ぶらぶら人生

心の呟き

猛暑到来!

2006-07-26 | 身辺雑記

 蓋あけし如く極暑の来りけり   星野立子

 夏空になった。もう梅雨は明けたと言っていいのだろう。気象庁からの発表はまだないけれど。(追記 夜のニュースで、九州・四国・山口県の梅雨明けが発表された。当地の梅雨明けも、間もなくだろう。)
 外に出てみると、どこまでも深く、青い、夏の空が広がっている。そして、まぶしい日差しだ。黒い屋根瓦も赤い屋根瓦も、発光塗料を撒き散らしたように、チカチカと眩い。
 長く続いた梅雨の後だけに、酷暑は激しい勢いで到来した感じだ。
 上句の比喩は、突然訪れた猛暑の感じをよく表している。今日は、そんな日だ。

 今朝、鉢の水遣りに、外に出たとき、庭に蜻蛉の群れが乱舞していた。先日、川掃除のとき、川原で見た蜻蛉と同種らしい。しかし、なぜこんな水もないところに? と不審に思った。生活水や山からの水の流れる側溝は、家の横にもある。雨が続くと、結構水嵩を増し、音を立てて流れる。が、こんな汚水同然のところでも、蜻蛉は羽化するのだろうか?
 季語では、「蜻蛉生る」というらしいが、長く田舎に生活しながら、蜻蛉誕生の瞬間を見たこともないし、「やご」と呼ばれる期間、水中にどんな形で棲んでいるのか、それも知らない。
 
 そこばくの風にきらめき蜻蛉生(あ)る  北光星

 
この句を読んだとき、生命誕生の瞬間を自分の眼で見てみたいと思った。
 それを知らないからといって、何の不都合もないことではあるが、きっと感動があるだろう。昆虫の生態に限らず、もっと知っておくべきことも、知らないままに生きてきた。無知蒙昧も甚だしい、と思うことが多い。
 生きる時間に暇ができて、初めての発見のように、知らぬことを一杯抱えていることに気づかされたのだ。そして、今は、知らなくても支障のないことまでも、無性に知りたくなっている……。もう余生はそう長くないというのに。

 私は赤蜻蛉は秋のものと思い込んでいた。川掃除の日、近所のタケシさんから目の前を乱舞しているのが赤蜻蛉だと聞いて、納得しがたい思いだった。
 今しがた、つれづれに歳時記を眺めていて、私の思い込みも間違いではなく、タケシさんの言い分も正しいことが分かったので、書き記しておこう。。
 今朝見た蜻蛉も、川原で見たのも、季語上では「夏茜」というのだそうだ。

<赤蜻蛉の一種で、秋茜とよく似ているので、胸側斑で区別するしかない秋茜は夏の間は涼しい高原や山にいて蚊などを食べ、体が黄色から赤くなると、秋風とともに平地の水辺へ戻ってきて交尾、産卵する。夏に平地などに飛んでいる赤蜻蛉が夏茜である。[檜紀代]> (注・下線の挿入は私)

 
赤蜻蛉にも、「夏茜」「秋茜」と、異なる種類があるということ。
 これが今日の学習!
 夏茜、秋茜、いずれも美しい言葉だ。
 
 朝のひととき、私の眼を楽しませてくれた夏茜は、「炎昼」の今は、どこかへ身を潜め、休憩中なのだろう。
 猛暑・酷暑・極暑・溽暑など、いかにも暑そうな字面を眺めて、うんざりしていても仕方がない。
 私もクーラーの部屋に身を潜め、たまった手紙や暑中見舞いの返事を、今日は書き終えることにしよう。なすべきことを果たせば、気分だけでも爽やかになるだろう。

 
[余禄]
 ① 今日の「折々のうた」の説明文の中に、<みな親を知らずに育ち蝌蚪の国 原尚久>という句があり、先日「蝌蚪」のことをブログに書いたので、眼にとまった。そういえば、親を知らずに育つ動物もいるのだ、と改めて首肯したり、「蝌蚪の国」という巧みな表現で、水中に群がるオタマジャクシの世界をよく言い表していると感心したりして……。
 ② この頃、「歳時記」をよく眺める。身辺に関わりのある事象が多くて面白い。私は昔から辞書を読むのが好きで、暇な時は辞書を読んできた。ただ最近は、持ち重りするのがだんだん苦痛になり、電子辞書に頼ることが多い。こちらは薄型なのに、広辞苑・漢字源・英和、和英・中日、日中辞典などの機能を揃えていて、便利さ、この上なしである。
 したがって、最近の余暇の楽しみ方は、「辞書(電子辞書)」+「歳時記」を読むこと。

 

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