岡井隆編「集成・昭和の短歌」(小学館)
前川佐美雄(1903~1990)<菱川善夫選より>
http://www.town.shinjo.nara.jp/gyousei/gyousei_meiyo.html
時期については定かに思い出せないが、かつて朝日歌壇の選者だった。したがって、名前だけはよく知りながら、どんな代表歌があり、どんな歌歴を生きた人かはよく知らなかった。まとまった歌を読むのも初めてであった。
一読後、感動を共有できる歌や諳んじておきたくなるような歌は少なかった。
作者紹介には、<「心の花」入会、新井洸の都会的感性から影響をうける。新興短歌運動に参加。「植物祭」はシュールレアリスムの幻想的な感覚美を見せ、大きな評価を獲得。>とある。
引用文中の新井洸(1883~1925)についても知らなかったので、「現代日本文学大事典」や「日本名歌集成」で調べてみた。
代表歌として、
<人間のいのちの奥のはづかしさ滲み来るかもよ君に対(むか)へば>
が、あった。恋人だろうか、清純な女性に相対した時の、自らを省みての含羞がうまく表現されていると思う。こうした感情はよく理解できる。
前川佐美雄の場合、新しい感覚とその表現が、私の理解を拒むのかもしれない。以下に掲げる歌は、歌人の代表作ではないかもしれないが、私の心に残った歌を引用しておくことにする。
胸のうちいちど空にしてあの青き水仙の葉をつめこみてみたし
ぞろぞろと鳥けだものをひきつれて秋晴の街にあそび行きたし
天井を逆しまにあるいてゐるやうな頸のだるさを今日もおぼゆる
湖(うみ)の底にガラスの家を建てて住まば身体うす青く透きとほるべし
はっきりと個性をかざして来る友といさかひ歩くをたのしみとせり
(昭和5年、素人社刊「植物祭」より)
ゆく秋のわが身せつなく儚くて樹に登りゆさゆさ紅葉散らす
曼珠沙華赤赤と咲けばむかしよりこの道のなぜか墓につづくも
(昭和15年、甲鳥書林刊「大和」より)
春鳥はまばゆきばかり鳴きをれどわれの悲しみは混沌として
この国を今はほとほとあきらめて腐り残れる薯も食ひゐつ
(昭和21年、臼井書房刊「紅梅」より)
をりをりは首かしげ羽毛もつくろへり飛びて越えねばならぬ屋根ある
いくたびか豹変もせりあはれなるわが生きざまの今はゆるがぬ
(昭和39年、昭森社刊「捜神」より)
(昨夜、NHKの趣味悠々の時間に「リンクの張り方」について指導していた。早速、前川佐美雄の写真入り記事を見つけたので、私の記事に「リンクを張る」ことを試みてみた。張り方が正しいかどうか、よく分からない……。が、上記のURLをクリックすると、参考記事を読める仕組みにはなっている。)