長田弘「死者の贈り物」の後半の詩から。
(前16行省略)
どこの誰でもない人のように
彼はゆっくりと生きた人だった。
死ぬまえに、彼は小さな箱をくれた。
「大事なものが中に入っている」
彼が死んだ後、その箱を開けた。
箱の中には、何も入っていなかった。
何もないというのが、彼の大事なものだった。
(「箱の中の大事なもの」より)
(前3連省略)
誰もが人生を目的と考える。ところが、
世界は誰にも、人生を手段として投げかえす。
彼女は思う。人生は目的でも、手段でもない。
ここから、そこへゆくまでの、途中にすぎない。
ノーウェア、ノーウェア、地図にない町。
けれども、目を瞑れば、はっきりと見える町。
一生を終えて、彼女は、初めてその町へ
一人で行った。そして再び、帰ってこなかった。
(「ノーウェア、ノーウェア」より)
(前2連省略)
この世界は、
ことばでできている。
そのことばは、
憂愁でできている。
希望をたやすく語らない。
それがその人の希望の持ち方だ。
木があった。
ことばの木だ。
その木の影のなかに、
その人は静かに立っていた。
(「その人のように」より)
(前3連省略)
人生に、真実なんてない。
窓から差し込む日の光と同じくらい、
それは、はっきりとした事実だ。
いつも、黙っていた。
しかし、沈黙のなかで
いつも、雄弁だった。
そのようにして、静かに、彼は
一生をおくった。誰でもなかった。
彼はあなたのような人だった。
(「あなたのような彼の肖像」より)
夕暮れ、緑の枝々が影をかさねる
林ののこる裏通りの小道の向こうから、
彼が走ってきた。大きな犬に引っ張られて、
息を切らして、すれちがいざまに、
ふりむいて言った。――今度、ゆっくりと。
約束をまもらず、彼は逝った。
死に引っ張られて、息を切らして、
卒然と、大きな犬と、小さな約束を遺して。
いまでもその小道を通ると、向こうから
彼が走ってくるような気がする。だが、
不思議だ。彼の言ったこと、したことを、
何一つ思いだせない。彼は、誰だった?
あらゆるものを忘れてゆく。
(以下3連省略)
(「あらゆるものを忘れてゆく」より)
(前18行省略)
ひとは結局、できることしかできない。
あなたはじぶんにできることをした。
あなたは祈った。
(「砂漠の夕べの祈り」より)
(前33行省略)
ひとは生きて、存在しなかったように消えうせる。
あたかもこの世に生まれでなかったように。
(「夜の森の道」より)
大きな樹があった。樹は、
雨の子どもだ。父は日光だった。
樹は、葉をつけ、花をつけ、実をつけた。
樹上には空が、樹下には静かな影があった。
樹は、話すことができた。話せるのは
沈黙のことばだ。そのことばは、
太い幹と、春秋でできていて、
無数の小枝と、星霜でできていた。
樹はどこへもゆかない。どんな時代も
そこにいる。そこに樹があれば、そこに
水があり、笑い声と、あたたかな闇がある。
(6行省略)
悲しい人たちがやってきて、去っていった。
この世で、人はほんの短い時間を、
土の上で過ごすだけにすぎない。
仕事をして、愛して、眠って、
ひょいと、ある日、姿を消すのだ。
人は、おおきな樹のなかに。
(「アメイジング・ツリー」より)
「砂漠の夜の祈り」と「わたし(たち)にとって大切なもの」の二詩からは引用しなかった。前者は、珍しく、是非この行をというものに出会わなかった。
後者は、全体を引用したくて、結局長くなりすぎるので避けた。が、好きな詩である。枕草子の<ものづくし>のように、最初の行は「~もの。」で始まる。
「何でもないもの。」「なにげないもの。」「ささやかなもの。」「なくしたくないもの。」「ひと知れぬもの。」「いまはないもの。」「さりげないもの。」「ありふれたもの。」「なくてはならないもの。」と続く。そこには、詩人の感性で選び抜かれた言葉が並んでいる。全部引用したくなる詩である。
最後の連だけ、引用しておこう。
もっとも平凡なもの。
平凡であることを恐れてはいけない。
わたし(たち)の名誉は、平凡な時代の名誉だ。
明日の朝、ラッパは鳴らない。
深呼吸しろ。一日がまた、静かに始まる。
まるで詩人になった気分で、それがあたかも私自身の言葉であるかのように、長田弘の詩集「死者の贈り物」から、昨日今日と、心に深く残った言葉を選んで記してきた。
また後日、三度(みたび)読み返せば、別な言葉が心に刻まれるかもしれない。いい詩とは、そんな力を持っているように思う。
私の人生の周辺にも、考えてみれば、<死者の贈り物>が、数々ある。詩人のように、表現できないままに……。共感した部分というのは、私の、表現し得ないまま心にくすぶっているもの、とも言えるだろう。
期待通りの、いい詩集だった。
この詩集を手にし、カバーの絵を見たとき、詩集の題名にふさわしい絵だと感心する一方、いつか見た絵のような気がした。
蝋燭の仄かな光に照らし出された顔、本を読む少年の姿、この絵そのものを見たという記憶は定かでないのだが、もしかして<ラ・トゥール?>と思いつつ、説明を見ると、やはりそうだった。
昨年の春、桜の季節に上京し、上野の国立西洋美術館で「ジョルジュ・ド・ラ・トゥール展」を観たのだった。40点ばかりの、数少ない展示だったのに、カバー絵の「聖歌隊の少年」があったかどうかは、よく思い出せない。その雰囲気から、ラ・トゥールの名を真っ先に思い出したのは正解だった。
この絵は、詩集「死者の贈り物」にふさわしい。