分の意見を述べることもあった。レコーディングにおいて、メンバーやプロデューサ、エンジニア以外の人間がレコーディング作品に口を挟む、意見を述べる、批評をすることなど、ありえず、考えられなかったわけです。
そして、ヨーコはジョンの作品、ザ・コンティニューイング・ストーリー・オブ・バンガロー・ビル - The Continuing Story Of Bungalow Bill)」
の一節でソロをとり、それからコーラスにも参加します。ビートルズのレコードに女性のソロボーカルが入ったことは初めてのことであった。
ポールは、「ジョンはヨーコなしではいられなくなった。彼を攻めることはできない。二人は激しく愛し合っていたんだ。初めて経験する熱情にあふれていた。だけど、彼女がアンプに座るのが不愉快だった。あの時はとてもやりにくかった。ジョンがグループを離れたのは、ヨーコとの関係の障害になるものをすべて清算するためだったんだと思う。そんな中、ジョンは何も清算できないでいた。彼はビ-トルズという大きな重荷を背負っていた。その重荷とは僕らと関わり続けることだった」と語っている。


ビートルズのすべて 10 グループから声(7)

2012-08-12 | ビートルズ
ジョンとヨーコの出会いは1966年11月9日にロンドン、インデカ・ギャラリーでのヨーコの個展、未完成の絵画とオブジェでのことでした。開催前日のプレビューショーに招かれたレノンは、そこに展示されていた作品「天井の絵」に惹かれます。以後、ジョンはヨーコの活動をサポートします。
ロンドンのリッスン・ギャラリーで、すべてのオブジェが半分の形で展示された『ハーフ・ア・ウィンド・ショー("Half-A-Wind Show")』がそれであった。
その後アップルから『「未完成」作品1番:トゥー・ヴァージンズ("Unfinished Music No.1: Two Virgins")』として発売されたテープを共同で制作して以来、親密な関係になったとされている。

ジョンは、ヨーコとの出会い、関係について「夢中になってしまったので、シンシアとの結婚は止めざるを得なくなった。それにヨーコといると自由になれる。いっしょにいると完全な自分になれると」。常に自分自身を探してきたジョンにとっては「実に自分にふさわしい存在だった」と語っている。さらにヨーコは女性について教えてくれた。僕は、エルビスやほかのスターのように仕えられることに慣れていた。ミミおばさんであれ、だれであれ、いつも自分は女性に尽されるだけだった。しかし、ヨーコはそれを受け入れなかった。彼女はビートルズをへとも思っていなかった。ビートルズが何だって言うの、私はオノ・ヨーコよ。私を私として扱って。と、彼女は出会ったときから、対等の時間、対等の空間、対等の権利を要求した。と語っている。

ビートルズのすべて 10 グループから声(6)

2012-08-05 | ビートルズ
たとえば、リンゴはポールにいつもどおりのドラムがたたけなかったことを非難されたことをきっかけに一時グループを離れることになる。ポールがジョージのギターを気に入らず、やり直しをさせるばかりか、はなからギターをジョージにやらせるつもりはなくて、ポール自身がギターをやると宣言して、ジョージを怒らせるということもあったそうだ。
リンゴが言うには僕がグループを離れた理由は2つある。一つは自分が優秀なプレーヤーではないと感じていたから。もう一つは、ほかの3人がほんとうに楽しそうで、自分が部外者みたいに感じたからだ」とその理由を挙げている。そして、そんなリンゴはジョンを訪ねて「僕はグループを辞める。僕はうまくないし、君たちに好かれていなくて孤立しているみたいに感じる。君たち3人はほんとうに仲がいい。そんな風にリンゴがジョンに語ると、ジョンは「仲がいいのは君たち3人の方だろう」といったそうだ。そして、ポールを訪ねて、ポールに同じことを言えば、「それは君たち3人の方だろう」といったそうだ。そして、リンゴはジョージを訪ねて、「僕は休暇をとる」といって子供とサルジアに出かけた。
このようなリンゴとジョン、ポールの言葉が当時のビートルズの関係を物語っているのではないか。さらにジョンが、オノ・ヨーコと親密な仲となり、ジョンがヨーコを連れてスタジオにも入るようになったこと、常にヨーコをそばにいさせることになったことが、メンバー間の関係をぎくしゃくしたものにしていったようなこともあったようだ。