近所に住む友人が、ビニールの買い物袋を差し出して言った。
「息子が釣ってきた烏賊と、ばあさんが作ったキリギリスの餌さ」
中身を確かめるまでもない。
烏賊と胡瓜の差し入れなのだ。
私は、とびっきり美味しい烏賊が食べられると思うと、嬉しくなった。お店で買う烏賊とはまるで味が違う。去年もいただいたので、よく分かっている。
鮮度の問題だと友人はいう。釣った後、すぐ凍らせてあるので、海に泳いでいる時のままの味が保てるのだと。すぐ冷凍庫に入れておくようにと、友人は指示した。
先日、久しぶりに見た漁火を思い出した。
夜のとばりが下り、深い闇に閉ざされた海上のはるかに、漁火は、町の灯よりも賑やかだった。数がどんなに多くても、どこかもの寂しいのが漁火だ。
友人が帰った後、「漁火」は夏の季語だろうな、と思いながら歳時記を調べた。
が、出ていない。では、春? と思い直して調べたが、そこにもない。勿論、秋にも。海上のしける冬期の季語であるはずはない。
広辞苑、その他を調べても、季語としての説明はない。
あの風情ある漁火の状景を、どうして季語として認めないのだろう?
疑問に思いながら、烏賊そのものは季語にあるのだろうか、と調べてみた。
烏賊という季語はない。が、下記の言い方が、夏の季語としてあった。
「烏賊釣」 「烏賊釣火」 「烏賊釣船」 「烏賊火」
人魂の祭のごとし烏賊釣火 渡辺恭子
天に海に烏賊船の火のともりそむ 原 石鼎
水天の闇を烏賊火の二分けに 中村将晴
三句とも、状景をうまくとらえている。
歳時記には、季語(「烏賊釣」)の説明を、次のように述べている。
<烏賊は昼間は海深く沈み、夜になると水面近くに浮き上がってくる習性がある。種類が多く地方によって漁期も異なるが大体夏期が多い。灯を慕って集まるので、集魚灯を照らして漁をする。<烏賊釣火沖ゆらぐごと増えにけり 大澤ひろし>のように、烏賊釣り船の灯が海上に連なる景は、美しくまた涼しげである。(以下略) [倉田紘文]>
別の本によると、昼間、烏賊は二百メートルの深海を遊泳しているのだそうだ。習性とはいえ、ご苦労な話だ。海中には、沢山の未知が潜んでいるらしい。
漁火という季語はなかったが、それに代わる季語が存在したことで安心した。
かつて勤めをしていたころには、日暮れて帰宅するごとに、日本海沖の漁火を眺め、その折々の情趣に浸ることも多かった。今は日暮れまでに帰宅する慣わしなので、めったに漁火を眺めることも、その妖美や寂寥感を味わうこともない。
一度だけ、烏賊釣船に乗ってみたいと思っていた。夜の大海原の浪や風を一身に感じながら、日ごろ、自分の住んでいる煩わしい人里をはるかから眺めつつ、海上を揺蕩うてみたかった。
その話をしたら、私の幼馴染の友達が、乗船を約束してくれた。だが、彼はそれを果たさず、突如他界した。
漁火を眺めるとき、友人の死を悼む思いからも、逃れることができない。
いただいた烏賊は、極上の味であった
(写真は、友人から貰った烏賊と胡瓜)