岡井隆編「集成・昭和の短歌」(小学館)
芝生田稔(1904~1991)<宮地伸一選より>
前回の前川佐美雄とは、生没が丁度一年異なるだけで、ほぼ同時代を生きた人である。それでいて、歌の質がまるで違うのが面白い。
難なく、歌に共感できるのは、芝生田稔(しぼうたみのる)の方である。立ち止まって考えるまでもなく、歌意がすっと心に届き、共感の思いが広がる。
あひともに午後をすごして言ひしこと夜ふけてはかなく思ひ浮かべつ
亡き母の日記のことを父は言ふ早熟にして意気地なかりしわが幼年を
何もかも受身なりしと思ふとき机のまへに立ちあがりたり
(昭和16年、墨水書房刊「春山」より)
若き者すでに戦争をおそれずと知りたる時にわれはをののく
色ならば寒色なりと二十五年つれそふ妻がわれを言ひたり
すでにしてわれと妻との残年をやや切実に思ふことありし
命長ければみじめに死にて行く実例一つまたここに見ぬ
父母の悪しき遺伝もそれぞれに子らは負ひ持ち人となりゆく
トランペット悲しき音とわれは聞く吹く若人の悲しみのごと
煩ひも若き日のそれと異なると嘆きて長く床に覚めゐる
(昭和40年、白玉書房刊「入野」より)
紛争はかならず結着に至るもの太平洋戦争のその終りすら
滅亡しても惜しくない人類かと思ひてゐたりとどのつまりに
老い老いて死(しに)をおそるる心すらほけゆくさまをわが想像す
魂(たま)消えてむくろ汚く残れるを人のこの世の業と言ふべき
苦しみて書けざる文にわが向ふ少年の日の作文のごと
きほいつつかなかな鳴きし朝々も茫々として遠き思ひす
今日しみじみと語りて妻と一致する夫婦はつひに他人ということ
堀田善衛氏に我はあらねど方丈記を隠者の文学と我も思はず
また転びてズボン破れる憂鬱は妻に語らず二階に上る
窓の入日まどかに紅きころとなり二十年の日月まぼろしのごと
(昭和57年、短歌新聞社刊「冬の林に」より)
日々の生活の中で、湧き出す思念を詠った歌が多く、身近さを感じる。内省的、知性的な生活姿勢や感性が感じられ、人間の生き方、心の在り方を、読むものにも訴えかけているように思う。
肉親に触れた歌、生と死、人生の末路を詠った歌など、誰しも考えざるを得ない問題だけに、心を打たれる。